アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(513)ドイッチャー「ロシア革命五十年」

前回に引き続き今回も「ロシア革命」についての話である。

ヨーロッパ近代史を本質的に知るには、それぞれに各地域で起こった市民革命を中心に学ぶのが有効だ。西洋近代において、特に注目すべき革命はイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命に加えてのロシア革命の「三大革命プラス1」である。これら4つの市民革命の共通と相違とに留意しなから歴史を概観するとよい。

念のため「ロシア革命」の概要を確認しておくと、

「1917年にロシアで起こった三月革命(ロシア暦二月革命)と十一月革命(ロシア暦十月革命)のこと。特に史上初の社会主義革命である後者を指すこともある。第一次世界大戦中、ロシア社会の矛盾は一層深刻になった。外国資本は引きあげ、低い労働条件はさらに低下し、労働者は革命化した。また軍は拙劣な指導と劣悪な装備のため連敗し、兵士も革命化した。さらに戦争への農民・家畜の動員は農業生産を低下させ、輸送ルートは麻痺して、都会の食糧危機を招いた。1917年3月、首都の食糧危機が原因で革命がおこり、300年あまりに渡ったロマノフ朝の支配は終わった。その後成立した臨時政府はブルジョアジー側に立ってイギリス・フランスとの関係を重視し、戦争継続策をとったが、労・農・兵はパンと平和を求めてソヴィエトに結集し、二重権力の状態となった。ボリシェヴィキの指導者レーニンは亡命先から帰国後、ソヴィエト内での勢力拡大に成功し、11月7日臨時政府を打倒し、社会主義政権を樹立した」

そもそも「騒擾・クーデター」は、人々の漠然とした不満が渦巻いて蜂起の無秩序の内に現体制が倒されたり、軍部やそれに類する政治組織が軍事的な非合法の権力奪取にて現政権を倒して取って代わる混乱である。他方「革命」とは、確固たる新たな政治体制や社会観をもって現政権を打倒した革命勢力による新秩序(政体や憲法や経済体制ら)構築のための権力体制や組織構造に関する根本的な社会変革のことである。騒擾・クーデターの単なる無秩序の混乱とは異なり、革命には一時的な混乱があっても後の新たな秩序形成を必ず伴う。何となれば、「革命(レボリューション)」の原義は「回転する」であり、これは天文学での天体の回転運動に由来する用語だからである。天文学にて天体の回転は時間経過で様々な位相を示すけれども、常に一定の秩序立てた星座構成を維持しながら、周期を巡りやがては元に戻る。天文用語に由来する「革命」概念は、天文学での天体の規則正しい回転のように、抜本的社会変革を経て後に新秩序形成に至り、世界史が新たに転回(展開)するイメージであるのだ。

ゆえに転回する世界史の革命には、従前のやがては打破される旧体制と、後に新たにそれに取って代わる革命勢力との間に明確な対照の対立点が存在し、その対立点をいわば「革命論点」として革命が進行するのが常である。そうした「旧体制と革命新勢力との間での相違、何をめぐって対立し遂には革命にまで至るのか」の革命論点について西洋近代の市民革命、「三大革命プラス1」に関し、それぞれ以下のようにまとめることができよう。

☆イギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)は、旧体制の絶対主義(イギリス国教会)と、新体制の国王権力制限の立憲君主制(英国カルヴァン派の清教徒)との間での政体の問題。☆アメリカ独立革命は、本国イギリスの立憲君主制と、独立を果たそうとする新興国アメリカの王権否定の共和制との間での政体の問題。☆フランス革命は、前半の革命勃発・七月革命は旧体制の絶対主義(ブルボン王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の二月革命・パリコミューンは、革命時の一大勢力たる共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。☆ロシア革命は、前半の三月革命は旧体制の絶対主義(ロマノフ王朝)と、新体制の王権廃止の共和制(市民階級)との間での政体の問題。後半の十一月革命は、革命時の臨時政府の共和制(市民階級)と、資本主義否定の社会主義(労働者階級)との間での経済の問題。

