アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(430)中村邦生「はじめての文学講義」

岩波ジュニア新書の中村邦生「はじめての文学講義」(2015年)は、渋谷教育学園渋谷中学高等学校にて(私は本新書を読むまで知らなかったが、本校は中学受験の世界では「渋渋」と略称され、都内の中高一貫校の中では有数の入学難関校であるという)、作家であり大東文化大学文学部教授である中村邦生が、中高生の前で実際に行った「文学講義」の講演を録音し、そのまま文字起こしし加筆修訂して書籍に収めたものである。

ゆえに本書の冒頭では、生徒代表による「開演の挨拶」のとても丁寧な演者紹介から始まって、本講演があり、参加生徒との質疑応答もあって、最後はまた生徒代表による「中村先生、ありがとうございました」の「終わりの挨拶」まで当日のプログラムを律儀(りちぎ)にそのまま活字収録している。

ところで文学といえば、私は昔から、例えば文学者の大江健三郎が好きで氏の小説を今でも日々、愛読しているが、昔の大江健三郎のエッセイを読むと「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」といった文学に突きつけられた難題に大江は多くの字数を費やし結構、真面目に答えていた。それに類する「文学は実生活で役に立つか?」の問いが本書「はじめての文学講義」の中にもある。著者の中村邦生は中高生の前で、これまた結構、真面目に文学に対するこの手の疑問に反駁(はんばく)し答えている。すなわち、

「結論から先に言ってしまえば、文学というものは、そのような問題の前提そのものを疑うのです。つまり〈役に立つ/役に立たない〉という二つの区分が絶対的に存在しているような発想って本当なのだろうか?『そもそも、そのような分け方っておかしくない?』と問題設定の有効性を疑います。問題の前提そのものを付き崩すわけです。役に立つとか立たないとか、そうした乱雑な分け方をする発想がいかに浅薄(せんぱく)なものであるか…世の中に流通している価値観への疑念と言ってよいかもしれません。…ですから文学とは日常の当たり前に思える発想を揺さぶる不穏なものでもあります。楽しいものであるけれど、場合によっては日常を裂く破壊的要素を隠し持っていることがあります。そうしたことが丸ごとおもしろいのです」(「文学は実生活で役に立たない?」9・10ページ)

「文学は実生活で役に立つか」の問いに対し、この質問に正面から答えるよりは、その問いの内にある「役に立つか役に立たないか」の二項の有用性判断に基づく質問の立て方の前提そのものを疑い相対化して、それを文学の本領の本質(「文学とは日常の当たり前に思える発想を揺さぶる不穏なもの」)につなげて置く、まさに「文学論のお手本」のような文学の本質定義よりする周到な模範的回答である。かつて大江健三郎も、この手の「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か」の質問には、その問いの中にすでにある「飢えて死ぬ子供の前で…」という恣意的な極限状況の設定と、「有効か無効か」の二項の価値判断そのものを批判し無化するような趣旨の同様な答えを寄せていた。私もこの辺りが、よくある「果たして文学は役に立つか」問答に処する、正統な文学よりする「誠に文学的な」適切な回答の落とし所であるような気がする。

こうした文学問答から「はじめての文学講義」の講演は始まり内容は次第に深まっていき、中高生に向けた「はじめての」文学初心者への講義でありながら、なかなか本格的な「文学講義」が展開されていく。

前半では「文学の楽しさはどこにあるか」と題し、「二つのものを結びつける力」、すなわち「ダブル・ヴィジョン(二重視点)がイメージを喚起させる」として、一つのものとしてあるシングル・ヴィジョンの単調な物の見方よりも、一見関係のないもの同士や意表をつく組み合わせの妙による、ダブル・ヴィジョン(二重視点)にての物事の関係性から初めて、そのものへの豊かなイメージ喚起力が生じる文学の技法効果らが、太宰治「富嶽百景」(1939年)における「富士と月見草」の対比を例に主に述べられている。

また後半では「文学のいとなみ」として、生徒からの質問に答える形で文学との接し方や日々の読書のアドバイスがより実践的に語られている。例えば、

「読書において、文学史にとりあげられていなかったり売れてもいないし評判にもなっていない、自分だけの大事な作品を発見できるような、本に対する自身の選択眼の養成に努めるべき」(「自分だけの 『名作』を見つける」98ページ)

「新聞各紙に掲載の書評を日々チェックしたり、定期的に通う自分が好きな書店を見つけることで、それらを通して自分が読むべき本が見つかったり、本そのものの新たな魅力に気づくことがある」(「書評を利用し、ファイルを作る」100─103ページ)

「小説は読みながら随時、読む行為を中断して時に考えながら味わいながら読むとよい。読むという行為は、たくさんの中断があるほど奥行きを増す。一番いけないのは粗筋(あらすじ)読みで、粗筋だけを追っていく水平的に移動していくばかりの読書はつまらない」(「深く読むほど、読むことの中断が起こる」115─ 117ページ)

といった旨のアドバイスがある。その他、ここでは触れなかった「文学講義」の読み所が本新書には数多くある。それらを全て挙げてしまうと「ネタばれ」になって、本書の著者の中村邦生と発売元の岩波書店に申し訳ないので(笑)。あとは是非とも実際に本書を手に取り、各自で熟読して頂きたい。

岩波ジュニア新書、中村邦生「はじめての文学講義」を一読して、私もまるで中高生に戻って著者の講演を現実にその場で聴講しているような気分になり、非常に楽しめた。本書は岩波ジュニア新書でジュヴナイル(10代の少年少女向け読み物)であるけれど、大人の読者にもお勧めである。

「読むことを楽しむにはどんな方法がある? 魅力的な文章を書くにはどうしたらいい? その両面から文学の面白さ、深さを構造的に探っていく。太宰治をはじめ多種多様な文学作品をテキストにしながら、読むコツ、書くコツ、味わうコツを具体的に指南する。『文学大好き!』な現役の中学・高校生を対象にした『文学講義』をまとめた一冊」(裏表紙解説)

岩波新書の書評(429)今井むつみ「英語独習法」

岩波新書の赤、今井むつみ「英語独習法」(2020年)だけを読むと気付かないかもしれないが、本新書は今井の旧著、同じ岩波新書の「ことばと思考」(2010年)と「学びとは何か」(2016年)の続編となっている。すなわち、「ことばと思考」と「学びとは何か」にて認知科学の観点から明らかにされた人間の「思考」や「学び」に関する原理的考察の成果を、今度は実際の日本人による第二言語習得であるところの英語学習に適用させて具体的に生かそうとする実践編として、この度の新著の「英語独習法」はあるのであった。

より詳細に言えば、認知科学専攻の今井むつみにおいて「ことばと思考」にて展開された、言葉とは単なる伝達のための手段の道具と目されていた、かつて支配的であった、いわゆる「言語道具論」に対する批判に裏打ちさせて、言葉を元に言葉を使って人間は思考するのであり、言葉が人間の思考をかなりの所まで根拠づけ言葉によって人間の思考は相当に左右されて、ゆえに当然ながら異なる言語を話す日本人と外国人とでは認識や思考のあり方が違うのは、世界を切り取り発想したり認知したり判断したりする、そもそもの言語が相違するからといった人間の認知や思考に関する原理的解明。さらには「学びとは何か」にて指摘された、人が物事を「学ぶ」ということは、単なる知識の雑多な寄せ集めではなくて、言語知識の行間を補うために使う常識的な知識のフィルターである「スキーマ」に当てはめ人は有機的に知識を取り込んで記憶のネットワークを構築しており、さらには、そのような知識についての認知(知識についてのスキーマ)であるところの「エピステモロジー」に各人の「学び」の方向や質は決定付けられるとされる。こうした人間の「思考」や「学び」に関する原理的考察の成果を、今回は実践的に日本人の「英語学習(独習)法」に生かそうとするのである。

だから岩波新書「英語独習法」にて、「第1章・認知のしくみから学習法を見直そう」よりのはじめの四つの章は、「日本語と英語のスキーマのズレ」など認知科学による人間の「思考」や「学び」の仕組みを踏まえて、日本人にとっての英語学習の見直しや効果的な学習方法を述べる「英語独習法」についての概論的な解説となっている。この部分の記述はこれまでの「ことばと思考」「学びとは何か」の内容を踏まえたものであるが、今井むつみが多用する「スキーマ」らの術語に関する基礎的な一通りの説明は本書にもあるので、それら今井の旧著を未読であっても何ら問題はない。その上で次に「英語独習法」における具体的なツール(道具)使いの方法(「コーパスによる英語スキーマ探索法」など)や、日々の英語学習のポイント(「語彙を育てる熟読・熟見法」など)のアドバイスがあって、さらに最後に「探求実践篇」として語法・英文法の問題演習が付されている。本新書は、およそこのような構成になっている。

今井むつみ「英語独習法」を一読しての私の率直な感想は、「本書を熟読してこの通りに独習で英語を学んだとしても到底、英語がマスターできるようになるとは思えんな(笑)」。

これまでの今井むつみの岩波新書を連続して読んできて、私が危惧するのは、認知科学の観点から彼女により考察された人間の「思考」や「学び」について、それが読み手の各人に、認知科学の最新理論に厳密に裏付けられた合理的できわめて効果の出る自己啓発の勉強論とか学習法として読まれ使われる場合に、彼女の口ぶりを真似た「スキーマ」などの認知心理学の専門用語をただ振り回して、より合理的で効果的な学習法を追求の方法論にばかり終始し逃げて結果、本来の目的たる勉強を真面目にやらず、学習の成果が全く上がらない落とし穴にはまる心配だ。勉強法はどこまでいっても勉強をやる方法の「手段」なのであり、勉強そのものをやる本来の「目的」にはならない。  

なるほど、本新書の帯には「楽してではなく合理的に楽しみながら英語の達人になろう」とあり、本書「英語独習法」の目玉は、「英単語でも英熟語のイディオムでも、とにかく暗記しろ」とか「英文読解や英会話は習うより慣れよ。反復して繰り返せ」の英語上達への確固たる理論や合理的筋道なく、昔からの、ただ暗記や反復を奨励するだけの非合理な根性主義の英語学習法に対する批判である。だから、本新書の第1章より「認知のしくみから学習法を見直そう」の、従来型の英語学習法を見直すべき旨の著者からのアドバイスになっている。

しかし、英語を本気で習得して自分のものにするには、「認知科学の学術成果に裏打ちされた合理的で効果的な学習法」などアテにせず、時に無心に愚直に自分が消耗する程までに苦労して長い時間をかけて長期の学習計画にて勉強してもよいのではないか。特に英語をこれから本格的に学んでマスターしようとする人には10代の学生ら若い人が多いのだから、人は若い時分は長い時間を費やし向こう見ずな努力の苦労を重ねるのもよいのではないか。

泳ぎを覚えたいなら正しいフォームや効果的な息継ぎのやり方の方法理論以前に、とにかくまず水の中に飛び込め。苦しくて沈まないよう、もがいている内に泳げるようになるよ。勉強でもスポーツでも仕事でも何でも「最初から失敗しないように上手くやろう」「工夫して合理的な最小限の努力で最大限の成果を上げるようにしよう」など事前にあれこれ考えず、まずは素直な気持ちで無心にやってみることではないか。

