アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(321)松浪信三郎「実存主義」

「実存主義(エグジスタンシアリスム)」とは、人間の実存(現実存在)を哲学の中心におく思想であり、「実存は本質に先立つ」というように、普遍的・必然的な本質存在に相対立する個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張し思索する哲学の立場の総称である。

「個別的・偶然的な現実存在の優越を本来性として主張する」というのは、より直接的に言って、形而上学的な神や理性や権利などの普遍的で本質的な哲学課題の解明よりも、個別的で偶然的な現実存在たる私に強烈に差し迫ってくる人間の不安や死そのものを優先して考える哲学に他ならない。それは実存哲学の登場の背景に実存主義の立場からする、神や超越に関し従来的なキリスト教観念に基づく宗教哲学への不信があったし、同時代に並行してあったヘーゲル哲学の一元的世界解釈の量的弁証法と、後のマルクス主義の唯物論的弁証法の合理的規範哲学に対する批判も同時にあった。

実存哲学の創始とされるニーチェが活動した19世紀には、彼の「神は死んだ」の叫びに象徴されるように、もはやキリスト教信仰の宗教そのものが人々からの支持を急激に失いつつあったため、西洋哲学は神の超越や人間の死について、神秘的で非合理な信仰なしに正面から誤魔化すことなく思索することを切に求められていた。19世紀の実存主義の時代には、「哲学は信仰のために場所をあけておく」といった従来のカント哲学にて宗教と哲学の共存を目するような悠長な哲学状況には、すでになかったのである。

また同様に実存哲学の先駆とされるキェルケゴールにおいて、同時代のヘーゲル哲学でいくら弁証的発展を経て絶対精神が世界史の中で必然的に漸次に体現されても、後のマルクス主義にて人間疎外の現実が止揚され各人の権利が一様に普遍的に保障されようとも、それらは形式規範的な量的弁証法でしかなく、個別的で偶然的な現実存在である私にとっての私自身の死への不安や絶望の問題は何ら解決されないとする不信があった。ゆえに、それらヘーゲル・マルクス的なものへの対抗から、普遍的で必然的な本質存在の理念想定を排して、個別の人間主体における不安や死の非合理なものを徹底的に考察する質的弁証法の実存哲学になるのであった。

さらには当時の産業社会が勃興しつつある時代にて、人間存在が効率や有用性の観点から手段的物として使い倒されてしまう「道具存在」(××のためにあるもの)や、ただ単にそこにありあわせてある「事物存在」(単なる光景としての存在)であるような人間理解に対する、実存哲学からの強い批判もあった。

実存哲学は、以上のような(1)キリスト教信仰に関する不信、(2)ヘーゲル・マルクス哲学への対抗、(3)産業社会(「道具存在」「事物存在」的な人間理解)に対する批判として何よりもまずあった。だから実存哲学は、個別的で偶然的な現実存在たる私に強烈に差し迫ってくる人間不安の絶望や死そのものを常に優先し率先して考えるのだ。

岩波新書の青、松浪信三郎「実存主義」(1962年)はこうした実存哲学全般について、その成立前提の歴史的系譜、「人間実存ないしは実存主義とは何か」の一般定義、サルトルら実存哲学思想の概要紹介の内容である。本書では「要するに、実存とは何か?」の実存主義の定義をまとめた26ページからの記述と、実存哲学を一つの大樹に見立てて、キリスト教や古代ギリシア哲学など、その前身系譜の根っこから、ニーチェやキェルケゴールら実存主義の中心をなす太い幹の重要哲学者たち、さらにはカミュやハイデッガーら実存哲学に基づき自らをより発展させた枝葉の実存哲学周辺の諸哲学者たちを一目で確認できる「実存主義の樹」の37ページのイラスト図が大変に参考になる。それらが本新書での読み所である。

「実存主義とは、『事物の存在』とは異なる『人間存在』の特有なありかたをあくまでも守りぬこうとする思想的文学的な動きをいう。実存主義を育てた第二次大戦直後の思想的状況と、実存思想の歴史的系譜を語り、ハイデガーやサルトルの思想を紹介しつつ、実存、自由、状況、他者、不安、賭、価値、神など実存主義の諸問題を論ずる」(表紙カバー裏解説)