アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(435)廣瀬健二「少年法入門」

私は法学部出身ではないし、法律をそこまで専門的に学んだことはないので、日本における主要な6つの法律である「六法」のうちの刑法(犯罪に対する刑罰を定めた法律)と刑事訴訟法(刑事手続について定めた法律)に関し、それほど詳しく知っているわけではない。しかし社会人として刑法や刑事裁判について、さらにはそれら法律の背後に通底し法律を支えている近代的な「法の精神」とでもいうべきものに関して、それなりの常識的な知識と理解は有している。

そんな法律全般に専門外な私でも、テレビや雑誌などで流れる刑罰と刑事裁判についてのメディアの意見や世論の動きに驚き、思わず眉をひそめてしまう事がある。以前に私が相当に驚いたのは、光市母子殺人事件(1999年)をめぐり、当時よりタレント活動していた弁護士、後にある地方行政の長の政治家にもなったその弁護士がとあるテレビ番組で、被告を弁護する弁護団の弁論内容を批判し、被告弁護団の懲戒請求を一斉に弁護士会に出すよう視聴者に広く呼びかけ結果、多くの懲戒請求が殺到した事件(光市母子殺人事件弁護団懲戒請求事件・2007年)であった。

これは法を学び法律や裁判に関する知識を持ち、それら法を解釈し法を運用して主に法廷にて活動している弁護士ら、法曹関係者(裁判官、検察官および弁護士)として到底あり得ない許しがたい言動だ。このタレント弁護士は公的裁判制度や法律全般について何ら本質的なことを知らないのでは、の背筋が凍(こお)るような恐怖の思いが私はした。

裁判にて、どれほど重大犯罪を犯し逮捕・起訴されている被告でも必ず弁護団は付くし、その弁護団は被告を弁護し、無罪や減刑や情状酌量を法廷にて主張する弁護活動が認められる。そういった被告への弁護活動は裁判にて被告の権利として明確に保障されている。たとえ弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄(つじつま)の合わない非合理なものであっても、被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても。そうでなければ、弁護がない被告となれば、検察と傍聴遺族と出廷参考人と法廷外の世論から一方的な袋叩きにあう集団リンチの吊(つる)し上げ裁判になってしまう。

ゆえに弁護団は、時に精神鑑定を要求して被告の責任能力の有無を問うたり、犯行時の心神耗弱状態を主張したり、犯罪に至るまでの被告の不幸な生い立ちや厳しい生活環境を指摘して減刑や情状酌量を求めたりする。仮に地裁で死刑の極刑判決が出れば、死刑が回避されるよう高裁に控訴、さらには最高裁に上告するよう弁護団は被告に勧める。犯罪捜査や逮捕や刑事事件起訴の全ての過程で、被疑者には黙秘権(自分が供述したくない自身にとって不利益となる事柄は沈黙できる権利。および、その沈黙を理由に不利益を受けない権利)が保障されている。刑事裁判の被告にも尊重され認められるべき権利は当然あって、それらは被告に法的に保障されてあるのだ。

被告人の弁護という弁護団の職責を強制排除し、法廷における被告の弁護される権利を侵害することは絶対に許されない。たとえ被告の弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄の合わない非合理なもので、かつ被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても、その弁論内容によって被告弁護団を無理矢理に黙らせたり、法廷から強制的に排除したりすることは出来ないし、そうしたことは許されない(絶対にやってはいけない)。弁護団の弁論内容が妥当かどうかの判断は、法廷外からの一般市民の弁護団に対する懲戒請求によるのではなく、法廷の中で最後に裁判官により結審時に判決と共に判断されるべきものである。

現在、被告とされている警察に逮捕され、後に検察により刑事裁判で起訴された者を弁護することは、「あたかも犯罪者の味方をしている」ように被害者遺族や被害者に同情的な一般の人々には思え、被告弁護団の弁護活動が気に入らなくて排除したい気持ちになるのかもしれないが、繰り返し言うように、裁判にて、どれほど重大犯罪を犯し逮捕・起訴されている被告でも必ず弁護団は付くし、その弁護団は被告を弁護し、無罪や減刑や情状酌量を法廷にて主張する弁護活動が認められている。そういった被告への弁護活動は裁判にて被告の権利として明確に保障されているのである。

刑事裁判は、被害者当人や被害者遺族の無念を晴らすための単なる復讐の仇討ちではない。また明白に犯罪を犯した被告に対し、一般社会の人々が憎悪し他罰感情を爆発させ処罰して結果、「正義」の遂行に満足するものでもない。そうした被告に対する激しい怒りや他罰感情を爆発させ上からガツンとやって被告を叩いて厳しく罰すれば、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で溜飲(りゅういん)が下がり良いかもしれないが、本来の刑事裁判とはそのような単純なものではない。犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で仇討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多くある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。様々にある内の犯罪被害者や被害者遺族の怒りの復讐感情だけで全て判断処理されてしまえば、「目には目を、歯には歯を」の仇討ちが内実の「報復裁判」になってしまう。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神状態や性格資質や生い立ち事情らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛(げんしゅく)に下されなければならない。