1970年代生まれで、80年代に高校時代を過ごし大学受験英語を学んだ私らの世代では、英語独習の英文読解には駿台予備学校・英語科の伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)が定番の参考書で、当時は皆がやっていた。私も高校生の時は伊藤師の「英文解釈教室」の参考書を一生懸命にやって英語が読めるようになった。

岩波新書の赤、今井むつみ「英語独習法」に関しては、やはり「本書を熟読してこの通りに独習で英語を学んだとしても到底、英語がマスターできるようになるとは思えんな(笑)」。今井むつみの口ぶりを真似して認知科学の「スキーマ」とか言わずに、まっとうな苦労の正攻法で伊藤和夫「英文解釈教室」あたりの大学受験英語の参考書でもコツコツと地道に真面目にやった方が「英語独習法」の近道なのでは、と私には思える。

岩波新書の書評(428)渡辺金一「中世ローマ帝国」

中世ヨーロッパ史専攻で、なかでも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に関する多くの論文や書籍や訳書を著している渡辺金一の岩波新書は、「中世ローマ帝国」(1980年)と「コンスタンティノープル千年」(1985年)の二冊がある。後出の「コンスタンティノープル千年」が箴言(しんげん)や問答体など多様な文体で初学の読者にも分かりやすい新たな書き下しの、まさに「新書」たるに相応(ふさわ)しい、都をコンスタンティノープルに置くビザンツ帝国に関する入門的な新書になっているのとは対照的に、前出の「中世ローマ帝国」は、大学紀要か専門の研究雑誌に掲載した学術論文を書店売りの一般新書なのにそのまま収めたような硬質な学術文章の岩波新書であり、本書は読んで難しい。

渡辺「コンスタンティノープル千年」に関する文章は以前に書いたことがあるので、今回は岩波新書の黄、渡辺金一「中世ローマ帝国」について書いてみる。

本新書のタイトルである「中世ローマ帝国」とは、より厳密にいって中世の東ローマ帝国、別名・ビザンツ帝国のことである。東ローマ帝国は東西分裂(395年)後のローマ帝国の東半分を支配して、首都の旧名であるビザンティウムが東ローマ帝国の別称・ビザンツ帝国の由来となっている。東ローマのビザンツ帝国(395─1453年)は首都をコンスタンティノープルに置いて、西ローマ帝国が5世紀末に滅亡した後も存続し、6世紀半ばに全地中海周辺の領域支配の回復にほぼ成功し、7世紀に帝国のギリシア化が進み、皇帝が宗教上の指導者を兼ねる(皇帝教皇主義)とともに西ヨーロッパに対して独自の東ヨーロッパの文化を形成した。だが11世紀からの十字軍運動以後に衰退し、15世紀にビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされた。

ビザンツ帝国は専制君主制、つまりは唯一の皇帝が支配する統治体制であった。4世紀から15世紀までのビザンツ帝国1000年余りの歴史で(数え方にもよるが)89人の皇帝が統治し帝国は続いた。東西の世界史の中でも一つの帝国が1000年以上滅びずに継続し、しかもその政体が皇帝による専制君主制であったというのは極めて希(まれ)で実に驚くべきことである。コンスタンティノープルを首都としたビザンツ帝国が千年統治継続の理由の一端は、本書「中世ローマ帝国」の実質的な続編にあたる渡辺「コンスタンティノープル千年」にて明らかにされている。

ここで岩波新書「中世ローマ帝国」の目次を見よう。本書は全四章よりなる。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国、第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合、第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み、第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」

私が読む限りでは、本新書は「ビザンツ帝国と中世の民族移動により現出した帝国周辺諸民族との主にキリスト教の宗教イデオロギーを絡(から)めた中世の東ローマ全体像の歴史概観」である。本書では一見、独立した論文が四本並べられ、あたかも無造作に収録されているように思えるが実のところ、それら全四篇の全四章は有機的に繋(つな)がっている。著者の渡辺金一は誠に優秀で周到な方で、全四章で「中世ローマ帝国」=中世初期の地中海世界の全体構造(ビザンツ帝国と帝国周辺諸民族)を概観できる本書記述になっているのだ。

すなわち、第一章と第二章の前半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、前者のビザンツ帝国本体の話である。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国」では、中世初期の民族移動の結果、ビザンツ帝国周縁部に出現し定住して、やがて帝国と関連を持つようになった諸民族(アヴァール部族のフン人、ゲルマン民族のフランク人やゴート人、アラブ民族のサラセン人ら)へのキリスト教改宗を通してビザンツ皇帝を家父長とし、彼ら周辺諸民族と諸国家の長たちを家人(子供や兄弟)とする擬制的親族秩序理念の形成という、キリスト教を介した帝国と周辺諸民族との宗教イデオロギー支配の実態を明らかにしている。

他方、「第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合」は、今度はビザンツ帝国の国内政治の話であり、「天上の帝国の模倣として地上にあるビザンツ帝国」という演出、その帝国の頂点に立つビザンツ皇帝を絶対的なものとして、「神の嘉(よみ)し給うものであり、神の終末論的な人類救済の要(かなめ)として」皇帝は定置される。そのような「キリストの模像としてのビザンツ皇帝」の支配イデオロギーは、宮廷儀式や法律文書前文や皇帝の演説らを通じて様々に形成され流布される。だが、他方で帝国の上からの、こうした皇帝讃美の政治神学に反する、人民の下からの対抗イデオロギーもあった。ビザンツ皇帝の退位失脚を願うもの、「国家に仕える者としての下僕の皇帝」という法体系による帝国権力に対する縛りや、法に基づく皇帝への忠告があった。このような一筋縄ではいかない、帝国側から演出される「帝王の光輝」と、人民側より突きつけられる「帝王の限界」の諸々の複雑なイデオロギーの対抗・錯綜の一側面が中世東ローマにはあった。

しかも第一章と第二章では、このビザンツ皇帝に関するキリスト教の宗教イデオロギーに関して、より具体的にコンスタンティノス七世(在913─959年)の治世に編纂(へんさん)された「帝国の統治について」「ビザンツ宮廷の儀式について」からの文献引用を介して詳述されている。ビザンツ帝国にて皇帝コンスタンティノス七世在位の10世紀は、7世紀に帝国のギリシア化が進み、ギリシア正教会の首長の任免権を持つことで政教両権を皇帝が握る、ビザンツ皇帝が宗教上の指導者を兼ねる皇帝教皇主義の成立を経てのビザンツ帝国の東ローマ文化の全盛期であった。当時、西ヨーロッパではオットー一世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立(962年)、同時代の中国は隋・唐帝国の時代に当たる。

それから第三章と第四章の後半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、後者の帝国周辺の諸民族の話に移る。

「第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み」は、中世初期の民族移動にて出現し地中海沿岸に定住した様々なビザンツ帝国周辺諸民族の中から、ゲルマンとアラブ両民族に関し、相互に絶えず影響を与え合っており、両民族の発展の過程において、その近接の同時代性と相違の対照性との確認を両民族の比較史を通じて明らかにしようとしたものだ。ゲルマンとアラブの中世初期の帝国周縁の民族にて社会的分業という同一の過程が見出されると同時に、しかし「森」のゲルマンと「砂漠」のアラブのそれぞれの民族が置かれたエコロジー的自然に応じて、そこから由来する各自の生活様式の異なった形態を見る民族比較史である。

「第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」も、ビザンツ帝国周縁の諸民族に関する考察であり、「ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃」の歴史を具体的に追求している。この第四章は、紀元前7世紀のササン朝ペルシアの時代から後に7世紀イスラム教徒のアラブ人に占領されるまでの東ローマの周縁で地中海沿岸に位置する、かつてのローマ領シリアの「オリーヴ・プランテーション」の経済生活の様子を非常に長い時代射程で、かなり詳細に論じている。

岩波新書の書評(427)佐高信「戦後を読む 50冊のフィクション」

評論家でありジャーナリストである佐高信に関しては、廃刊になって今ではもうないが、以前にあった雑誌「噂の眞相」での佐高の連載「タレント文化人筆刀両断!」など私はよく読んでいた。私は10代の頃から岡留安則が編集発行の「噂の眞相」を定期的に読んでいたので。また佐高信と同様、本誌に連載を持っていた本多勝一の書籍も学生の頃から愛読していた。

佐高信という人は大学卒業後、郷里の山形にて高校教員をしていたが、教職員の組合運動にて学校体制側と激しく半目し、同時に独自に運動をやったため本来は連携すべき現場の県教組とも対立し孤立して、後に教師を退職。それから上京して経済系業界雑誌の編集者となり、次第に頭角を現す。そうして新聞の全国紙や週刊誌に政治経済記事を寄稿したり、テレビやラジオにメディア露出しコメントを出したり討論参加するようになって佐高信は全国的に顔が売れたのだった。

佐高信の政治評論の基調は左派で反権力である。この人は昔から一貫して戦後の自民党保守政権に対し非常に厳しい批判的立場を取る。そのことからして佐高信の政治評論の内容は、憲法第九条を保持の護憲と反戦平和、沖縄基地問題に関しては基地反対の沖縄市民を応援、過去の日本国の戦争責任追及、政治家と官僚と財界人の癒着と公的なものの私物化(裏金、利権、汚職ら)への攻撃と全容解明に向けての徹底追及、その都度、自民党保守政権から出される国民への統制強化の各種法案に対する反対などが主である。

そのため、佐高信の政治評論では前より自民党の岸信介、中曽根康弘、自民党在籍時代の小沢一郎らに対する厳しい批判があった。近年の2000年代以降では、同じく自民党総裁で首相であった小泉純一郎と安倍晋三に対する佐高信の姿勢・評価は特に苛烈を極め厳しい。その反面、昔から旧社会党やその後継政党には多分に同情的であり、反自民の野党を一貫して掩護(えんご)し応援して、自民党からの政権交代を常に願う所があった(ただし万年野党の日本共産党に対しては割と一貫して批判的である)。

前から佐高信の文筆と仕事を見てきて、この人は週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビやラジオへの出演ら時事的なその場限りの、いわゆる「消え仕事」が多いと私は不満に思ってきた。もちろん、その都度の時事論たる反政府のキャンペーン記事や発言、首相と内閣批判の世論形成の論幕は必要で時に重要な役割を果たすが、結局のところ、それらは一時的な政局の時局の「消え仕事」なのである。どんなに優れた週刊誌連載でも新聞記事でもテレビ・ラジオ内での鋭(するど)いコメントで皆の耳目を集めても、それは一時的な時事論としてその場限りで消費され、やがては人々から忘れ去られてしまう。近年まで佐高信が務めていた「週刊金曜日」の編集委員や時評の仕事も、一時的に人々に読まれるが、ゆくゆくは忘れられる。

