アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(504)渡辺洋三「法とは何か 新版」

一般に「××とは何か」というタイトルの書籍は、「××とは××である」とする著者による主張の定義文を押さえれば一応は読み切れたといえる。岩波新書の赤、渡辺洋三「法とは何か・新版」(1998年)においても、「法とは××である」の著者の主張文をまず押さえることが肝要だ。それは本新書では以下のような手順で明らかにされている。

岩波新書「法とは何か」にて、著者は「法とは何かを考えるうえで最も大切なことは、法の精神とは何か、ということである」と最初に述べる。その上で、

「法の精神とは、一言で言えば、正義である。それゆえ、法とは何かという問いは、正義とは何か、という問いに置きかえられる。…だから、法を学ぶ者は、正義を求め、正義を実現する精神を身につけなければならない」(8ページ)

とするのである。ただ「法的正義の精神」とは言っても「正義」の内容は曖昧(あいまい)である。そもそも「正義」とは、得てして各人が「これこそが正しい、これが正義だ」と信じる主観的思い込みの暴走を招きがちなものであるし、また「正義」には反対の「悪」を発見し排斥して「悪」を壊滅させることに力点がいつの間にか移り、特定他者を勝手に「悪」と決めけ勧善懲悪の憎悪の他罰感情の爆発に任せて他人を攻撃する安直な事態にもなりかねない。「法的正義遂行」の名の下に自身のあらゆる言動が果てしなく正当化されてしまうこともある。こうした「法的正義遂行の罠」も著者の渡辺洋三はあらかじめ心得ており、実に周到である。すなわち、

「法というものをイメージする場合、ひとはしばしば、それを動かないもの、固いもの、秩序維持のためのものと、とかく考えがちである。しかし、それがいかにあやまったイメージであるかは、…いずれにせよ、法に関心を持つ者は、法的正義のゆくえを自分で見きわめ、時代の法思想をわがものとしなければならない。法的正義の問題は、根本的には、『人間の尊厳』にかかわっている。人類の歴史は、過去に数えきれない過ちとおろかさを繰りかえしてきたとはいえ、また前進と退歩のみちをジグザグに歩んできたとはいえ、それにもかかわらず、長い目でみれば、『人間の尊厳』をめざす闘いの歴史であった」(17ページ)

と述べて「法的正義」=「人間の尊厳性」の自覚と明確に定義付けるのであった。この「人間の尊厳性」の自覚とは思想的表現であり、それを法律学の制度的表現に対応させれば、「各人の基本的人権の保障」になる。岩波新書「法とは何か」において、法とは「法の精神」のことであり、それは「法的正義」=「人間の尊厳性の自覚」=「各人の基本的人権の保障」と定式化されるのであった。

岩波新書「法とは何か・新版」は全七章で3つの主な内容セクションよりなるが、最初に「法とは何か」の総論で抽象的な定義をなした後、次に「法の歴史的変動・欧米型と日本型」の項にて近代日本の法制史をさかのぼり、西洋の法律学(「欧米型」)との比較にて、明治から1945年の敗戦に至るまでの戦前の近代日本の法律(「日本型」)が、上からの国家権力の統制支配の手段に終始し(近代天皇制国家の体制維持のための道具としての法であったという歴史的事実!)、国民への権利保障の側面が極めて弱い近代日本の法体系を誠に厳しく批判的に概観する。そうして最後に「現代日本の法システム」にて、家族制度に関する民法や土地制度や消費者保護法、司法の裁判制度や労働法、子どもの権利保護、国際的な人権法らの各論で、「法的正義」=「人間の尊厳性の自覚」=「各人の基本的人権の保障」の観点から一貫して、現代日本の法制度の不備と日本社会での人々の法の精神の問題性を指摘するのであった。

原理的にいって、人間の尊厳性の自覚に裏打ちされた各人の人権保障である法的正義の実現は、それ自体独立して漠然となされるわけではなく、人権を侵害し常に抑圧する者と、人権を侵害され絶えず抑圧される者との対立の対抗関係であるから、人権保障の法理論に関しては、国家と国民、軍隊・警察と市民、資本家と労働者、企業と消費者、多数の日本人と少数の在日外国人など、現実具体的な対抗関係になる。そうして著者の渡辺洋三が重要視して法的保障を強く訴えるのは、悉(ことごと)く後者の「人権を侵害され絶えず抑圧される者」たる国民一般であり、労働者で消費者であって、またマイノリティ(少数派)の在日外国人の方である。そして前者の時に「人権を侵害し抑圧する」側の国家や軍隊や警察、企業の資本家は、法的権力濫用の弊害観点から著者の渡辺により、時に不当なまでに極めて厳しい筆致で批判的に書かれることになる。

