アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(216)武谷三男「安全性の考え方」

2011年の東日本大震災に伴う福島第一原発の放射能漏(も)れ過酷事故を受けて一時期、私は原発関連の書籍を集中して読んだことがあった。その時に「これは戦後の日本の原発是非の議論の中で同時代人よりも頭一つ抜けている」「昔に書かれた書籍なのに2010年代の今でも読まれる価値がある」と思えたのは理論物理学者、武谷三男の一連の仕事であった。武谷三男は岩波書店の雑誌「科学」によく寄稿していたので、岩波編集部とのつながりから岩波新書にて数冊の著作を出している。例えば、青版の「死の灰」(1957年)や同じく青版の「原子力発電」(1976年)などだ。

岩波新書の青、武谷三男「安全性の考え方」(1967年)は数人による分筆で武谷編の新書となっている。昔からよく指摘されるように、本書にての「許容量」の概念定義が非常に優れている。その「許容量」の概要は当時の社会に影響を与え後の国際社会にて広く認められることとなった。本書で説明される「許容量」の概要は以下だ。

「許容量」についての定義以前に、本新書タイトルにもなっている「安全性」の定義がそもそもある。すなわち「安全性」とは、ある物事についての安全(リスクが許容可能な水準に抑えられている状態)の度合いのことである。 言い換えれば、安全とは事故・災害・犯罪などの危害に対して個人や一般社会が許容できる限度に抑えられている状態のことをいう。安全について公的な国際規格の定義は、「安全とは許容できない危害が発生するリスクがないこと」と定義されている。安全性の対義語は危険性である。つまりは安全性とは、個人や社会がリスクをそこまでは許容することができる許容の度合い(許容量)に他ならない。

では、その安全性の内実をなす「許容量」とは、どういうものかといえば本書には以下のようにある。

「許容量」という概念は、その量までは許してよい量、危険のない量といわれているが、それは間違いで、その量まででも危険があるかもしれないが、そのものを使うことの有害さと引き換えに有利さを得るバランスを考えて、「どこまで有害さをがまんするかの量」を許容量という。許容量とは利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである(「利益と有害のバランスが許容量」122・123ページ)

武谷「安全性の考え方」が優れているのは、安全性とは、個人や社会がリスクをそこまでは許容することができる許量の度合いであるとする許容量そのものについて、「その量までは無害で危険がないので許してよい、ただし、これ以上許したら害が生じるので危険である」の致死量と単純に混同されがちであった純科学的な「許容量」(害か無害か、危険か安全かの境界として科学的に決定される量)の従来的な考えを脱している所だ。科学が個人や社会に及ぼす利益と不利益の観点から、マイナスとプラスを天秤にかけて「たとえ有害であっても、この程度までのマイナスはがまんしてもいいのではないか」「最終的に個人や社会が被(こうむ)る危険(リスク)被害よりも、それによって受ける利益の方が総体的に大きくプラスになるのでギリギリの所でがまんできる」そういった社会科学的な概念にまで許容量の定義が、ここでは高められている。つまりは「致死量」などの科学的観点の厳密さからだけではなくて、有害のリスクがあっても辛抱できるという「人間社会にとっての価値」という社会科学の観点から許容量の概念がつき詰められているのだ。

例えば、原発推進派が原子力発電所の安全性を強調する際に自動車の危険性と比較して次のような主張が時になされる。「自動車事故は日々頻繁に発生し多くの人が車の事故により亡くなっているが、他方で原発の事故は滅多に起こらず自動車事故よりも発生確率が少ない。かつ原発事故によって亡くなった人は交通事故での被害人数のそれよりも遥かに少ない。だから原発は自動車よりも安全である」。

実際の死者統計を見れば、確かに自動車事故で死亡している人数の方が原発事故のそれよりも圧倒的に上回っているので、致死という意味での「許容量」からすれば「自動車の方が原発より安全ではなく危険だ」と一見思える。しかしながら、武谷「安全性の考え方」における「許容量とは利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念(人間がどこまで有害さをがまんできるかの量)」とする定義に従うなら、発生確率が低く従来事故による死亡の統計人数が少なくても、万一の原子炉の非制御で爆発したり放射能が外部に漏れたりの過酷事故が発生した場合、原発現場の多くの技術者・労働者は死を含む健康被害の危機的状況に直面し、原発周辺地域は居住不可の強制退去になり住民の日常生活は脅かされ、近隣の農作物や海産物への放射能汚染の被害も甚大で、その危害(リスクとコスト)の影響は修復できない程に計(はか)り知れない。こうした点から、「許容量とは利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念(人間がどこまで有害さをがまんできるかの量)」として考えると、発電の利益よりもまさかの事故により個人と社会全体が被る不利益の方が圧倒的に勝(まさ)り突出している原発は、自動車よりも許容量観点からして相当に安全性が低く、危険性がかなり高いといえる。