佐高信は、週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビ・ラジオへの出演ら時事論以外の、後々にまで残る本格的な政治論や思想史研究や現代思想論の原理論的な仕事も平行してなすべきであった。それらは時事論とは異なり、後々まで残り、時に「古典」として人々に広く長く読み継がれていく。だいいち佐高信は至るところで、「市民」の概念から戦後民主主義を志向した哲学者の久野収の弟子であることを公言し、師の久野を慕(した)っているが、「おい佐高(怒)、お前は久野収の弟子を公的に名乗るなら週刊誌連載とか新聞や雑誌やテレビでの安易なジャーナリズム仕事の時事論だけでなく、『思想の科学』に掲載できるような原理論の思想史研究や現代思想論の本格仕事も同時にやれよ。マルクスか幸徳秋水あたりの本格研究でもやれ。佐高信よ、師の久野収に無駄に恥をかかせるな!」と私はかねがね思っていた。ある人の弟子を公言するには、その師に恥をかかせないために、弟子に当たる人は元々のそれなりの才覚の力量と日々の積み重ねの努力が必要である。弟子たる者は師匠の後継の重い看板を背負って、決して楽をしてはいけない。佐高信「タレント文化人筆刀両断!」などの週刊誌連載は簡単な仕事で安易すぎる。あんなゴシップ的売文は楽に書けて誰にでも出来る。そして安易で時事的な売文仕事は後々まで残らない。一過性で終わり、広く長く人々に読み継がれない。

ところが、佐高信は法学部の大学卒業後に高校教員になり、その後に経済系の業界紙の編集者になったことから政治学や歴史学や思想論の専門的な研究実績の研鑽(けんさん)を積んでおらず、そのためこの人は組合運動の扇動的なアジビラまがいの文筆か状況的な過激政治発言に結局は安直に流れ、そこに終始してしまうのであった(苦笑)。

このように全く駄目な佐高信であったが、その佐高の一連の著作の中で比較的よいと思えて、例外的に私には印象深い一冊があった。岩波新書の赤、佐高信「戦後を読む・50冊のフィクション」(1995年)である。本新書は以前に同じ岩波新書から出された佐高「現代を読む・100冊のノンフィクション」(1992年)の続編の姉妹本に当たるものだ。

岩波新書「戦後を読む・50冊のフィクション」は、そのタイトル通りの「50冊のフィクション」の紹介本である。一冊につき4ページと書評紹介文の字数は決まっている。それが全50冊で本書は総数200ページ程のコンパクトな書評紹介文収録の新書である。佐高信の日頃の政治評論の嗜好(しこう)や経済系の業界紙編集者を以前にやっていた彼の経歴出自からして、日本の政治家や官僚や経済人とその政財界の内幕をモデルにしたフィクション(小説)を佐高が好んで選択し取り上げようとするのは、よく分かる。例えば戸川猪佐武「小説吉田学校」(1980年)、石川達三「金環蝕(きんかんしょく)」(1966年)、城山三郎「官僚たちの夏」(1975年)らの経済政治小説だ。だが他方で、自称「本好き」や「趣味は読書」と公言する人達が好んでよく推薦する案外ベタな、常日頃から多くの人が読んでいるような、例えば松本清張「ゼロの焦点」(1959年)、村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(1980年)、宮部みゆき「火車」(1992年)ら経済政治分野以外でのミステリーや都市文学の定番作品を今更ながら取り上げて佐高信がわざわざ紹介し書評しているのも、なかなか面白い。

さすがにどの作品に関しても、わずか4ページの非常に限らた字数の中で時に抑揚をつけ、唐突だが読み進めていく内にやがては分かる意味のある頭の文章の入り方だとか、適切でテンポある小説本文からの巧(たく)みな引用だとか、必ずしも全てを語らない、絶妙に余韻を残す「いかにも」な文章の終わらせ方など、佐高信は上手い具合にまとめている。

だが本新書を連続して読んでいると、国家権力や企業組織や組合上層部らの腐敗・堕落の実態を小説という「フィクション」の形式を借りて、批判的に時に痛烈な皮肉を込めて描いていたり、それとは逆に、それら政治権力や企業や組合の体制に逆らって不当に虐(しいた)げられた人々や、独り奮闘しそれら日本の「戦後」社会の現代における組織の巨悪に立ち向かう人物をモデルにした小説作品に対して、書き手の佐高信が、様々な紆余曲折の工夫の文章展開を毎回凝(こ)らしながらも、結局は最後にそれなりの高評価の肯定の論調で締(し)める、佐高のお決まり書評紹介文は、どれも似たようなものであり、パターン化されていて単調で連続して50冊分を読んで正直、私はツラい感じもする。これも普段からの左派で反権力な、佐高信の政治評論の基調の味に由来するものか。

ただそれらの中で例外的に、単に「戦後」の日本社会にての組織や人間の腐敗・堕落に対する批判の一刀両断の全否定で終わらせずに、社会や組織の内でそのように生きていかざるを得ない人間の悲哀や哀愁にまで佐高信が触れ得たもの、例えば生島治郎「腐ったヒーロー」(1969年)の小説モデルとなった現実のプロレスラーの力道山、また例えば山崎豊子「不毛地帯」(1976年)での作中の主人公に対する悪役のモデルとなった実在の日商岩井の元副社長・海部八郎を介しての本新書での佐高信の書評紹介文は、なかなかの名作と思えて、私には読後も深く強く印象に残る。

「この半世紀に戦争が落とす影は長く濃い。徴兵忌避者、戦犯、女性たちはどう生きたか、戦争責任はとられたのか。また、変貌する戦後社会の課題は何か。政争、汚職、公害、企業主義などの社会問題、アジアとの関係、新しい世代の闘いなど、様々なテーマから同時代の姿に迫った問題作・名作の数々を、意欲的に紹介する迫力満点の読書案内」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(426)沢崎坦「馬は語る」

昔に旅行中、家から持ってきた書籍を旅の中途で全て読み尽くしてしまって、移動中や滞在先にて読む本が弾切れになり、旅先の現地で新しく読む本を仕入れようと思って、とある街の古書店に入った。もちろん、一見(いちげん)の知らない書店である。そのとき購入したのが、岩波新書の黄、沢崎坦(さわざき・ひろし)「馬は語る」(1987年)だった。そのため本新書に関しては「あの時、あの旅の途中の知らない土地で読んだな」の、書籍の内容よりは読書をした行為の思い出の方が私には印象深い岩波新書である。

岩波新書「馬は語る」といいながら、実は私は馬には全く興味がないし、馬の事など全然知らないのである(笑)。また、これから馬について新たに知りたいとは少しも思わないのである(爆笑)。ただ旅で知らない場所に行って電車やバスや船で移動し移りゆく車窓風景を眺め、名所史跡を訪れ、かつ美しい景色を見たり、当地の名物料理を堪能し新規な宿舎に泊まり温泉入浴しただけで、時に異常に高揚し、時には異常に冷静で平坦な精神状態になったりする。そういった、いつもとは違う旅の醍醐味の新鮮な気持ちの中で、「普段の日常の自分だったら絶対に読まないであろう分野の書籍を、あえて選んで読んでみよう」の思いに襲われたのだ。そこで旅先の知らない街の知らない古書店にて書棚から選んだ複数冊の内の一冊が、岩波新書の沢崎坦「馬は語る」だったというわけである。

本新書の著者や編集担当者には誠に申し訳ないが、私は本当に馬の事には興味がないし、全く知らない。これまでの生涯で、おそらく馬に触ったこともない。ましてやエサをあげたとか世話をしたとか、乗馬の経験もないのである。学生時代に大学の友人で競馬に熱中し、よく競馬場に行き馬券を購入している馬好きな人がいた。そうした競馬にハマった経験も私にはないのであった。

ただ競馬中継で疾走するサラブレッドを見ていると、「馬は本当に美しい生き物だ」と感心する。もっとも競馬にて疾走のサラブレッドは人間の手で長い間をかけて相当な改良や交配が重ねられており、「あの美しさは自然の本来の動物のそれではない。サラブレッドの骨格や毛並や容姿全般の美しさは人間によって作られた人工的な馬の美しさだ」とは思うけれど。自然の野生動物で、競馬の疾走馬ほどの洗練された美しさは皆無で出せないのである。あのような細い筋肉質な体躯(たいく)では到底、馬は野生の自然の中で独力で生きてはいけない。

岩波新書「馬は語る」では、競走馬の話だけではなく、家畜の馬(農耕馬や馬車馬ら)の話も出てくる。読んで辛(つら)いが、馬刺しなどの料理に提供される食肉馬の話もある。全般に読んで面白いのは馬の誕生から成長、いわゆる「若馬」の思春期や求愛の、馬の生命誕生と成長過程の話題で、その反面、老いた馬や役割を終えた馬の屠殺処分の話は、やはり初読時から読んで私には大層、辛いのであった。

本新書の著者の沢崎坦という方は、畜産獣医学専攻の農学博士である。最終章「馬と私」での著者の記述は、馬への愛情あふれる良い文章だと私には思えた。また私は非常に残念なことに馬との直接的な関わりが全くない生活環境にて育ち、そのような「馬なし」の人生をこれまで送ってきたけれども、本書の最初の章「馬と日本人」を読むと、「日本人は昔から、特に北海道や東北ら東日本地域の人々は、馬に親しんで馬と共に生きてきたのだな」と今更ながら学ばされる。

最後に岩波新書の黄、沢崎坦「馬は語る」の内容が一目で分かる本書の目次を載せておく。

「Ⅰ・馬と日本人─馬と暮らし馬と語ってきた人々、Ⅱ・馬を育てる─馬の中の『自然』を見つめる、Ⅲ・馬をしつける─栄光のゴールをめざして人と馬は一体となる、Ⅳ・家畜としての馬─この『人間の友』も家畜の宿命は免れない、Ⅴ・馬と私─馬に魅せられ、馬から教えられた少年時代の思い出」

岩波新書の書評(425)鈴木大拙「禅と日本文化」

岩波新書の赤、鈴木大拙「禅と日本文化」(1940年)は戦中発行の旧赤版の岩波新書で、同時代の斎藤茂吉「万葉秀歌」上下巻(1938年)と共に戦前の岩波新書の中で当時は相当に売れて広く読まれたらしい。鈴木大拙「禅と日本文化」と斎藤茂吉「万葉秀歌」は、現在でも岩波新書の発行部数、歴代ベストの上位に入っているほどなのである。鈴木「禅と日本文化」は後に続編も出ており、斎藤「万葉秀歌」と同様、全二冊構成であった。

鈴木大拙「禅と日本文化」は、そのタイトル通り二つの内容からなっている。まずは「禅」であり、それから「日本文化」である。最初の「禅」については第一章の「禅の予備知識」でその概要が解説されている。その上で次の「日本文化」については、内容を「一般美術」や「武士道」や「茶道」にそれぞれに具体化させながら、例えば第二章は「禅と美術」、第三章は「禅と武士」、第六章は「禅と茶道」というように、必ず「禅と××」という形式で「禅」と個々の「日本文化」との組み合わせにて章展開させている。ここで本書の目次を挙げておく。第二章以降が、いずれも「禅と××」というタイトル形式及びそれに基づく考察内容になっていることに留意されたい。