最近では起訴する側の検察が法廷にて、「被害者本人と残された遺族の無念は計り知れない」などの文言を付して一律に厳罰を求めたりするが、あれは検察の思い上がりでしかなく、裁判における司法判断は被害者遺族の無念を晴らすためだけにあるのではない。他にも様々に総合的に考慮するべき要素が存在する。

このことでいえば、前述の光市母子殺人事件にて、被害者遺族が法廷外で連日マスコミ取材を受け、母子の遺影を携(たずさ)え涙ながらに死刑の極刑を執拗に訴えたりするのは明らかにおかしい。特に陪審員や裁判員制度(民間から無作為で選ばれた陪審員や裁判員が合議体の評議により司法判断を出す制度)がある場合、大量にマスコミ露出した被害者遺族の復讐世論形成に扇動(せんどう)される形で、裁判での司法判断が暗に左右されてしまう可能性があるからだ。近年でいえば東池袋自動車暴走死傷事故(2019年)にて、母子を亡くした被害者遺族が連日メデイアに頻繁に登場し、母子の遺影を携え生前の母子の動画を公開して被告への厳罰を執拗に訴えるその姿に、かつての光市母子殺人事件にての法廷外でのマスコミを利用した被害者遺族による復讐世論扇動の危うさと同様のものを私は感じ、憂慮せずにはいられなかった。

先に述べた、「犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で仇討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多々ある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神資質や生い立ち環境らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛に下されなければならない」旨で、特に被告が犯行当時20歳未満の未成年者であった場合、その裁判判決に際しては格別の配慮を要する。被告がまだ10代の未成年者であれば、当人の精神疾患の履歴や責任能力の有無、社会経験が少なく人格的に未熟である事情、直近の家庭での生育環境などが特に考慮され、総合的に司法判断されなければいけない。

少年法とは未成年の者に関する刑事訴訟法の特則を規定した法律である。少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、未成年であることを踏まえて保護更生のための処置を下すことを規定している。その際には不定期刑や量刑緩和などの一定の配慮が求められている。未成年者は年令若くまだ発育途上で人格的に未熟であり、成人同様に罰するのは不合理だからである。しかし、近年では犯罪の低年齢化と凶悪化という傾向を受けて、刑事処分の可能年齢の引き下げという厳罰化の方向での少年法改正や、遂には少年法そのものの廃止(「未成年だからといって少年法により刑罰に手心を加え制裁を軽くすると該当の青少年が増長する」)という相当に雑な議論まで時に出ている。

「少年法があるため、これくらいの犯罪を犯しても死刑の極刑にはならない。不定期刑ですぐに社会復帰できる」と見越して、犯罪に手を染める不遜(ふそん)な未成年者も一部いる。これは成人への刑事裁判判決で過去判例に基づく「永山基準」(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を知って、「最悪、逮捕されても死刑判決は出ない」と前もって踏んで犯行に及ぶ成人の事例と同じだ。だが、日本の裁判制度は昔から判例主義の前例主義であって、過去の判例との整合性も考慮されなければならないので、そういった輩(やから)に過剰反応し、「刑罰が軽いと犯罪者にナメられて増長される」云々で少年法を始めとして果てしなくあらゆる法の厳罰化を進めていくというのは、「相手にナメられたら終わり」のチンピラ思考に他ならないのであるから今日、少年法を含め刑事処分の厳罰化に安易に乗り出すことに私は反対である。

刑法の厳罰化が、そのまま犯罪抑止につながるかの議論は昔からされているが、法の厳罰化が犯罪抑止には必ずしもつながらない(刑法を厳罰化しても犯罪事件の発生数は減っていない)の実際統計に基づく見解指摘は、法律の専門家にて事実多くある。

岩波新書の書評(434)今野真二「『広辞苑』をよむ」

「広辞苑(こうじえん)」は、日本語国語辞典である。もともとは戦前昭和より言語学者の新村出(しんむら・いずる)が国語辞典の執筆をやっていて、当初は博文館という出版社から「辞苑(じえん)」という書名の辞書を出していたが、戦後に今後の日本語文化を担う重要な一大出版事業と国語辞典編纂(へんさん)が目され、敗戦当時、比較的大手出版社であった岩波書店に従前の新村出の辞書作成の改訂作業が引き継がれた。その際、より幅広く多くの日本語を収録した新編集版の意味を込め、かつての「辞苑」に「広」の文字を頭に加えて「広辞苑」となったのであった。

「広辞苑」の初版は1955年、収録内容の改訂を後に重ね、現時点(2021年)での最新版は2018年発行の第七版となる。「広辞苑」は、基本の日用使いから高等な学術にも耐えうる硬派で真面目な日本語国語辞典であるが、時に時代の流行語や新造語や乱れた日本語の若者言葉も改訂の度に新たに収録したりするので、そうした時代の流行語や若者言葉が辞書に載り人々に驚かれてニュースとなったり、新語として「広辞苑」に掲載されると、その言葉の関係者や業界団体が喜んだりする社会現象も巻き起こした。

