アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(217)山我哲雄「キリスト教入門」

岩波ジュニア新書は10代の中高生向けに書かれた岩波新書のジュヴナイル(少年少女向け読み物)であるが、そうしたティーンエイジャーが読むライトな読み物と思って軽い気持ちで読んでいると、文章表現は易しいけれど内容が思いの外、本格的であり高度で「もはや大人向けの新書だ。こうした岩波ジュニア新書をスラスラ読めて理解できる中高生も世の中にはいるのか。10代の若さでこれだけの新書内容を理解できれば大したもの、むしろ早熟すぎる」の感慨を中高年(要はおっさん)の私は岩波ジュニア新書を読んで時に持つことがある。

岩波ジュニア新書のキリスト教関連でいえば、以前に岩波ジュニアの岩田靖夫「ヨーロッパ思想入門」(2003年)巻末の「読書案内」にて、田川建三「イエスという男」(1980年)を岩田靖夫が、まだ若い10代の岩波ジュニア新書の読者に推薦していて私は笑った。何と難しく癖のある大人が読むような書籍を、岩田は場違いにも岩波ジュニアの若い読者に勧めることか。確かに10代の頃から田川建三の新約聖書研究を読んで理解できている若者は将来有望だ。「ヨーロッパ思想入門」の岩田靖夫とは違って、自分の家族や身近な10代の若い人達には、かなり癖があるマルクス主義かぶれの「赤いキリスト教」、かつ日本の新約聖書学の「黒い最終秘密兵器」の感がある相当に強烈な田川建三のキリスト教書籍など「まだ読ませたくはない」と私は思うのだけれど(笑)。

さて、岩波ジュニア新書の山我哲雄「キリスト教入門」(2014年)である。本書は「キリスト教の伝道布教のためのものではなく、世界の思想や歴史や社会に大きな影響を与えてきたキリスト教について正しく適切に理解するために、ノン・クリスチャンを読者に想定した、非キリスト教徒のための教養としてのキリスト教入門」であると著者はいう。

岩波ジュニア新書「キリスト教入門」は、古代の「ユダヤ教とキリスト教」の異同から「歴史的存在としてのイエス」、そして「キリスト教の成立」、それから「キリスト教の発展と東西分裂」、さらには近世の「宗教改革とプロテスタント教会」まで西洋キリスト教史の概観的な内容である。「筆者はこれまで、本や雑誌を通じて、聖書やキリスト教についての入門的な文章を何度か発表してきました」ということもあり、著者の山我哲雄の「キリスト教入門」の説明の仕方が非常にこなれていて「なるほど」と感心させられる解説もあれば、他方で、よくある無難なキリスト教史の概説書同様「これはダメだ」と読んで思ってしまう案外にいい加減に書き流した失策箇所も正直ある。

特に後者の「これはダメだ」の点でいえば、キリスト教がローマ帝国下にて最初は弾圧されていたのに、後に公認され最後は国教化される、ローマ帝国の世俗の政治権力とユダヤ教の神殿祭司の旧宗教的権威により処刑されたイエスを起源とする世界宗教たるキリスト教が、迫害からなぜ一転して後にローマ帝国に公認され国家を後ろ楯とした一大宗教権力になってしまうのか。本書にもそれらしきことは説明されているが(97・98ページ)、その事情を古代キリスト教の実情に即し内在的に明確に述べ指摘した人はあまりいない。少なくとも私が知る限りでも、前述の新約聖書学者の田川建三を始めとして数人しかいない。やはり大人の読者には田川「イエスという男」ほか、田川建三の新約聖書学の一連の仕事を私はお勧めする。

「おわりに・キリスト教と現代」では今日的なキリスト教の課題にも触れており、「キリスト教系の新宗教」としてエホバの証人と統一教会についての一通りの解説もある。それら「新宗教」に対し中傷批判の攻撃にならないよう非常に気遣いながらも、「マインドコントロール(洗脳)の疑い」など旧約聖書学専攻の「正統な」キリスト教研究者たる著者の筆が、ついすべってしまうのは笑い所か。

それにしても岩波ジュニア新書「キリスト教入門」の著者は、キリスト教研究の山我哲雄である。日本の宗教学者で神道と仏教研究にて多数の著作を出している山折哲雄もいる。山「我」哲雄と山「折」哲雄の名前が一字違いで非常にまぎらわしい。「同時代の同じ宗教学者で、こうした名前酷似の偶然もあるのか」と私は驚く。

「二千年に及ぶ歴史を通じて、欧米の文化の精神的支柱としての役割を果たしてきたキリスト教。本書を読めば、ユダヤ教を母体として生まれ、独立した世界宗教へと発展し、諸教派に分かれていったその歴史と現在や、欧米の歴史、思想、文化との深い関係を学ぶことができます。異文化理解のための、教養としてのキリスト教入門」(裏表紙解説)