「第一章・禅の予備知識、第二章・禅と美術、第三章・禅と武士、第四章・禅と剣道、第五章・禅と儒教、第六章・禅と茶道、第七章・禅と俳句」

鈴木大拙「禅と日本文化」における「禅」は、言うまでもなく仏教の一派である禅宗のことである。もともとのインド発祥の仏教には人間の「我執の否定」の根本の教えがあり、それが後にアジア諸地域に伝播して、生きとし生けるものへの憐(あわ)れみ・慈(いつく)しみの心の「慈悲」や、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」の仏性具有という点での人間平等の普遍的な教えとなった。このことに関して、経典の意味解釈や強調の力点、そうした理念に至る現実的な修練の方法、信仰を主になす社会階層と運営の教団組織の相違から、後に仏教には様々な宗派が生じるわけである。だから禅宗も仏教の一派であり、禅宗は「座禅」(仏教の修行法で足を組んで端坐し瞑想すること)の修行法を殊に重んじた仏教の一派であった。日本で禅宗といえば、鎌倉新仏教の栄西の臨済宗や道元の曹洞宗が有名であり、それら禅宗の主要宗派が後の日本文化全般に与えた影響は大きい。

もちろん、鈴木大拙も以上のことを踏まえて「禅と日本文化」を論ずるにあたり、仏教の一派たる禅宗とのつながりから始めている。第一章の「禅の予備知識」にて鈴木は、

(1)仏教開祖の「仏陀(ブッダ)の精神はなんであるか」と問い、それを「般若(知慧)」と「大悲(愛または憐情)」とした上で、(2)それら「般若」や「大悲」に至るための禅宗の独自の鍛錬法の詳細を指し示し、(3)そうした禅の雰囲気の内に見受けられる、世の事物に対する特殊な考え方と感じ方の特徴を七点に分け挙げる。

という順序で論じている。岩波新書「禅と日本文化」の序章たる「禅の予備知識」の展開は、以上のような3点教授になっているのだ。特に、この序章のまとめの結語にあたる「われわれは、禅の雰囲気のうちには一般に、世の事物に対するある特殊の考えかたと感じかたが存することを知るのである」と鈴木が指摘する所の、「禅の雰囲気のうちに見受けられる、世の事物に対する特殊な考え方と感じ方の特徴の七項目」(10・11ページ)は本新書に当たるものは当然、押さえておくべき重要箇所である。

続く第二章以降は、序章の「禅の予備知識」の要訣を踏まえ、各日本文化との組み合わせの具体的考察である。鈴木大拙によれば、「一般美術」や「武士道」や「茶道」ら日本文化の中に「禅に見受けられる世の事物に対する特徴的な見方・考え方」が集約されてあるのであった。その中で特に読み所と思えるのは、「日本人はどういったものに美を感じ、何を美しいと思うのか」の日本文化の審美眼を全般的に論じた第二章の「禅と美術」、そして日本文化として根付いた禅宗の禅と中国由来の儒教と日本古来の神道との三つの思想の絡(から)み合いを総体的に論じた第五章の「禅と儒教」あたりか。その他、私は剣道や茶道をやったことがないので読んでもあまり詳しい事は分からないが、第四章の「禅と剣道」や第六章の「禅と茶道」も剣道や茶道をやる人ならば一度は読んでおくべき、と昔から定番でよくアドバイスされる所である。

最後に、岩波新書の赤、鈴木大拙「禅と日本文化」に対する今日からの読みの視点を二つ指摘しておこう。

第一に、鈴木大拙(1870─1966年)という人は、明治・大正の時代から早くにアメリカに渡り、日本的禅の思想ならびに東洋の仏教文化を西洋の人々に直接に説いた人であった。また鈴木の著作には最初から鈴木大拙が英語で執筆したものや、日本語執筆の著書で後に英訳されたものも多い。そうした、もともと禅の思想や仏教文化に未知で前知識がない初学の西洋の人達に向けて、禅に象徴される東洋的な物の見方・考え方や「日本的霊性」を鈴木大拙は説いたため、この人が概説する日本的禅の概要や東洋世界の仏教文化は、妙に簡略化・単純化された、西洋の伝統文化や現代の近代化の思想と明確な対照(コントラスト)をなす、二項対立の一端を毎回選択する平板な説明になってしまう。当の鈴木は気付いていないかもしれないが、主にアメリカ人ら欧米の人に向けて日本の東洋的なものを解説するので、いつも出来るだけ分かりやすく語ろうとするサーヴィス精神の悪い癖の鈴木大拙の地が、つい出てしまう。

岩波新書「禅と日本文化」でも、鈴木は物質と精神、理論と直感、文字伝達と不立文字、消費享楽と清貧禁欲、社会的な儀礼・慣習と個人的な孤絶・修養の二項対立で単純に簡略に説明しようとする。鈴木が力説するのは悉(ことごと)く後者である。鈴木大拙が説く「禅と日本文化」は精神であり、直感であり、不立文字であり、清貧禁欲であり、また個人的な孤絶・修養であって、前者の西洋の伝統文化や現代の近代化の思想の各項目と常に対立をなし、それらへの対抗言説として、きれいに整って解説され過ぎている。そうした平板さの違和感を私は鈴木大拙の著書に毎度、抱く。必ずしも西洋文化や近代化思想と対照セットな対抗言説ではなくて、それ自体として「禅と日本文化」について深く掘り下げ考察するやり方も私はあると思うのだが。

第二に、鈴木大拙「禅と日本文化」の日本語版は1940年初版であり、時代は近代天皇制国家の第二次近衛内閣での翼賛体制の下、国民が国家のために自らの死を厭(いと)わないよう強要する超国家主義が異常に幅を利(き)かせた十五年戦争時の戦時の時局であった。この1940年の翌年の41年に対米英戦の太平洋戦争の開戦となる。こうした時期に出された岩波新書「禅と日本文化」の第三章「禅と武士」にて、鈴木大拙は鎌倉幕府執権の北条時宗から江戸時代にまとめられた「葉隠」の文献、戦国武将の武田信玄と上杉謙信までを通して以下のように述べる。

「『潔(いさぎよ)く死ぬ』ということは、日本人の心に最も親しい思想の一つである。…『潔く』は『悔(くい)を残さずに』『明らかな良心をもって』『勇士らしく』『ためらうことなく』『落着払って』などの意味である。日本人は思い切りわるくぐずぐずして死を迎えるのを嫌う。風に吹かれる桜のように散り逝くことを欲する。たしかに日本人のこの死に対する態度は禅の教えと一致したに違いない。日本人は別段、生の哲学は持たないかもしれぬが、たしかに死の哲学はもっている」(第三章「禅と武士」)

その上でさらに、

「禅を深く吸込んでいる武士の精神はその哲学をまた庶民の間にまで拡げた。庶民は自分たちがとくに武士の仕方で鍛錬されていないときでもその精神を吸込んでいて、正しいと考えるいかなる理由のためにも、自分の命を犠牲にする覚悟をしている。これは従来、日本がなにかの理由で飛込まねばならなかった諸戦争で、しばしば説明せられてきたことである」(第三章「禅と武士」60・61ページ)

これは「禅の日本文化」を通して人間の死を潔(いさぎよ)いものと美化する思想である。本書での「禅と日本文化」を通しての、

「『潔く死ぬ』ということは、日本人の心に最も親しい思想の一つである。日本人は別段、生の哲学は持たないかもしれぬが、たしかに死の哲学はもっている。その精神は武士だけでなく庶民の間にも拡がり、庶民は自分たちが正しいと考えるいかなる理由のためにも、自分の命を犠牲にする覚悟をしている。このことは従来、日本がなにかの理由で飛込まねばならなかった諸戦争で、しばしば説明せられてきた」

というような旨の鈴木大拙の語りと、同時代の戦時における大日本帝国による、例えば自国の日本軍兵士への「戦陣訓」の教え(「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」など軍人が戦場で守るべき道徳・行動の準拠)や、いわゆる「玉砕」(「玉が美しく砕け散る」ように部隊ごと全滅すること)の奨励や「特別攻撃隊(特攻隊)」(有人の航空機・小艇による空母などへの体当たり戦法)の命令、ならびに非戦闘員の民間人に対する「集団自決」の強要と相当に近いものがある。今時の目下の戦争にて「人間の死を美化して国家のために死ぬことを暗に勧める」国民の戦時動員の国策遂行に協力加担の自覚が、戦時に「禅と日本文化」の書籍を出した鈴木大拙自身に果たしてあったかどうか。とりあえず当時の軍部や挙国一致内閣の戦争指導者らは、鈴木大拙の「禅と日本文化」を読んで、国民の死への動員基調の筆致に小躍りして喜んだに違いない。それほどまでに国民の戦時動員の国策遂行に協力加担の疑いが果てしなく強い鈴木大拙「禅と日本文化」なのであった。

「日本文化の禅の精神」の自然の発露として「潔く死ぬ」日本人の「死の哲学」を力説する、戦前から戦後もまたいで90歳以上長く生き長寿を全(まっと)うできた鈴木大拙本人は誠に無責任でお気楽でよいが(繰り返し確認しておくが、鈴木大拙の生涯は1870─1966年であり、鈴木は戦後も長く生きて96歳で亡くなっている)、そうした鈴木から「潔く死ぬこと」を書籍を介し美化して勧められる私ら日本人の庶民は「潔く死ぬこと」をいきなり暗に強要されて、たまったものではないのである(苦笑)。

いずれにしても、岩波新書「禅と日本文化」に対する今日からの読みの視点として、こうした人間の死の美化を通しての国民一般の戦時動員の推進という戦争責任の問題を、鈴木大拙の「禅と日本文化」理解から摘出し、私達は批判的に読み直すべきであろう。そういえば、本新書の巻頭に付された「序」の書き手は、鈴木大拙と親交が深かった当時の京都帝国大学文学部哲学科の西田幾多郎、いわゆる「京都学派」の哲学者として後に「知識人の戦争責任」を追及される西田の手によるものであった。

「禅は日本人の性格と文化にどのような影響をおよぼしているか。そもそも禅とは何か。本書は、著者が欧米人のためにおこなった講演をもとにして英文で著わされたものである。一九四0年翻訳刊行いらい今日まで、禅そのものへの比類なき入門書として、また日本の伝統文化理解への絶好の案内書として読みつがれている古典的名著」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(424)南博「日本的自我」

ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘して論ずる「××人論」という評論分野が昔からある。例えば「歴史があるイギリスの英国人は礼儀正しく、伝統を重んじて保守的である」とか、「ドイツの人はゲルマン民族の森の住人の出自の適性から、凝り性で職人気質で合理的」とか、「ブラジルの人は南米の熱帯気候に育(はぐく)まれ快活で陽気、にぎやかで騒々しいサッカー応援やお祭り騒ぎが大好き」など。