岩波新書の赤、今野真二「『広辞苑』をよむ」(2019年)は、そういった「広辞苑」の国語辞典をタイトル通り「よむ」という内容の新書である。著者は国語辞典の「広辞苑」は「バランスのとれた小宇宙」であるという。本書では、「広辞苑」の凡例(書物のはじめに掲げる、その書物の編集方針や利用のしかたなどに関する箇条書。例言)をじっくり読む、語源に遡(さかのぼ)って読む、同じ「広辞苑」でも旧版と新版における語釈の相違を読む、中型辞書である小学館「大辞泉」(1995年初版)と三省堂「大辞林」(1988年初版)と岩波書店「広辞苑」との読み比べ、さらには大型辞書の小学館「日本国語大辞典」全二十巻(1972年初版)と「広辞苑」の対照などが行われている。

通常、国語辞典は、ある文章を読んでいて自分が分からない言葉に出くわした際に辞書を開いて意味を調べる「困った時に辞書を引く」用途がほとんどだ。少なくとも私はそうである。書籍を読んでいて分からない言葉が出てきたら国語辞典を開いて意味を調べる。ところが本書は、最初から「広辞苑」の国語辞典を読んで、そこで様々な日本語の意味や用法に触れ、新たな発見をして日本語と共に「広辞苑」という国語辞典そのものを積極的に楽しむという趣向が新しく、そういった「国語辞典活用の新たな楽しみ方のすすめ」とでもいうべき所が本新書の目玉であり、ウリである。

「広辞苑」の活用や楽しみ方に関しては、例えばクロスワードパズルの問題作成者が本辞書を参考にしてクイズ作成したり、逆にクロスワードパズルを解く人が「広辞苑」を利用し解答を探したり、また「広辞苑」に掲載の、ある言葉の語釈本文をヒントで出して、何の語か見出し言葉を当てる「広辞苑クイズ」なる遊びも昨今ではあるらしい。

岩波新書の赤、今野真二「『広辞苑』をよむ」を一読して、私は「なるほど、こういう国語辞典の読み方、楽しみ方もあるな」の無難な軽い感想である。それよりも本新書に関しては、すでに同じ趣向の書籍が他社新書から以前に出されている。文藝春秋の文春新書、柳瀬尚紀「広辞苑を読む」(1999年)である。こちらの方が後出の岩波新書の今野真二「『広辞苑』をよむ」よりも数十年早く、しかも書籍タイトルが全く同じである(ただ題名表記が微妙に異なるのみだ)。「広辞苑」は岩波書店から出されているのに、自社出版の「広辞苑」に関する読み物企画の新書を他社新書に先に出されての後追いとは、「岩波新書編集部も下手(へた)を打ったな」の思いが本新書に対し正直、私はした。

「使いながら必要以上にいろいろなことを考える。しょっちゅう脱線。それが辞書を『よむ』ということだ。ことばを愛してやまない日本語学者が、真剣に、マニアックに、ときに遊び心たっぷりに、『広辞苑』をすみずみまでよむ!こんな辞書なのか。こんな使い方があるのか。え、辞書で遊ぶ? ようこそ、ことばの小宇宙へ」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(433)兼子仁「国民の教育権」

岩波新書の青、兼子仁「国民の教育権」(1971年)は、日本国憲法や教育基本法ら法的理念から、現実の教育をめぐる理念浸透具合の不足ならびに明らかに間違った方向への反動誘導の弊害を実際の学校現場の問題や教育「改革」の政治の誤りとして指摘していく、いわゆる「教育時事」の新書だ。

本書で主に問題にされているのは、教員の勤務評定、全国学力テストの実施、学校行事における「君が代」斉唱「日の丸」掲揚の義務(強制)化、国による教科書検定制度、私立学校における教育の自由と公的補助のあり方、在日外国人学校に対する教育の自由の保障、大学における教育自治、教育委員会の公選から任命制への移行問題、教育基本法改正の問題などである。1971年初版の本新書は1970年代の教育時事をほぼ網羅しており、私はまだ生まれておらず当時のことをリアルタイムで知らないが、後に読んでこの時代の教育をめぐる社会世相の雰囲気を如実に感じることができる。

岩波新書「国民の教育権」の読み味は、同じ岩波新書でいえば、後の「教育とは何かを問い続けて」のそれに似ている。岩波新書の大田堯(おおた・たかし)「教育とは何かを問い続けて」(1983年)は1983年初版であり、本書は80年代の教育時事をこれまたほぼ網羅していて、本書を読んで1980年代の日本の教育をめぐる社会的世相の雰囲気を感得できる。1980年代の大田「教育とは何かを問い続けて」では、1970年代の兼子「国民の教育権」にはない教育行政以外での児童・青年側からの問題、例えば学校内でのいじめや青少年の不良化(シンナー、万引、暴走族など)や校内暴力らが1980年代には深刻に教育現場の学校に露出していることも示しており、そこが同じ教育時事を扱った新書であっても前の時代の兼子の著書とは異なる注目の点だ。