近代の革命にて、国王専制の絶対主義から制定憲法により国王の権力制限の立憲君主制への移行、ないしは国王専制の絶対主義から王権廃止の共和制への移行の革命は、主な担い手が新興の市民階級(ブルジョワジー)だったことから市民革命(ブルジョワ革命)という。市民革命では前近代の封建的身分制が廃止され、個人の自由を保障する社会の形成がめざされた。続く市民革命後の資本主義から資本主義否定の社会主義への移行の革命は、主な担い手が労働者階級(プロレタリアート)だったことから社会主義革命(プロレタリア革命)という。社会主義革命では近代の私有財産制(資本主義)が否定され、生産手段の公有化による経済上平等な社会(社会主義)の形成がめざされた。

イギリス革命からロシア革命までの「三大革命プラス1」にて、フランス革命は画期であった。フランス革命以前のイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)とアメリカ独立革命では、革命論点は絶対主義から立憲君主制ないしは共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)の単一論点だけだった。ところがフランス革命以後、革命は一つの論点で終わらずに、絶対主義から共和制へ移行の政体の問題(ブルジョワ革命)に加えて、資本主義から資本主義否定の社会主義へ移行の経済の問題(プロレタリア革命)の二つの論点を含む複合革命となっている。

フランス革命以後の世界において、市民革命にて達成された、前近代の封建制を脱しての個人の「自由」保障だけでは不十分になっていた。革命が呼び寄せる世界史の新たな時代の転回は近代の資本主義社会も脱して、遂には人々の貧困の生活苦、「平等」保障の経済格差の問題にまで踏み込まなければならないのであり、そこに市民革命を経ての更なる社会主義革命勃発の世界史の必然があった。フランス革命での七月革命と二月革命、ロシア革命での三月革命と十一月革命というように、革命論点は単一の市民革命(ブルジョワ革命)のみで終了せず、必ず市民革命の後に社会主義革命(プロレタリア革命)を連続して伴うニつの論点の複合革命(ブルジョワ革命+プロレタリア革命)の様相であったのだ。この意味で「三大革命プラス1」の中で、確かにフランス革命は一大画期だった。

さて、史上初の社会主義革命であるロシア革命を成就させた革命指導者のウラジーミル・レーニンは労働者階級(プロレタリアート)の共産主義者であったため、十一月革命以前は三月革命を経て成立したロシア本国の臨時政府(ブルジョワ政権)からの弾圧を逃れてスイスに亡命していた。その時、ケレンスキーが首相の臨時政府のロシア共和国は、第一次世界大戦に参戦しドイツと戦争していた。そこで交戦国のドイツはスイスに亡命中のレーニンに封印列車(レーニンら革命家にドイツ通過中は列車外との接触を禁じるという条件で乗車させた特別列車)を提供しロシアに帰国させる。ブルジョワ政権の臨時政府への対抗で、レーニンのボリシェヴィキら共産主義者を支援しプロレタリア革命運動を焚き付けて目下、交戦国であるロシアの内部崩壊を狙ったのである。

そうしてロシアに帰国したレーニンは武装蜂起し、遂には臨時政府を倒してソヴィエト政権を成立させる(十一月革命)。臨時政府のロシア共和国に取って代わった社会主義政権のソ連は、自国にかなり不利な条件のもと即時講和の戦争離脱の方針(「平和に関する布告」)を打ち出し、また他地域でのプロレタリア革命勃発の連鎖を恐れる欧米各国による、社会主義国・ソヴィエトに対する厳しい包囲網たる反革命の対ソ干渉戦争を招いて、ドイツの当初の思惑通りソヴィエトは一時的に弱体化した。

戦争で敵国に勝つためには、戦場にて直接的に軍事力で相手を圧倒する以外に、交戦相手の政府に敵対する反政府勢力を秘密裏に支援して、戦時に政権交代の革命やクーデターを促すことで敵国を内部崩壊させ間接的に結果、戦勝を得るやり方もある。これは効率的な謀略であり、極めて高度な政治的裏工作である。レーニンによる史上初の社会主義革命であるロシア革命の成就には、こうした当時の交戦国・ドイツからする謀略の後押しもあったのである。