もちろん、これらの論は「あくまでも、ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘しているだけ」の大まかなものであるから、例えば「イギリス人でも礼儀正しくなく粗野で、伝統を重んじない革新的で新しもの好きな人」もいるわけで、同様にブラジルの人であっても、快活・陽気でなく、逆に「慎重で堅実・真面目、サッカーに全く興味がなく、にぎやかで騒々しいお祭り騒ぎが苦手な人」も多人数でなくとも、確実にいるに違いない。だから、こうした「××人論」というのは、よく指摘され議論されて書籍にもなり、聞いたり読んだりすれば「なるほど」と思い、即座に納得させられそうになるけれど、その「××人論」に該当しない人々も実際には少なからず存在するので、こういうのは案外、紋切り型(ステレオタイプ)な現実に即さない、「××人論」を熱心に語りたがる人々や執筆したがる著者にとっての単なる「自己満足な決めつけ」に終始する場合も多々ある。

もちろん、日本人に関しての、この手の「日本人論」は昔から根強くある。むしろ、日本人はこうした「日本人には××の特質がある」「日本人の性格気質として××ということが挙げられる」の日本人論が他民族や他国の人々と比べて、かなり好きな国民性である。そうした「日本人とは何か」の日本人論を日本の人達は、これまで連発し量産してきたのであった。

「××人論」は「あくまでも、ある民族や国民について、その人々の集団の最大公約数的な共通性格や一般傾向を指摘しているだけ」の大まかなものであるから、「確かに俺は日本人だが、その日本人の国民性たる特質は俺に関しては全く当てはまらない」の問題以外の所で、「なるほど、これは日本人論として日本人の一般的特性を上手く言い当てている」と妙に感心したり、逆に「これは表面的な捉え方で日本人の実像とは異なる日本人論だ」と反論できるものも様々にあって、これまでに長いあいだ指摘され広く流通し定着してきた日本人の国民性に関する個々の議論については、今更ながら再検討を要する。

例えば日本人論の代表的で定番なものに、「日本人は個の自覚が弱く人間個人の権利意識が希薄で、集団組織に個人が圧倒され、周りの同調圧力に容易に屈してしまう」というのがある。これに関しては、私の日々の生活実感からしても「なるほど」と納得する。確かに、日本人は個の自覚が希薄で人間個人の権利意識が弱い。すぐに集団組織に個人が献身させられて、全体のために個が容易に犠牲にされる。日本社会では、個人の権利を主張すると「集団組織の規律や秩序を乱すワガママ」とか、「個人の権利保障や行使を主張する以前に、集団の構成員としての奉仕の義務を果たせ」などと叱責されて、たちまち個は集団の内に取り込まれてしまう。

しかしながら、他方で「日本には四季の移り変わる豊かな自然があり、日本人は欧米人と比べて自然を愛(め)で大切にする、自然と人間とが対立せずに共生する優れた自然観を有している」の昔からある日本人論には、私ははなはだ疑問だ。確かに、日本人は日本式庭園を造園したり、身近な生活空間で花を生け鑑賞したり、草木を栽培し育てて楽しんだりする。また都心の都市部のコンクリート建築の間にも広大な緑地公園があったりして、日本人は自然に親しみ自然を大切にして、それと上手く共生しているように一見は思える。

ところが、日本人の自然保護への意識のなさや実際の自然破壊のあり様は、欧米のそれと比べても相当にヒドいものがあって、日本人ほど無神経に無節操に、宅地造成や鉄道・道路敷設のために自然の木々をなぎ倒して山林破壊したり、ダム建設で自然の河川を改変させたりする民族、国民を私は知らない。「西洋の文化では人間と自然とが対立しており、自然に対抗して人間が自然環境を征服する思考があって、西洋の人は自然を人間のために人工的に改変させる」云々とよく言われるけれど、それは俗説であって、そんな欧米人でも日本人よりは自然環境に配慮し日本人ほどの無神経な乱開発などやらない。今日、ドイツを始めとするヨーロッパ諸国は環境先進国といわれ、西洋人の方が日本人よりも、むしろ自然環境保護に関しては、人間と自然との共生を果たそうとする意識が非常に高い。

だいたい「日本人は自然を愛で自然と共生して自然を大切にする」なとと言われるが、それは「日本人が自分達にとって都合の良いように自然を無理に箱庭にしたり、勝手に自然を移動させたり、時に自然を自分本位に飾って改変して自然を消費し単に満足しているだけ」の見かけの上だけの「人間と自然との共生」もどきで、日本人が自然保護や環境保全の事を真剣に考え取り組んでいるとは到底、私には思えないのである。

こうした事例からも、これまでに長いあいだ指摘され広く流通し定着してきた日本人の国民性に関する定番な日本人論の議論には、今更ながら再検討を要する。

さて岩波新書の黄、南博(みなみ・ひろし)「日本的自我」(1983年)は、「日本人の特質や国民性とは何か」を扱った日本人論の新書である。本書タイトルの「日本的自我」について、著者は次のようにいう。

「かねがね筆者は、日本人の自我構造の一つのきわだった特徴として、主体性を欠く『自我不確実感』の存在ということを考えてきた。その不確実感は一方では、弱気、内気、気がね、あきらめなどの消極的な面にあらわれる。しかしまたそれがあるために、思いやり、やさしさを生み、また不確実感を克服するために熱中、研究心、向上心、融通性などの好ましい行動傾向の入りくんだ複合をもたらしている…この多元的な自我構造が存在するからこそ、それにもとづいた多元的な角度からする、それこそ多元的な日本人論が次々に生まれるのである」

本書を読んで見事だと思うのは、著者が「日本的自我」を論じて日本人論を展開するにあたり、単に日本人の悪癖の問題を指摘して「だから日本人は島国根性が抜けずに駄目なのだ」と従来ありがちであった、日本人による自己反省の痛烈な日本批判に終始するのではなく、かと言って日本人の長所や美徳のみを拡大宣伝して「日本人は他国の人々と比べて素晴らしい。だから日本人よ、もっと己の民族、国民性に自信を持て」とただただ称揚するわけでもなく、「日本的自我」にまつわる複雑で多彩な日本人の一般的な自我構造を明らかにすることを通して、その考察に基づいた多元的な幅広い日本人論を本論にて展開できている所だ。

本新書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の南博は社会心理学専攻、京都大学卒業の後、コーネル大学大学院を経て、本書執筆時には成城大学教授の職にあり、一橋大学名誉教授でもあった。著者は「これまで三十年間に渡り日本人の生活と文化について、さまざまな角度から日本人の問題を取り上げてきた」という。岩波新書「日本的自我」を刊行時の1980年代には日本人論は日本の戦後社会にてかなり出ており、相当な蓄積があった。著者の南博は岩波新書「日本的自我」を執筆する時点で、それらおおよその過去の日本人論を参照しているに違いない。また南自身が、これまでに出した日本人や日本文化についての著作も数多くあった。

本書では日本人論にて従来、指摘されてきた日本人の特性、民族性や国民性の主要な項目や論点がさすがに、ほほ網羅で欠落なく挙げられている。例えば最終章での「(日本人の)意識の多元性」の節でも、「状況順応主義」「さすらい願望」「あきらめと代理満足」「根まわし」「ホンネとタテマエ」が、「日本的自我」の多元的特徴として一気に列挙されている。ゆえに、これまでの日本人論の成果や現状を把握し確認したい「日本人とは一般にどのような特性を持つか」を知りたい、日本人論が初学の読者に向けて、その概要が本新書を一読すれば分かるので大変に有用である。

ただその一方で、岩波新書の南博「日本的自我」の難点をあえて言えば、本書は日本人の民族性や国民性の各特徴項目を実に周到に、もれなく幅広く指摘できてはいるけれども、例えば「日本人がホンネとタテマエを使い分け、肝心な議論や自分の主張が求められる際にホンネを隠し、タテマエで無難に切り抜けて状況順応主義に陥ったり、タテマエになびいて大勢の集団組織の方に安易に同調してしまうのは、なぜなのか!?」などの、「日本的自我」の「自我不確実感」の由来やその精神構造を掘り下げて深く追究していない所だ。日本人の特性を幅広く網羅で指摘する広さの平板な議論が主で、その原因由来の深さへの考察が不十分なことが本書の難点である。この点に関しては、読者各自で日本人論の他書籍に当たるなどして補足し、日本人についての自身の考えを深めておくことが望まれる。

「戦前にくらべれば、われわれの⽣活状況はまさに⾰命的に変化した。しかしその⼀⽅で、⽇本⼈の精神構造はどう変っただろうか。本書は、⽇本⼈が共通してもつ⾃我不確実感に焦点をあて、そこから⽣じる⼼理的傾向─集団依存意識、格づけ主義、物真似ずき、定型化志向など─を、さまざまな行動パターンに則(そく)して分析する現代日本人論」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(423)平松守彦「地方からの発想」

岩波新書の赤、平松守彦「地方からの発想」(1990年)は元大分県知事の平松守彦が知事在任中に著した書籍である。私は大分県出身の現在大分市在住なのだが、平松守彦が県知事退任の後、大分市中心街の老舗(しにせ)百貨店で私用で買い物している姿を一時期よく見かけた。

平松守彦(1924─2016年)は大分県出身、東京大学法学部に進学し卒業後、商工省(元・通商産業省、現・経済産業省)に入省。当時、平松は通産省で工業立地関係の仕事を手掛けており、大分県からの依頼で大分鶴崎臨海工業地帯の開発計画を後押しした。大分から上京してくる県の陳情団に東京の役所で親身に話を聞き、郷土の大分の力になっていた平松を、平松の前任の大分県知事が後継者と見初める。そこで平松守彦は大分に戻り副知事の経験を経て、後に大分県知事に就任。平松県政は1979年から2003年まで24年の長期に渡る。平松は大分県知事選で圧倒的な強さを見せ、反・平松の対立候補に毎回、大差をつけて大分県知事職を6期の24年間、継続した。

通産省に入省後、産業振興行政の仕事をしていた平松は、企業誘致や県特産品の販売促進はできるが、地方自治には当初は全くの素人で、医療、教育、福祉、防災ら地方行政の地域政治には明るくなかった。このことは自著にて平松が自身の事として語っている。そのため、かつて東京での通産省時代に培(つちか)った産業振興行政の経験手腕にもっぱら依拠した形での平松県政となった。もっとも平松守彦は、前任知事からその産業振興の実績と手腕を買われての後継指名であったのだが。

ゆえに平松において「行政はPR」なのであり、昔から平松知事に批判的な人達からの悪評は「平松県政は祭り好き。誘致と宣伝のイベントばかりやりたがる」が多くを占めた。平松守彦が県知事時代に打ち出した諸政策については平松の自著「地方からの発想」に詳しく、例えば以下のようなものがあった。

「一村一品運動」(平松が知事就任後、最初に提唱した平松県政の柱の目玉となる地域運動。それぞれの地域が地域の誇りとなる特産品─それは農産物でもよいし観光でも民謡でもよい─をつくりあげ、それらを全国に宣伝していく県特産品促販運動である。姫島の車エビ、津久見のみかん、九重の豊後牛、中津江の鯛生金山など)