日本国憲法や教育基本法ら法的理念から見た、現実の教育をめぐる理念浸透具合の不足や明らかに間違った方向への反動誘導の弊害を、実際の学校現場の問題や教育「改革」の誤りとして指摘していく「教育時事」は、それら問題がただ漠然とどこからともなく自然に生じてくるのではない。そうした不足の教育行政や明らかに誤った反動的な教育「改革」は、時の内閣や政権与党から強制的になされるのが常であるから、教育時事を論ずる場合、特に戦後日本の教育問題を述べるに際しては、当時の歴代の自民党保守内閣と政権与党であった自民党の教育政策に対する批判や苦言や修正要求の提言となる。事実、岩波新書「国民の教育権」も、以前の自民党保守政権たる岸信介内閣における「教員の勤務評定」への痛烈批判から筆を起こし冒頭に書いている。「教員の勤務評定」(1958年)は、岸内閣にて「警察官職務執行法」(1958年)と共に出された二大国民統制法案であり、「教員の勤務評定」は学校現場での教職員の組合運動活動の抑え込みを「教員に対する勤務評定」の無言の圧力にてはかる、時の政府が日教組(日本教職員組)を標的にした、あからさまな組合潰(つぶ)しの政策であった。そうして岸内閣での「教員の勤務評定」は教育現場での激しい反対闘争にあい、「警察官職務執行法」と共に当時、廃案となったのであった。

1971年初版の岩波新書「国民の教育権」を今日改めて読み返してみると、本書にて問題とされ批判・反対されていた歴代の自民党内閣が推し進める教育政策が、たとえ廃案となっても、後に継続して国会に法案提出され、ちょうど世論が当法案に無理解であったり国民全体の無関心が広がった隙(すき)を突いて、大きな世論形成や国民的議論の背景なく、どさくさにまぎれ誠に絶妙な時宜(タイミング)で教育をめぐる明らかに誤った反動復古的な数々の教育政策が特に2000年代以降の自民党政権下にて連続して成立していることに私は驚く。本新書を1970年代に執筆した著書も、2000年代以降の教育行政をめぐるこの深刻な反動復古の事態は予測できなかったに違いない。そのことを思うと1970年代に出された岩波新書「国民の教育権」を2000年代以降に読んで、私は考えさせられて非常に暗くて重い悲観的な憂鬱(ゆううつ)な気分になるのであった。

以下では、本新書にて様々に取り上げられている数々の教育問題の中で教育基本法改正の教育時事について、本書には書かれざる2000年代以降のこの問題帰結にまで触れ、私なりに述べてみたい。教育基本法改正の問題は、本書では「Ⅴ・教師の教育権の独立」の中の「1・教育基本法一0条が禁ずる教育への 『不当な支配』」にて論述されている。

教育基本法は戦後の1947年3月に制定され、その法制定の趣旨は1946年11月に公布されて翌47年5月に施行された日本国憲法に合致し、教育基本法は日本国憲法に従いその法的根拠の下にあるものである。教育基本法の前文には「ここに、日本国憲法の精神に則(のっと)り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とあり、その制定の趣旨は日本国憲法と一致し、確かに教育基本法は日本国憲法の法的根拠の下にあった。それは当たり前で、近代国家における立憲主義では憲法が最高法規であるから、あらゆる各種法律は憲法の法的趣旨に従い、その法的根拠の下にあるのであって、各種の法は法制定の趣旨や法解釈や法の運用において憲法と矛盾や乖離(かいり)があってはならない。

1947年3月制定の教育基本法・第10条の「教育行政」の条文は以下である。

教育行政(第10条)「教育は、不当な支配に服することなく国民全体に直接責任をもって行われることを規定し、教育行政の目標は、教育に必要な諸条件の整備確立とされている」

この教育基本法の第10条の法規的読み方はこうだ。教育法学界の通説によれば、当第10条にて「教育への不当な支配」が禁じられるのは教育活動の自主性を保障するためである。したがって政治勢力が教育を支配することは全てよろしくないが、なかでも国による教育行政が法的拘束力をもって教育活動を統制することは明らかに「教育への不当な支配」に当たる、とする。何だか遠回しな回りくどい言い方だが、より分かりやすく平たく言えば、教育基本法(1947年3月制定)は直近の日本国憲法(1946年11月公布、1947年5月施行)における個人の基本的人権の尊重原則を踏まえ、それに準ずるものであり、教育基本法制定の直後に戦前よりあった「教育勅語の失効」(1948年6月)の議決が国会でなされていることから、本法第10条にての「教育への不当な支配」というのは、戦前日本での教育勅語の発布(1890年)に見られるような、国家による個人への国家主義的ないしは軍国主義教育の強制の政治的圧力を意味すると解釈するのだ妥当だ。

事実、戦後の教育基本法制定時、教育行政の長であった文部大臣の田中耕太郎は次のように述べて、本法第10条に関し、戦前の国による「軍国主義及び極端な国家主義的教育の跳梁(ちょうりょう)」に対する批判と反省とを踏まえ、条文中にある「教育への不当な支配」とは、時の政府の国家による行政的権力支配の行使と地方行政による官僚的支配の不当な政治的干渉であると明確に断定していた。また国会答弁で後の歴代文部大臣も複数人が、これと同様な法的解釈を政府の公的立場として明言している。