以上のことから、本新書に関しては毀誉褒貶(きよほうへん)が激しく、本書を好意的にかなり高く評価する人々がある一方で、本書に対し全体に厳しく異常に批判的で低評価な書評やブックレビューも目立つ。岩波新書「法とは何か」に関しては、賛同の高評価と全く同意しない完全否定の低評価の、両極端な評価が混在している。いうまでもなく、本書に好意的で高評価を下すのは個人の人権保障やマイノリティの弱者の権利保護に熱心な政治的左派、国際的な人権論者や市民運動のリベラルな人達であり、他方、本新書に対し異常に厳しく非難轟々(ひなん・ごうごう)で痛烈なのは右派保守や伝統的な国家主義思想の持ち主たちなのであった。また、そうした本新書に対し極めて厳しい低評価を下す人は、現実の社会の立場でも政府や自衛隊や警察、企業経営者や管理職ら、果てしなく個人の権利保障を追求するよりは、国家の発展や社会秩序維持のために上からの統制・処罰をなす体制側に属する人、ないしはそうした体制側の思想に心情的に同調する人々が多い。

確かに、著者の渡辺洋三は本論の中で「国家の法」と「社会の法」という二分法にて法には、国家社会の秩序を守るために統制・処罰するもの(これは「国家の法」であり、例えば刑法、行政法、道路交通法などが該当)と、政治権力からの不当な抑圧介入を防ぎ個人の権利保障をなすもの(これは「社会の法」であり、例えば憲法、労働法、環境権ら今後に法的整備が求められる新たな法律などが該当)の2つの側面があることに一応は触れている。しかし、本新書で主に論じられ絶えず強調されるのは、後者の「社会の法」の権利保障としての法の側面であって、他方の「国家の法」の人々が遵守すべき法律規範やサンクション(制裁・処罰)の制定と運用に関し著者は極めて消極的で、それへの言及は本論ではかなり少ないのである。

これには、岩波新書「法とは何か」以外の渡辺洋三の著作も通読すれば分かるが、以下の主な理由が考えられる。

(1)明治から1945年の敗戦に至るまでの戦前の近代日本の法について歴史的概観をなした時に、日本では法全般が上からの国家権力の統制支配の手段に終始し、国民への権利保障の側面が極めて弱かったという近代日本の法体系についての批判と反省の意識が、法学者の渡辺洋三の中でかなり強いため。

(2)そもそも渡辺洋三は、戦後に東京大学で「川島法学」と呼ばれる法学を成した川島武宜の弟子に当たる人で、師の川島武宜その人が、左派リベラルな「戦後民主主義」の中心的な担い手の一人であり、川島は、国家(政治権力)よりする法を介しての上からの国民の服従義務ではなく、個人の権利を保障するような法律の制定・運用の意識がもともと日本人は希薄であるとする「日本人の法意識」についての問題指摘を熱心に強くなした法学者であった。そのような師である川島武宜の問題意識を引き継いで、「川島法学の正統な後継者」として渡辺洋三はあったため。

少なくとも以上の2点が押さえられ理解された上で、法学者の渡辺洋三の著作は読まれなければならないだろう。むしろ、これらの点を踏まえるなら、渡辺の書籍を読んで「法を個人の権利保障の装置として捉える思考が強すぎる」などと安易に激怒してはいけない。

岩波新書の赤、渡辺洋三「法とは何か」は、昔から読み継がれている法学の初学者に向けた入門の書であり、大学の法学部にて新入学の学生にまずは本書を読んでレポート提出を課すような定番の書籍である。渡辺「法とは何か」が「新版」として1998年に改訂されたのは、本新書の記述内容の全面的な変更ではなくて、著者の法への基本的な考えはそのままに、判例データの更新に加えて、時代の変化に合わせた国際的な人権思想やマイノリティ保護ら、著者が言うところの新たな「法的正義」の内容を加えるべく、従来の旧版の基調はそのままに著者の法的正義に関する思想をより充実・強化させるものであった。この意味で岩波新書「法とは何か・新版」は、旧版の「法とは何か」とは何ら内容に本質的な変更はない。

「法の精神とは何か。また現代社会の法体系とはどのようなものか。私たちの生活とどう関わり、どのような影響を及ぼしているのか。著者は、長く読みつがれてきた『法とは何か』(1979年刊)をほぼ二0年ぶりに全面改訂、データを一新するとともに、人権また国際法の分野をくわえた。構想あらたに書き下ろされた学生そして社会人のための最良の法学入門」(表紙カバー裏解説)