「豊の国テクノポリス」(県内へのハイテク企業誘致の促進。新日鉄や昭和電工や九州石油ら、従来の大分臨海工業地帯への工場誘致とは異なり、製鉄や電気や石油などの重厚大の産業ではなく、IC技術ら軽薄小のハイテク産業の工場誘致を進める。製鉄や電気や石油ら従来型の重厚大の基幹産業では、技術的に大分の地場企業が商品開発で参入する余地がほとんどなかった。しかし、IC技術ら軽薄小のハイテク産業の場合、地域企業参入の機会が増える。また若者や女性の雇用が、製鉄や石油の基幹産業よりもIC技術らハイテク産業誘致にて、より多く見込める。国東のカメラ・ビデオ機器製造のキャノン大分工場、大分市郊外のIC組み立ての東芝大分工場の誘致など)

「大分マリノポリス」(従来型の養殖・栽培漁業ではなく、より効率的で資源の無駄を出さない、機械音を出しての海流餌付けシステムなど、生態自然の環境に近づけた海洋牧場の構想。県南の臼杵や蒲江で実施)

岩波新書「地方からの発想」は、平松守彦が大分県知事在任中、第4期の1990年に出した書籍である。本書出版時の1990年はバブル経済の好景気の消費に日本中が浮かれていた明るい時代で、しかも、そもそもの平松守彦が、かつて東京での通産省時代に培った産業振興行政の経験手腕の実績にもっぱら依拠した形での産業振興と消費推進の、いわば「誘致と宣伝」の地方政治を強烈に展開した人であるので、大分市在住の私は、大分県知事選に毎回投票してきたが、ずっと近くで平松県政を見てきて到底、堅実とは言い難い投機のギャンブル的な所が多々あって、やはりこの人は相当に危なっかしいのである。本書を2000年代以降の今日読み返してみると、「大分県のセールスマン」を自認する平松自身の政治家資質とバブル経済の当時の時代の好景気に調子に乗り後押しされて、平松県政の「今は昔」というか「あとの祭り」というか、率直に言って「平松県知事時代は失政だったのでは」と私には思えなくもない。

平松の「地方からの発想」を読むと、東京一極集中への批判から「地方再生の地域振興を果たす、地方からの真の豊かさの実現」の理屈に時に隠され上手い具合に誤魔化されているけれど、県内への企業誘致や県の特産品の販売促進には、それなりの公共投資や宣伝費用が要(い)る。ただ頼み込んでも県外の企業は大分県には来てくれないし、宣伝のPR活動がなければ「一村一品」の大分県の特産品は全国区で売れず県内観光地も集客はできない。事実、平松県政の問題点として、県外企業誘致や県内産業振興のために、後先考えずの採算度外視な大規模な土地開発事業や箱物施設建設やイベント開催の大型公共投資の連発があった。岩波新書「地方からの発想」では、平松は自画自賛の自己実績の自慢に終始しているため、これらのことには一切言及せず終始、巧妙に隠されている。そうして平松退任後、かつての平松知事時代に連発された採算の取れない箱物インフラの維持管理の問題や無理筋で強引な産業振興計画の後始末のために、後々まで大分の県財政は長期に渡り圧迫され続けるのであった。

この意味で、「東京で産業振興行政の仕事を手掛けていたので、企業誘致や県特産品の販売促進はできるが、地方自治には当初は全くの素人で、医療、教育、福祉、防災ら地方行政の地域政治には明るくなかった」旨の平松の自己認識や、昔からあった平松知事に批判的な人達からの「平松県政は祭り好き。誘致と宣伝のイベントばかりやりたがる」の悪評は、あながち間違ってはいない。

例えば平松県政の問題点として「香りの森博物館」の案件(バブル景気崩壊後の県財政悪化にもかかわらず、香りの森博物館の建設を知事の平松が強行し、案の定、経営破綻の後に平松の親族経営の学校法人・平松学園に博物館施設が破格の安値で売却された問題)は、前からよく指摘される所である。また本書「地方からの発想」には書かれざる、その後の平松県政の最終6期における総決算の目玉としての、2002年サッカー・ワールドカップ日韓大会での開催地立候補のために大分にJリーグ参入を目指す「大分トリニータ」のプロサッカーチーム創設、その上でドーム型サッカースタジアムの建設ならびにスタジアム周辺のスポーツ公園の大規模土地整備事業に絡む巨額の公的資金(つまりは税金)注ぎ込みの問題もあった。

大分トリニータのプロサッカーチームの創設は、Jリーグ参入を目指すことでの地域スポーツ振興のための長期政策というよりは、「とりあえずは直近の大分でのワールドカップの開催誘致実現に向けてドーム型サッカースタジアムの建設ならびにスタジアム周辺のスポーツ公園の大規模土地整備の大型公共事業を、毎度のお祭りイベント好きな平松知事が単にやりたかっただけなのでは」と大分県人の私には正直、感じられたし、周りの人達からのそうした冷ややかな声は県内にて当時よりあった。ドーム型のスタジアム建設や大規模な周辺のスポーツ公園整備に、地元の建設業界は思わぬ大型公共事業の特需で大喜びであったかもしれないが、言ってみれば「一時的で派手な祭りのあと」のワールドカップ終了後の、スタジアム経営や大分トリニータのサッカークラブ運営に平松県政は極めて無責任で、資金計画的に相当に杜撰(ずさん)で滅茶苦茶だった。その辺りの事情は、木村元彦「大分トリニータの15年・社長・溝畑宏の天国と地獄」(2010年)の書籍に詳しい。

本書を読むと、大分トリニータのJリーグ参入は、とりあえずの見切り発車で計画性なく極めていい加減、県庁内と県財界内での平松と反・平松派の対立や策略の駆け引きもあって、平松県知事時代の暗黒面(ダークサイド)を確かに覗(のぞ)いたような非常に馬鹿らしい思いが私はする。岩波新書の赤、平松守彦「地方からの発想」には書かれざるその後の平松県政の問題を知る上でも、木村元彦「大分トリニータの15年・社長・溝畑宏の天国と地獄」は、もし未読な方がおられたら、私は現大分市在住の大分県人として強くお勧めする。

岩波新書の書評(422)阿波根昌鴻「米軍と農民」

岩波新書の青、阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)「米軍と農民」(1973年)は、私にはとても懐かしい書籍である。近年、本書は復刊されて容易に手に入り読めるが、昔は長い間、絶版品切れの入手困難でなかなか読めなかった。私が岩波新書の阿波根昌鴻「米軍と農民」を知ったのは2000年代初頭で当時、私は沖縄基地問題に関する主要な書籍を古いものから新しいものまで集中して読んでいて、そのとき本新書の存在を知ったのだが、昔は長い間の絶版で稀少本として「米軍と農民」は古書価格が相当に高騰していたし、またその時分、私が住んでいた近くの図書館に本新書はなかった。そこで「米軍と農民」を所蔵している遠方の図書館に出向き、しかし私はその公立図書館の地域住民ではなかったので館外貸し出しができず、知らない街の図書館の閲覧室で極めて短時間で一気に本書を読んだ。今となっては非常に懐かしい思い出だ。そうした個人的な思い入れがある、岩波新書の「米軍と農民」である。

岩波新書「米軍と農民」は、戦後における沖縄の伊江島のアメリカ軍日本駐留基地建設に対する島民の基地反対闘争ならびに反戦平和運動の歴史を、伊江島在住の阿波根昌鴻が記したものだ。伊江島は沖縄本島本部半島の北西に位置する島である。現在でも伊江村の村面積のおよそ35パーセントは、アメリカ海兵隊の伊江島補助飛行場が占めているという。

もともと戦時の1943年、伊江島に当時「東洋一」とされる規模の日本帝国陸軍の伊江島飛行場が建設されたことから、島はアメリカ軍の重要な攻撃目標とされ、伊江島の戦い(1945年4月)にて当島は日本軍と米軍との間での激戦地となった。当時の島の住民は集団自決に追い込まれるなど、兵士とともに非戦闘員を含む多くの民間人の犠牲者を出した。そうして1945年8月、日本の敗戦後、伊江島はアメリカ軍に占領され、島の北西部には在日米軍の伊江島補助飛行場が建設された。本書の著者である阿波根昌鴻は、1901年の沖縄の生まれ。後にキューバとペルーに移住し、1934年に沖縄へ帰村。その後、伊江島にて農業に従事するが1945年4月に島が激戦地となり、米軍に捕らえられた。終戦後の1947年にようやく伊江島の自分の土地に戻るも、島の⼟地の3分の2が⽶軍に強制接収されたことを受け以後、沖縄での反基地運動の先頭に立ち、アメリカ軍による⼟地強奪の不当性を訴える⽶軍強制⼟地接収に反対する反基地運動を主導した。なお阿波根昌鴻は2002年に亡くなっている。

戦後に本土に生まれ育った私は、沖縄の人達はなぜあそこまでアメリカ軍基地反対の反戦平和運動を力強く展開し、現実離れで理想主義的とも思えるほどにアメリカと日本の軍隊と両政府に抵抗し自分達の理念を貫こうとするのか、しばしば疑問に思うことがあった。もはや「反対のための反対なのでは」「抵抗することに意地になっているのでは」「皆が反戦平和の理想主義に心奪われすぎているのではないか」と時に思えたのだ。だが、後に沖縄基地問題に関する書籍を集中して読んで、私は沖縄の人々の心が少しだけ分かったような気がした。

戦前に普通に平和に穏(おだ)やかに暮らしていて、ある日、旧日本軍から強制的に土地接収され日本軍の飛行場ら軍事基地が建設されて、そのことからアジア・太平洋戦争の末期には沖縄がアメリカ軍の軍事標的にされ、島民は戦禍に巻き込まれ多くの住民が負傷・戦死し、時に旧日本軍から集団自決も暗に迫られて散々な目に会った(「米軍と農民」の著者・阿波根昌鴻も、一人息子を沖縄戦で亡くしている)。そして1945年の敗戦を迎えると、今度は戦勝国のアメリカ軍の軍事基地建設のために沖縄の多くの土地が米軍に強制的に接収されてしまう。かつて沖縄の人々に米国は敵国であり「鬼畜米英」と教えていた日本国は、戦後はアメリカとの軍事同盟国の立場から、米軍基地を受け入れるよう沖縄の日本復帰後も一貫して強硬に沖縄に迫る。しかもそれら米軍沖縄基地は、日本の自国防衛のためではなく、朝鮮戦争やベトナム戦争にての米軍の東アジア各地域へ出撃のために日本からする、アメリカへの軍事拠点の提供なのであった。

こうした戦前と戦後を連続しての日本とアメリカの軍隊ならびに両国政府に対する沖縄の不信の怒り、激戦と占領を経験し両国の政治権力にさんざん翻弄(ほんろう)されてきた沖縄の人々は、日本とアメリカの現実のいずれの政府や軍隊にも与(くみ)せず、おもねることなく、その両方を超える基地反対や反戦平和のある種の理想主義的な理念の高みに自らを昇華させる他なかった。沖縄基地問題に関する書籍を連続して読んで、そういった沖縄の過酷な現実、戦時から戦後へ沖縄の人々が置かれた厳しい立場を私は少しだけ理解し共感できたような気がしたのだ。