「従来の我が国における教育は或いは政治的に或いは行政的に不当な干渉の下に呻吟(しんぎん)し、教育者はその結果卑屈になり、教育全体が萎縮し歪曲せられ、その結果軍国主義及び極端な国家主義的の跳梁(ちょうりょう)を招来するに至ったのである。…教育は政治的干渉より守られなければならぬとともに、官僚的支配に対しても保護せられなければならない。…教育者の使命たるや本来宗教家、学者、芸術家等のそれと性質を同じうして居り、従って官公吏たる教員と雖(いえど)も、上級下級の行政官庁の命令系統の中に編入せらるべきものではない。かような趣旨からして、教育基本法第十条は、教育行政の根本方針を規定している。教育は不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきではない」(田中耕太郎「新憲法と文化」1948年)

ところが、本法第10条の「教育への不当な支配」をめぐる法解釈は、後に文部省により「国や地方公共団体による行政的権力支配ではなくて、政党・組合などによる独善的な支配」とその解釈内容が全く別のものに言い換えられてしまう。例えば以下のように。

「国民に主権を与え、国民全体に責任を負う民主主義の政治体制をとる限り、国会に置いて立法上認められた範囲内における行政上の支配は第十条が不当な支配であると否定しているものではないであろう。むしろ、教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような、政党・組合などによる独善的な支配であると考えられる」(文部省地方課法令研究会「新学校管理読本」)

教育基本法第10条での「教育への不当な支配」というのは、戦前日本の教育勅語体制に見られるような、時の政府の国家による個人への国家主義的ないしは軍国主義教育の強制の政治的圧力を意味し、そうした国家による行政的権力支配の行使と地方行政による官僚的支配の不当な政治的干渉を「教育への不当な支配」の禁止として、多分に警戒し弊害視するものであった。だが、後の文部省当局の行政解釈によると、「むしろ、教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような、政党・組合などによる独善的な支配であると考えられる」と全く別の意味に言い換えられてしまっている。

ここでは「教育への不当な支配」をなす主体は、国家とその中央の国から命令を受けた各地方官庁ではなくて、ゆえにかつての文部大臣が公式に国会答弁にて示した戦前の国家主義や軍国主義への反省に基づく、国家と官僚が主体の「教育への不当な支配」からの教育行政の保護ではなく、国家と地方行政以外の政党と組合なのである。国と地方官庁は「教育への不当な支配」をなす者から明白に外され、その主体と全く見なされていない。文部省当局による「教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような政党・組合などによる独善的な支配」とされる場合の「政党と組合」は、文部省の法解釈では国と地方官庁は「教育への不当な支配」をなす者からすでに明確に外されているのであるから、より厳密に言って国(内閣と政権与党)以外の、野党と教育現場の教職員組合(日教組ら)になってしまう。

こういった教育基本法第10条「教育行政」の「教育への不当な支配」の主体は誰かをめぐる法解釈での意味ズラしの言い換えは、内閣政府や地方官庁による立法の政治的権限や行政の上からの命令に対し、異議を唱えたり反対したりする、国民世論に支えられた野党政党の民意や学校現場での教職員組合の運動の方を「教育への不当な支配」と見なして排除し、他方「教育への不当な支配」をなす者からあらかじめ周到に外されている国と地方官庁は、まさに戦前のようにそのまま教育行政への政治的干渉や介入指導の命令を強権的に発動し遂行できてしまう。戦前の国家主義や軍国主義への反省に基づいた、国家と官僚が主体の「教育への不当な支配」からの教育行政の保護という本来の戦後の教育基本法の理念の全くの逆を行く、むしろそのまま国家が教育行政に万能自由に独善的に政治的干渉にて振るまうことができる戦前回帰の、戦後の教育基本法における制定当初の教育行政理念を完全に捻(ね)じ曲げた法解釈と法律運用の理解である。

そうして教育基本法第10条の「教育への不当な支配」の法的解釈をめぐる相違の問題は続き、2006年自民党と公明党の保守連立政権である安倍晋三内閣下にて、教育基本法は遂に改正される。改正後の新たな教育基本法の「教育行政」の条文は以下である。

教育行政(第16条)「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」

改正後の教育基本法「教育行政」の条文を読めば、「教育は、不当な支配に服することなく」となっているが、続いて「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」とあることから、「適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行」う行政推進の主体と定められている国と地方公共団体は、「教育への不当な支配」をなす者から最初から周到に外されている。むしろ「教育への不当な支配」をなす者として暗に想定されているのは、本条文には必ずしも直接に明記されていないが、「国と地方公共団体とによる適切な役割分担」から外部に押しやられて疎外された、国である内閣と政権与党以外の野党政党と教育現場の教職員組合である。改正後の教育基本法の「教育行政」条文は、前述のかつての文部省地方課法令研究会「新学校管理読本」における「教育行政」にての「教育への不当な支配」に関する法解釈を踏襲している。

