昔の人は、今の人とは違い詩集を読んだり詩作をよくしたという。同様に和歌にもよく親しんだ。岩波新書の赤、斎藤茂吉「万葉秀歌」上下巻(1938年)は戦前の新書であるが、初版からの累計出版数にて歴代の岩波新書の中でベストの上位に常に位置し、これまで長きに渡り多くの人に読まれてきた。
「万葉秀歌」というのは、「万葉集」の中から「秀逸」な歌を選びまとめたもので、だから「万葉秀歌」の当て字タイトルになっている。選者で評釈者たる本書の著者、斎藤茂吉によれば、「選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、数は先ず全体の一割ぐらいの見込みで、長歌は罷(や)めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか」。
また本書の概要については、「『万葉集入門』として本書の右に出るものはいまだない。万葉の精神をふまえて自己の歌風を確立した一代の歌人たる著者が、約四百の秀歌を選び、簡潔にしてゆきとどいた解説を付して鑑賞の手引きを編(あ)んだ。雄渾(ゆうこん)おおらかな古代の日本人の心にふれることにより、われわれは失われたものを取り戻す(全二冊)」(表紙カバー裏解説)
古代の万葉人にとって人生に余計な小細工は要らない。山に吹き上げる風や、漕ぎ出す海の波や、夜の月の光や、思いを寄せる愛する人がいれば、それでよいのである。現代人の私たちのような変な対人駆け引きや、他者よりもの優越や、言葉の裏の意味や、世間での虚栄の虚飾など何ら必要ないのであった。
斎藤茂吉「万葉秀歌」は短期間で一気に集中して読了するのではなく、日々携帯して外出先などで時間が空いた時に何度も繰り返し少しずつ読み返すのが楽しいと思える。たとえ和歌の知識がなくとも何度も読み返しているうちに、各歌の意味や味がそれとなく分かってくるのだから不思議だ。
本新書を私は一時期、必携しよく読んでいた、駅のホームで、食堂にての食前食後などに。ところで、街中で人が本を開いて読んでいる姿は、だいたい美しく見える。かたや、人が携帯電話やスマートフォンやパソコンの画面を覗(のぞ)いている姿は、あまり美しく見えない。
事実、映像仕事をしている人に言わせれば、人が携帯電話やパソコンの小さなモニター画面を上から覗き込む姿は映像として美しくないという。逆に人が大型ビジョンや映画スクリーンなど自身よりも大きな画面を見る姿は美しく見える。ちょうど人間が広大な空を見上げる姿が美しく見えるのと同様に。だから、携帯電話やスマートフォンなどの小さな画面を見つめる人間の映像をどうしても撮らなければならない場合には、撮影プロの人は、わざと小さなモニター画面を自身の頭上に掲げ、下から出来るだけ距離を離して見る人間の構図にするそうだ。
こうしたスマートフォンなど小さなモニター画面を見つめる人の姿が美しくないのに比べて、本を読む人の姿がいつでも例外なく美しく見えるのは、なぜだろう。私は、なるべく公共の人前では携帯電話やスマートフォンやノートパソコンの画面は開かず覗かずに、逆に書籍を開いて本を読むようにしている(笑)。