さて岩波新書「米軍と農民」の良さの読み所は、次の二つであると初読の時から私には強く思えた。

まずは著者の阿波根らが主導する伊江島の⽶軍強制⼟地接収に反対する反基地運動にて、実際に米軍側の代表者や現地の軍人と接し交渉する際、いたずらに敵対憎悪の喧嘩腰にはならず、「挨拶をする」など礼儀を尽くして人道的態度で表面上の形式的には穏やかに反対交渉する運動方針を彼らが貫いていることだ。その他、交渉の際には「耳より上に手を挙げない」「怒ったり悪口をいわない」「会談のときに必ず座る」「大きな声を出さずに静かに話す」「集合して米軍に応対するときに鎌(かま)や棒切れ、その他の武器を手に持たない」という自分達に課した取り決めもある。これには初読の際の昔から私は痛く感心した。「阿波根昌鴻は相当にできる人だ。この人は組織運動の闘争のやり方をよく分かっている」の感嘆の思いがしたのである。

反戦平和運動や政府へのデモ、住民運動や職場での労使間抗争の組合運動でも何でも、抗議して交渉して闘争する弱い組合組織の側は、いついかなる時でも大声や怒号や野次を発したり、相手の交渉者を睨みつけて威嚇(いかく)したり、感情的になって机を叩いたり物を投げたり器物を破損させたり、武器を持ったり相手の身体に直に触れたりしては絶対にいけない。組織運動には、その主張内容の正当性以前に、それを訴える際の適切で最良なやり方があるのだ。いくらこちらに正義の理がある正当な運動であっても、例えば大声で怒号や野次を発したり、感情的になって机を叩いたり物を投げて器物を破損させた時点で、その運動闘争は反社会的で非合理なものとされ実質、敗北してしまう。だから組織運動の闘争の際には、たとえ対立している憎き相手であっても、彼らに対し礼儀的で非暴力で、あくまでも表面上の形式的には「穏やかに」対決闘争するべきだ。

逆に私など、そうした組合の組織運動や個人的な家族・親族間での争いや近隣住民とのトラブルが仮にあった場合には、むしろ相手を暗に挑発し興奮させて、わざと怒鳴り声や暴言を相手に吐(は)かせて、それを密(ひそ)かに録音して後日に第三者同席の皆の前で音声公開したり、わざと相手に自分の身体を触れさせ押させて大げさにコケて転倒したりして、いよいよのときは暴行傷害で警察に被害届を出すと思う。その他、相手が勝手に興奮して物を壊せば、即に器物破損で訴えを出せる。現代では相手を軽く押したり胸ぐらを掴(つか)んで威圧しただけで、それは十分に「暴行傷害」の罪に該当する。全く怪我を負わせていないなどの力の加減以前に、交渉や闘争の際には、そもそもの相手の身体に直に触れること自体がいけないのであり、それは迂闊(うかつ)であるのだ。

岩波新書「米軍と農民」を執筆の阿波根昌鴻は、そういった組織闘争のやり方の海千山千な方法を熟知し、実際にそのように組織立てて運動指揮している。これは本書を読んで昔から「阿波根昌鴻は相当にできる人である。この人は組織運動の闘争のやり方をよく分かっている。阿波根は実に見事だ」と私は、ひたすら感心する他ないのである。

次に、伊江島の⽶軍強制⼟地接収に反対する反基地運動にて抗議したり反対するだけの運動の「受身からの脱却」をはかり、「人には頼れない、どうしても自分の力で理論を身につけなかればいけないと考え」て、1960年代から阿波根ら伊江島の人達は学習活動に力を入れるようになる。有志にて資金を集め島の「人材養成有志会」から、伊江島の青年を東京の学校に送り学ばせる。島の若者が東京の学校で哲学や政治や歴史の「理論」を学び、島に帰ってその理論知識を運動に積極的に生かすようにした。

阿波根昌鴻も、後に東京の学校に自身が入学して学んでいる。1966年、阿波根が東京の学校に入学して学んだ時、氏は60歳を過ぎていた。私は本書を初読の際、比較的若かったが、岩波新書「米軍と農民」を読んで「人は何歳になっても、いつからでもその気になれば学習できるのだ」ということを本書の阿波根から教えられ奮起させられた思い出がある。ここも本新書の読み所で昔から私が好きな所だ。「東京の学校で学び、教室の最前列に座って講義ノートを三十冊以上作った」という、この箇所の阿波根昌鴻による本書記述は氏の人柄が読み取れる非常に良い文章であると思うので以下、引用しておこう。

「わたし自身中央労働学院に入学しました。一九六六年のことであります。そこで学んだことは、わたしが長い間考えてきたこと、いくらかやってきたことが全部納得できた感じで、先生方の講義はわたしにはおもしろくて仕方がなかった。たとえていえばわしらには海そのものはよくわかるが、いままで海という字はわからなかった。それが海という字を教えてくれるのですからすぐわかる。…真謝(註─阿波根が土地所有の伊江島の地区名 )の農民が実際にやってきたことを理論で解明してくれたのですから全部わかりました。わたしはおもしろくておもしろくて、先生方の講義は三十一冊のノートに全部とりました。教室のいちばん前の席に坐って、先生が咳をしたら咳まで書くぐらいにノートをとったので、先生方の中には講義がやりにくいと煙たがっていた方もおったようであります」(「伊江島の学習活動」)

岩波新書の青、阿波根昌鴻「米軍と農民」は近年、復刊され、以前とは違って容易に入手して読めるようになった。後に改めてゆっくり読み返してみて、本書が沖縄でのアメリカ軍日本駐留基地建設に対する基地反対闘争ならびに反戦平和運動の文脈にて頻繁に言及され、よく紹介されるのも「なるほど、納得」の思いがする。岩波新書「米軍と農民」は確かに良書であり、名著だ。

「かつての激戦地沖縄県伊江島。⽶軍占領後は島の六割が爆撃・落下傘降下等の演習地として使⽤されてきた。肥沃な⼟地で農耕に⽣きるはずであった島の⼈々は、⼟地を取り上げられ、家を取り壊されて、⽌むなく⽶軍を相⼿どった必死の闘いに⽴ち上がった。本書は、農⺠の苦難に満ちた⽣き⽅と、彼らの⻑く粘り強い闘いの記録である」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(421)マイケル・ローゼン「尊厳」

岩波新書の赤、マイケル・ローゼン「尊厳」(2021年)の表紙カバー裏解説は次のようになっている。

「 『尊厳』は⼈権⾔説の中⼼にある哲学的な難問だ。概念分析の導⼊として⻄洋古典の歴史に分け⼊り、カント哲学やカトリック思想などの規範的な考察の中に、実際に尊厳が問われた独仏や⽶国の判決などの事実を招き⼊れる。なぜ捕虜を辱(はずかし)めてはいけないのか。なぜ死者を敬(うやま)うのか。尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書が⽰す道とは」

なぜ今「尊厳」なのか。本新書の第一章は「『空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉』」となっている。人権言説の中心にある 「尊厳」という概念をして、「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」とは冒頭からなかなか挑発的な章展開だ。だが、そうした「尊厳」とは「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」に過ぎないという決め付けに本書の中で著者は反論し、最終的には「私たちは人間性に対する尊厳を尊重の義務を負う」という「尊厳」尊重の態度を貫いている。著者が「尊厳」という書籍を著すのには、「尊厳」という人権言説の中心にある哲学的概念が、何ら人々の間でその内容が吟味され深められておらず、逆に「尊厳」の概念を持ち出し語って振り回しただけで、人々が「尊厳」の言葉の前に平伏してしまう。もう誰も「尊厳」について本格的に議論したり、その内実を掘り下げて吟味したり出来ず、それが自動的に「人権言説の中心にある概念」で、各人にとって形式的で自明な「道徳的に正当な正義」であって「尊重され守られるべき義務的説教」と漠然と目されている。そういった「尊厳」という概念をめぐる今日的状況を指しての「尊厳」=「空っぽ頭の道徳家たちの合い言葉」の言辞をとりあえずは冒頭にて紹介し、後に反論・批判する著者による刺激的な問題提起の構成である。

これは1990年代から2000年代初頭にかけての日本における人権批判の風潮と類似しており、かつてのそれを思い起こさせる。当時、日本の戦後民主主義社会にて長い間、自明の前提とされていた日本国憲法の三大原則の一つ、「個人の基本的人権の尊重」に対し、「本当に人権は先天的で自明な正当正義なのか。そこまで尊重して遵守されるべきものであるのか」の声が出て、テレビのあるニュース番組の公開討論にて、少年が「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と質問して、その場でニュースキャスターや評論家ら大人が即答できず絶句したまま番組放送が終了する事件もあった。そうして、この人権の正しさの自明性に対する疑いは、遂には人権そのものの否定にまで逆噴射したのであった。例えば「そもそも人権の観念は西洋由来のものであり、日本社会には馴染(なじ)まない」とか、「人権という『正義』を盾(たて)にして、労働運動や部落解放運動や在日外国人の権利保障を訴える左派の市民運動団体が自分たちの特権利益享受のために人権言説を利用しているから、人権思想の流布は、むしろ弊害」というような人権否定の言説が当時、多く流れた。もっともこのような人権思想そのものを過激に全否定する風潮は、先進国の中で日本だけであって、欧米では人権の全否定などすれば今も昔も、その当人は袋叩きにあって社会的に抹殺される。欧米社会にて人権それ自体を全否定するなど、暴言暴挙の愚行以外の何物でもない。人権の正しさの自明性に対する疑義から遂には人権そのものの否定にまで至るのは、恥ずかしくも当時の日本くらいであったのだが。

岩波新書のマイケル・ローゼン「尊厳」を一読して、議論の獲れ高を目指す功名心に著者が駆られているからなのか、「尊厳」というテーマについて、そもそもの定義や相互了解の基本事項を飛ばし、やたら「尊厳」に関する難題(アポリア)への急角度の突っ込みをやりたがり、しかし当然ながら、たかだが200ページ強の新書の限られた紙数では丁寧に論ずることなどできず、やはり中途半端に失敗しているように私には感じられた。

話が間接的で抽象的すぎる。より直接的に具体的に述べよう。先に引用した本書解説文に「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか。なぜ死者を敬うのか。尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書が⽰す道とは」とある。諸外国との戦争や自国の内戦にて、自分達の味方の同僚兵士を戦闘にて殺傷し、時に非戦闘員の民間人にまで戦時暴力を加えた敵兵を捕虜として捕獲した場合、憎き敵兵として「尊厳」に基づく人間的な扱いをせず、非人道的な報復の暴力を加え彼を辱めてよいか。また一般に人が死亡した場合、その人の遺体を手厚く葬ることなく、そのまま野ざらしにして放置したり動物に食べさせたりして、死者を敬わずにぞんざいに扱ってよいか。そうしたことは人間の尊厳に対する侵害となり、許されないのではないか。