そして、この教育基本法改正が巧妙で相当に悪質だと思えるのは、旧教育基本法の第10条での「教育への不当な支配」についての法的解釈をめぐる前史を知らない国民には、「教育への不当な支配」とは誰であるのか必ずしも明記していないため分からず、「教育への不当な支配」を暗に野党政党と現場の教職員組合と想定し彼らを排除して、かつ国家が教育行政を独占し独善的に進めることを是とする、その法改正の真意が教育時事への問題意識や知識がない人々に対し見事に隠されていることだ。加えて、改正後の教育基本法には「国を愛する心」や「伝統の尊重」の条項があり、本法を通してかつての戦前の教育勅語のような国家による国家主義的教育の上からの注入の行政的権力支配の行使と地方官庁による官僚的支配の政治的干渉たる「教育への不当な支配」が、そのまま本法制にて自足して能天気に実現されてしまっているという皮肉なのであった。

岩波新書の青、兼子仁「国民の教育権」にて取り上げられている本書執筆時の1970年代の様々な教育時事の問題は、その後の展開も含めて追跡して見守り真摯(しんし)に考えられるべき教育問題である。そのことは、ここで取り上げた教育基本法第10条における「教育への不当な支配」をめぐる法的解釈と後の教育基本法改正の一連の過程を注視しただけでも、その問題の大きさが理解できる。本新書を足がかりとして本書には書かれざる後にまで至る教育時事の各トピックを追跡し、日本の教育問題について今日、各自が深く考えていくことが切に求められている。

岩波新書の書評(432)田中美知太郎「ソクラテス」

前から私は、岩波新書の田中美知太郎「ソクラテス」(1957年)、同岩波新書の斎藤忍随「プラトン」(1972年)、同岩波新書の山本光雄「アリストテレス」(1977年)の三冊を自室の書棚に並べ折に触れて眺めたり、各新書を日々読み返しては悦(えつ)に入り満足していたことがあった。

言うまでもなく、これら岩波新書の各書タイトルとなっているのは古代ギリシアの哲学者たちである。ソクラテスはプラトンの師でプラトンはソクラテスの弟子であり、ソクラテスの弟子であったプラトンはアリストテレスの師でアリストテレスはプラトンの弟子であり、またアリストテレスはソクラテスの孫弟子にあたるのだった。「ソクラテス─プラトン─アリストテレス」の三人の古代ギリシアの哲学者らの連続した並びが、昔から私には相当に魅力的で眩(まぶ)しく輝いて見えるのだ。

今回は岩波新書の青、田中美知太郎「ソクラテス」について書いてみる。ソクラテスは自身の著作を残さなかった。だから後にソクラテスについて知れるのは、弟子のプラトンの対話篇か、あるいはクセノフォンの「回想録」の史料しかない。岩波新書「ソクラテス」は、そのように実証史料が極めて少ない制約ある中で、序章で「何をどこまで知ることができるか」にてソクラテス記述の現代における困難さの不利を著者の田中美知太郎は冷静に認めた上で、しかしソクラテスの生まれ育ちの「生活事実」の章から始めて最終章の「死まで」、出来る限り厳密に実証的にソクラテスの生涯と哲学思想を硬質な文体で果敢に書き抜いている。

そもそものソクラテスその人の概要は以下だ。

「ソクラテス(前469頃─399年)は古代ギリシアの哲学者。ペロポネソス戦争とその後のアテネの衰退期にあって、ソフィスト(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師)を批判し普遍的・客観的真理の存在、知徳合一を主張した。問答法という、対話を通じて『無知の知』(自らが無知であることを知ること)を自覚させる方法を実践し、アテネの人々に普遍的真理があることを説いた。その後、民事裁判で死刑の判決を受けて、『悪法も法なり』と述べ刑死した。彼は著作を残さなかった」

ソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのであった。このことから単に主観的に自分が「正しい」と言葉で言い募(つの)って、言葉で相手を言い負かして論破する当節、人気を集める世俗的なソフィストら(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師たち)に対するソクラテスの痛烈な批判があった。またソクラテスは、自身が発した言葉が混沌となり、他人から都合の良いように恣意的に理解され引用されることを最も恐れた。ゆえに彼は相手を前にした直接対話以外での、書き言葉の伝達たる文字による著作を残さなかった。

ソクラテスは、言葉が混乱して人々が迷うポリスの現状を憂慮し、常に正確な定義・概念を見出し、正しい言葉による新たなポリスの基礎を得ようとした。「徳」という「よく生きること」が、かのソフィストにとって人々から富や名声を得る世渡りの技能を意味したのに対し、ソクラテスは「富を求めるな。名誉を求めるな。ただ魂をできるだけ優れたものにすることに意を用いよ」として魂への配慮を訴えた。ソクラテスの哲学が主知主義と呼ばれるのは、何が正しいかの認識が正しい行為の保障となるという意味で人間の知性の優位を求めるからである。そして、その人間に知性は、もはや言うまでもなくソクラテスにおいては言葉の正しさに基づくものであった。