他方、自動車の安全性を考えると死亡事故統計を見れば車は危険である。だが、その一方で自動車を利用することの利益も人々や社会全体が享受しているのであって、交通死亡事故の発生危害の不利益とのバランスを考えた場合、総体的に自動車を利用することの利益の方が不利益を上回っている。科学が個人や社会全体に及ぼす利益と不利益との観点から、マイナスとプラスを天秤にかけて「たとえ有害であっても、この程度までのマイナスならば、がまんしてもいいのではないか」の許容量の判断から、総じて自動車は危険性が低く安全性が高いといえる。

車の安全性について、例えば電車やバスの公共交通機関がない、地方や孤立した集落の住民で日々車の利便性・必要性を実感している人達は、「時に事故はあっても自動車は安全だ」と言う傾向にある。他方、交通死亡事故被害者の遺族や関係者が「やはり車は危険だ」と強く主張し車中心社会の現代に警鐘を鳴らすのは、その主張の立場にある当人(たち)にとっての「たとえ有害であっても、この程度までのマイナスはがまんしてもいいのではないか、ギリギリの所でがまんできる」とする社会科学的概念の許容量に彼らが暗に依拠しているからに他ならない。交通死亡事故で肉親を亡くした遺族や関係者にとって「車は安全ではなくて危険」と強く思えるのは、自動車に関する利益と不利益とのバランスにて、日々車を利用する快適・利便のプラスよりも、自動車事故によって近親の者を亡くした危害のマイナスの方が上回り我慢できず、安全性の許容量(リミット)を超えてしまうからだ。

このように考えてみると、本書にて展開される武谷の「安全性の考え方」における「許容量」概念を実は多くの人々が無意識であれ、すでに社会的に広く共有し自身にとっての「安全」の判断基準にしていることが分かる。もはや繰り返すまでもなく、安全性とは「致死量の境界数値を越えない」とか「統計からする事故発生確率の少なさ」の単なる機械的な数値・確率統計ではなくて、個人や社会に対する総合的な判断から「どれまでのリスクをがまんし受け入れることができるか」の人間にとっての社会科学的な許容量なのであった。

岩波新書「安全性の考え方」は全13章よりなる。1章から9章までは、安全性の問題についての具体的なトピックである。プラスチック食器に含まれるホルムアルデヒドが加熱により溶解する健康被害、四日市ぜんそく、水俣病、白ろう病(動力鋸(のこ)を使う山林労働者の間に発生する振動障害の職業病のこと)、放射能汚染と被曝、沼津市・三島市・清水町への石油コンビナート誘致の問題、一般販売薬剤(中外製薬「グロンサン」)の薬効に対する疑義などだ。10章から13章までは理論的な「安全性の考え方」についての考察である。科学的数字の取扱い方、「原因を1つに特定できない」「現時点では有意な因果関係は認められない」の文言(いわゆる「原因不明」のからくり)で責任回避される科学の健康被害の問題、公害訴訟や労働災害補償にて個人が行政や企業に責任追及しても政府や企業が法的に守られ、被害者が放置され孤立してしまう「法律の限界」の問題、目先の利益や効率を第一に追求するため規格・規範の安全性がなおざりにされてしまう構造的問題が提起されている。これら各論考は、本書出版時1960年代の戦後日本での各地域の公害訴訟や職場での労働運動や全国的な消費者運動の、当時の市民運動の高まりを背景にしていた。

最後に、岩波書店による岩波新書の青、武谷三男「安全性の考え方」の公式紹介文を載せておく。

「現代文明の中での生活は、さまざまな危険に囲まれている。私たちはこのような危険性をどう考えればよいのだろうか。本書は、四日市ぜんそく、水俣病、白ろう病、放射能汚染、薬害などの実状とそれとの闘いを報告するとともに『許容量』の概念を明確にするなど『安全性』をどう考えるべきかを根本的に究明し、確立した先駆的な書である」