「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」「なぜ死者を敬うのか」のこれら英国人のローゼンにより本書で挙げられている事例は、私たち日本人の日本社会の今日の問題に引き付けて、より分かりやすく以下のように言い換えてもよい。「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」については、凶悪犯罪にて服役中の、矯正や社会復帰を現時点で法的に絶たれている死刑囚や無期懲役囚に対し、彼らは終身もしくは死刑執行時まで刑務所にて衣食住の最低限の生活は国家から保障されるし、かつ心身の不調があれば医療刑務所にて適切に処置され治療が施されて、人間として尊厳を以て扱われる。だが、彼らは殺人などの凶悪犯罪により他者の生命や尊厳をすでに奪っているのである。「そうした他者の尊厳をすでに奪っている死刑囚や無期懲役囚に対し、彼らの尊厳は尊重されるべきかどうか」。また「なぜ死者を敬うのか」に関しては、例えば東日本大震災(2011年)の発生後しばらく、火葬場の多くが罹災し崩壊したため、多数の震災犠牲者の遺体は通常の火葬にされず、そのまま土葬にて葬られた。この報道を聞いて私達(少なくとも私)は、「死者が火葬によらず手厚く埋葬されていない」の非常に痛ましい思いを即座に持った。これはなぜなのか。ないしは、遺体処置の際に乳幼児の遺体の頭部にスーパーのレジ袋をかぶせた葬儀会社に対し、遺族が「精神的苦痛」のために葬儀会社を訴えた裁判の事例(2019年)が前にあった。「なぜ私達は、遺体がぞんざいに扱われ、手厚く葬られず死者に敬意が払われていないと精神的苦痛を感じてしまうのか」。

これら「なぜ捕虜を辱めてはいけないのか」「なぜ死者を敬うのか」に類する事柄は、まさに「尊厳」をめぐる今日の難題(アポリア)である。この議題でディベート(討論)をやれば、各人ともに立場が割れて必ず紛糾するテーマだ。皆が容易に結論を出せず答えに窮する。しかし、これは「尊厳」をめぐる相当に特殊な事例で日常的にはなかなかありえない究極の問題である。こうしためったにありえない例外状況に関し、いたずらに急角度で突っ込み議論するよりは、それ以前に本書のテーマである「尊厳」についての、そもそもの定義や相互了解の基本事項を確認しておくべきだ。事実、2000年代以降の現在の人類は、「尊厳」に関する例外状況のめったにあり得ない問題以前に、「尊厳」についての基本的な事柄を熟知し理解しているとは到底、言い難い。後述するように、近代以降の社会にて「尊厳」とは人間に対してのものであり、この「人間についての尊厳性の自覚」という思想に裏打ちされた法的な制度的表現が「個人における人権保障」とされる。にもかかわらず、今日でも人間の「尊厳」や個人の人権を安易に否定したり制限しようとしたりする人は多くいる。その程度の、誠に憂慮すべき「尊厳」をめぐる現在の人類の理解不足の様相であるのだ。

よって岩波新書「尊厳」には書かれていない事項も含め、議論の前提となる「尊厳」の定義や基本的な事柄を確認的に示すことで以下、本新書に適切に当たるための導入の案内(ガイド)としたい。

もともとの「尊厳」の定義はこうだ。

「尊厳とは、尊(とうと)く厳(おごそ)かなこと、気高く犯しがたいこと、またその様。気高く犯すことのできない権威をさす。人間の尊厳といった場合、当人の性別、人種、宗教、出自、階層、財産、容姿、能力、社会的地位などに関係なく、すべての人が尊重され尊ばれなければならない。この意味で尊厳において、あらゆる人間は平等とされる」

思想的な「人間についての尊厳性の自覚」は法的な制度的表現である「個人における人権保障」へ、そのまま連なっている。事実、人間の尊厳性についての自覚は、すべての個⼈が互いを⼈間として尊重する基本的人権保障の法原理をなし、例えば、1945年に調印・発効した国際連合憲章では「基本的⼈権と⼈間の尊厳及び価値と男⼥及び⼤⼩各国の同権とに関する信念をあらためて確認する」として、基本的人権と⼈間の尊厳が根本原理とされている。また1948年に国連総会で採択された世界⼈権宣⾔にても「すべての⼈間は、⽣れながらにして⾃由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」と定めて、人間の尊厳と基本的人権の尊重とが同様に基礎原理とされているのである。

岩波新書「尊厳」は、「尊厳」について近代以前の古代のギリシア哲学や中世のキリスト教世界の歴史的系譜から幅広く、著者が語りたいことをかなり奔放自由に述べているため、全体に「尊厳」に関する議論が拡散し、焦点が絞り込まれていない曖昧(あいまい)な読み味が残る。今日、私達が「尊厳」について考える場合、近代以降の「尊厳」にて、人間に対して適用される「人間の尊厳」に議論を絞って主に考察すればよいと思える。確かに古代ギリシアのキケロの時代から「尊厳」という概念はあったし、中世キリスト教世界にても同様に「宗教的寛容」に絡む「尊厳」の観念はあった。しかし「尊厳」の思想の画期は近代に入ってからなのであって、近代社会にて「尊厳」は人間に対するものになった。ゆえに今日でも「尊厳」を以て接せられるべきは人間であり、人間以外の動物や物や国家(政治権力)には何ら「尊厳」はない。

そうして岩波新書「尊厳」の中での、友人と著者との「じゃぁ、教えてくれよ。哲学者は『尊厳』について何が言えるんだい」「ええと、あまり知らないんだけど─たぶんカントかな」のやり取りに象徴されるように、近代の人間に対する「尊厳」はドイツ観念論の創始であったカントに求められる。実のところ、人間についての「尊厳」の自覚は、人間を「人格」と見るカントの哲学から始まっている。カント以前にホッブズにて、共同体や因習に埋没し圧倒されない判断行動主体の「個人」はあった。ホッブズ後のロックにて、主に所有権を有しそれが保障される権利主体の「人権」もあった。そしてロック以降のカントにおいて、初めてその人自体が「尊厳」を以て尊重して接せられなければならない「人格」が成立したのであった。カントにおいて、人間は欲望充足の因果律が貫徹する現象界に生きながら、しかし同時に叡智界(物自体)への「可想」をわずかに感得でき、道徳的「実践」をなせる自律的主体である「人格」であるがゆえに、動物とは異なり、人間は「尊厳」に満ちた存在なのである。

だから、近代以降の人間に適用される「尊厳」の概念について、より詳細に知りたければカントを参照すればよい。「尊厳とは、尊く厳かなこと、気高く犯しがたいこと、またその様。気高く犯すことのできない権威をさす」といった定義をより分かりやすく踏み込んでカントに即して言えば、「尊厳とは、目的と手段の思考において、いつ如何なる状況下でも、それを手段として用いないこと。絶えず目的として扱うこと」である。何となれば、カントにおいて彼の前期の「批判哲学」と後期の道徳論とを貫く人間性についての定式は、「自分の人格の内にあるものであれ、他の誰かの人格の内にあるものであれ、人間性を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱うように行動せよ」の、いわゆる「目的の王国」への志向であったからだ。それはカントにとって、いつ如何なる場合でも継続し反復して厳密に実践され守られるべき「格率」(自分で自分に課した厳格な規則)であった。

ここに至って、先に述べた「近代社会にて『尊厳』は人間に対するものになった。ゆえに今日でも『尊厳』を以て接せられるべきは人間であり、人間以外の動物や物や国家(政治権力)には何ら『尊厳』はない」の旨はより明瞭になる。近代以降の社会にて人間以外の動物や物や国家は、人間の生存や幸福のための、つまりは人間にとっての手段でしかない。それらは到底、それ自体が目的とはなり得ないので、それら動物や物や国家には「尊厳」などないのである。ただし、そのものに「尊厳」が見出せないからといって邪険にぞんざいに扱ってよいということにはならない。例えば動物は人間にとっての食糧や愛玩の対象となる手段であるから、動物には「尊厳」はないが、「尊厳」あるそれ自体で目的たる人間から最大限に「尊重」されて動物は丁寧に扱われ、繁殖され時に保護されなければならない。

カントにおいて人間は「尊厳」を有した「人格」の目的主体であるので、いつ如何なる場合でも人間を手段化することは許されない。人間の手段化は「尊厳」に反する倫理的・道徳的悪であり、絶えず非難される。例えば今日の労働問題で、長時間就業、低賃金ら劣悪な職場環境や過労死が倫理的に問題にされるのは、資本家企業が利潤の儲けを出すために不当に労働者を酷使して、人間を自分達の金儲けのための手段として使い倒しているからである。このことは、カント以後のマルクスの時代から「資本主義批判」として長く指摘され続けてきたことだ。また例えば、愛のない者同士の政略結婚が倫理的に非難されるのは、この場合の結婚が当人らの幸福追求の主体的目的に基づくものではなく、それ以外での世間体の確保や金銭的見返りの目的があって、結婚する当人ら人間が目的ではなく手段と化しているからに他ならない。

カントは「尊厳」を、いわゆる「目的の王国」論にて人間を手段としない戒(いまし)めに加え、そのような「尊厳」に関する言動そのものに対しても、「尊厳」についての言説や行動が手段にならないよう慎重を期した。カントの「自分の人格の内にあるものであれ、他の誰かの人格の内にあるものであれ、人間性を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱え」は、定言命法である。定言命法とは、仮言命法とは異なり、条件や仮定や限定が一切付かない。定言命法とは、私達が存在している現象界の自然の経験の因果律に左右されない、叡智界(物自体)から私に先天的に、経験の混じり気なく「純粋」に要請される単に「─すべし」という原理の格率である。他方、仮言命法とは「─ならば─すべし」という条件や仮定や限定が付いた、現象界の自然の因果律や経験に基づいた原則や規範である。

これは英文法で考えると理解しやすい。定言命法は「S+V」の主節のみである。他に従属節や副詞的挿入はない。だが仮言命法は、文頭に条件や仮定や限定の従属節が付く。また文中にも同様な副詞的挿入もある。つまりは、定言命法である「人間を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的として扱え」は、何ら条件や仮定や限定が付かない。いつ如何なる状況下で、誰に対してでも必ず遂行されなければならない。その命題の内容そのものと格率の遂行自体が目的であるのだ。ところが、かの「人間を決して単なる手段として扱うのではなく、常に同時に目的とて扱え」が、その格率自体の使われ方が仮言命法となるとき、例えば「もし他者から尊敬され、人間社会の公正な一員でありたければ」や「人として正しく生きたいと思うなら」や「緊急や異常時を除いて、状況の許す限りにおいて」という(時に極めて不純な)条件や限定が入って、ある目的に対しての手段として「人間を単なる手段ではなく、同時に目的として扱え」の格率が実際言説として発せられ現実に行動に移される場合には、その命題は定言命法の正当な内容であっても、格率の使われ方において、それはもはやそれ自体が目的ではなくて手段に堕(だ)している。一見、その人は人間の「尊厳」を尊重してそれ自体を目的とし倫理的に正しく振る舞っているようではあるが、実質は人間の「尊厳」を尊重の振る舞いは、「他者から尊敬され、人間社会の公正な一員でありたい」などの自身の目的達成のための手段的行為なのであるから、それは道徳的に見て明確に「悪」なのである。

カントは、こうした格率の内容と格率それ自体の実際の使われ方にまで分割して細かに考え、「尊厳とは、目的と手段の思考において、いつ如何なる状況下でも、それを手段として用いないこと。絶えず目的として扱うこと」の意味を一貫して追究したのであった。