ソクラテスという人は現代風の俗な言い方をすれば、「相当に嫌味で皮肉屋の人」であって、非常に交際しづらい、人々から「悪意ある者」と見なされる、かなり誤解を受けやすい人であった。

彼は、対価をとって知識を授ける当時人気であったソフィストらに対し、問答法という対話(ダイアローグ)を仕掛けていく。「私は物事をよく知っている」と自負しているソフィストを前に、まずソクラテスは「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」として、ソフィストに謙虚に教えを乞(こ)う形で相手に次々に問いを発する。それらソクラテスの問いに繰り返し相手が答えているうちに答えに詰まったり前の答えと矛盾する答弁をしたことを指摘して、「私は物事を知っていると思っていたが、実は何も知っていなかった」ことを相手に自覚させる。これは普通に考えれば明らかにソクラテスからの皮肉(イロニー)である。なぜなら、ソクラテスは最初に自らの無知を告白し、自分の無知の劣勢を示して謙虚にソフィストに教えを乞う形で相手と問答を始めているのに、「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」の教えを乞うソクラテスの方が、「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストよりも優れてしまう逆の結果に、いつの間にか問答の過程で毎回なってしまうからだ。

「自分は無知である」と自認するソクラテスから謙虚に問答を挑まれた、かつて「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストは自身の面目をつぶされ、「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」ということに普通はなる。しかし、ソクラテスは最初に「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」とあえて謙虚に劣勢の格下に出て、最後に「私は物事をよく知っている」ソフィストよりも「無知である」私(ソクラテス)の方が、実は智者であり優れていることを勝ち誇って相手に知らしめたいわけでは決してない。全くそのような相手を論破したり無駄にヘコませたりする気はなく、当のソクラテスからすれば、これは言葉を正しく使った問答法によって導き出された極めて正当な帰結なのであって、冗談や悪ふざけでなく彼はどこまでも大真面目(おおまじめ)の大本気(だいほんき)なのである(笑)。

またソクラテスはデルフォイの神殿で下された、「ソクラテス以上の賢者ありや」の問いに対する「ソクラテス以上の賢者なし」の神託を受けて、それは「自分は皆と同じく全くの無知に他ならないが、ただ自分は自己の無知を知っているから他の人よりも智者であり賢者であるのだ」という自分の神託解釈を、自身の身を以て愚直なまでの彼自身の主観的な「使命感」から単に他のソフィストに教え広く伝えたかっただけなのである。

おそらくソクラテス本人には相手に嫌味や皮肉をいう悪意の本意など微塵(みじん)もなく、皆無である。後世からのソクラテス評価にて哲学者として彼は確かに優れた古代ギリシアの哲学者であったかもしれないが、私から見れば、この人は絶望的なまでに他者に対する世俗的な配慮や礼儀ら、そうしたことの対人の機微(きび)に全く気付かない、多少の与太が入った与太郎的な実生活者のポリス市民として破綻した単に駄目な人であっただけだ。ただ自身の言葉の厳格さの哲学を実践し哲学的真理を日々追求しているソクラテス当人は、いつでも大真面目の大本気なのであるが(爆笑)。

現代の私達の社会でも、「私は無知」と言い張るソクラテスから、あのような問答を仕掛けられて、いつの間にか自称「私は無知」なソクラテスから逆に自分の方の無知を心底思い知らされ、しかも神殿にて「ソクラテスは自分が無知であることを知っているので誰よりも智者であり賢者」という神による智者の保障神託の賞賛を頂いて、本当は「私は無知であるが、結局の所、周りに回って最終的に自分は智者であり賢者」と内心思っているソクラテスに対しては、どんなに知識や教養がある人格者であっても、誰でも「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」の不穏な空気に普通なるわな(笑)。

ソクラテスという人は、他者に気を使い相手のメンツやプライドに配慮して時にその場限りの思いやりのある嘘を述べたり、巧妙に黙り込んだり、あえて真実を語らずにそれとなく誤魔化したり、言葉の裏の意味や二重の意味を用いてその場の人間関係を修辞(レトリック)により良好に保ち上手に切り抜けるような処世の機転の効く人では全くなかった。何となればソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのである。

だから、ソクラテスは言葉の正しさや厳密さに異常なこだわりを愚直なまでに見せて、処世における時に相手に対する思いやりの言葉の配慮や、最低限の対人の礼儀を無視し続けた結果、ソクラテス本人の言葉による主知主義の哲学の意図の主観的「誠実さ」とは裏腹に、確かに一部の青年らを引きつけソクラテスは若者人気であったが、他方でソクラテスから結果的に無知を指摘され、恥をかかされたソフィストら同時代の周りの多くの人々から不興の反感を余計に激しく買い終始、彼は果てしなく誤解され続けた。紀元前399年にソクラテスは、「国の認める神々を認めず、別の新奇なダイモンの祀りを導入」し、「青年たちに害悪を与え」たという罪でアテネの法廷に告発され死刑を宣告される。そうして、ソクラテスは「悪法もまた法である」と言って法の決まりの言葉の厳格さを、これまた最期まで愚直なまでに丁寧に重んじて自ら毒杯を仰いで死んだのである。

ソクラテスの生涯と哲学にあるのは確かに、ある種の喜劇的な悲劇であった。

岩波新書の書評(431)藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」

岩波新書の青、藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」(1968年)は、そのタイトルからして「おかげまいり」と「ええじゃないか」が等価の同量で等しく論じられているように思えるけれど、実はそうでない。本書では主に「おかげまいり」について述べられており、「ええじゃないか」に関しては、ほんのわずかしか触れられていない。

本新書は七つの章からなっているが、「ええじゃないか」に詳しく触れた章はわずか一章のみである。残りの六章は全て「おかげまいり」の紹介と考察の章になっている。それには本書記述での著者によれば、本書を執筆時には「ええじゃないか」に関する各人よりの言及や見解の解釈が様々にあって研究蓄積も多くあったが、他方「おかげまいり」については研究が少なくその実態の解明や歴史的考察が比較的なされていない事情があったため、本新書では「おかげまいり」についての叙述にあえて傾注したという。そうしたことが本書の「まえがき」に記されている。

ここで、本新書のタイトルになっている「おかげまいり」と「ええじゃないか」の概要を確認しておこう。

「おかげまいり(御蔭参り・御影参り)─江戸時代に流行した伊勢神宮への集団参拝。多くは親や主人の許可を得ず、旅行手形も用意せずに家を出た抜参り(ぬけまいり)であった。大規模なものは1771年の200万人の参加。60年ごとに『おかげ年』が回ってくるという60年周期説が信じられ、1830年には500万人が熱狂的に参加した。その様子は、歌川広重の『伊勢参宮宮川渡しの図』などに描かれている」

「ええじゃないか─1867年秋から冬にかけ、東海道・近畿・四国地方に広がった民衆の狂乱。『ええじゃないか』と連呼・乱舞し、京坂一帯が無政府状態となり、その間に倒幕運動が進展した。その様子は、歌川国芳の門人・一恵斎芳幾(いつけいさい・よしいく)『豊饒御蔭参之図』などに描かれている」

本書の構成を改めて述べておくと、最初の三つの章は「おかげまいり」の起源と概要、近世の「おかげまいり」の実態が史料を介して詳しく紹介されている。それから次の一つの章で「ええじゃないか」についての同時代の先行研究や「ええじゃないか」に対する歴史的意義の各人評価を次々に紹介している。その上で最後の三つの章にて、前章での「ええじゃないか」に関する先行研究や評価を参考にしながら、「おかげまいり」に対しての著者の歴史的意義の考察をまとめる、の順序になっている。

これらの中で本新書の読み所は、第四章に当たる「四・慶応の『ええじゃないか』」で同時代の各人の「ええじゃないか」への歴史的評価を踏まえた上で、続く後の最後の三つの章「五・解放運動としての『おかげまいり』」「六・民族形成運動としての『おかげまいり』」「七・宗教と民衆運動」にて即(すぐ)にその手法を真似て、「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価を下す著者の論述の手際(てぎわ)にあると思える。

近世初期の「おかげまいり」は、当初は人々の娯楽として流行した伊勢神宮への集団参拝であったが、封建的拘束に反発する抜参り(ぬけまいり・「親や主人の許可を得ず、旅行手形も用意せずに参拝参加する違法行為のこと」)の常態化に加え、幕末には「おどり」の騒ぎも伴い、「おかげまいり」は「ええじゃないか」や百姓一揆と同様な大規模な民衆運動と目されるようになっていた。

「四・慶応の『ええじゃないか』」では、ノーマン、土屋喬雄、羽仁五郎、遠山茂樹、山口吉一ら先行研究にての各氏の「ええじゃないか」に関する見解や歴史的評価の各説を挙げている。それら各人による「ええじゃないか」への見解は様々であるが、「ええじゃないか」と類似する同時代の近世江戸の百姓一揆の民衆運動に対するそれも勘案すると、このことは本新書には書かれていないが、それら歴史的評価は次のようにまとめることができるように思う。

まず「作為的か自然発生的か」の評価軸があり、さらに「統制の取れた組織的政治運動か、無秩序なマス・ヒステリー的騒乱か」のもう一つの評価軸もあって、その2つの評価軸の4つの極限の組み合わせの四象限により、各人における「おかげまいり」や百姓一揆についての歴史的評価が決まると考えられる。すなわち、

☆作為的かつ統制の取れた組織的政治運動─幕藩体制の崩壊を目する尊王派や明治新政府側から画策された、極めて組織的な一種の倒幕運動説。☆作為的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─幕藩体制の崩壊を目する尊王派や明治新政府側から画策された一種の倒幕運動であったが組織的統制が取れず挫折した、ただの一過性の民衆のお祭り騒ぎの狂乱説。☆自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動─民衆の間から自生した下からの運動で、それが自発的に高度に組織化された反封建闘争の民衆運動説。☆自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─民衆の間にある反封建社会的な意識の自生的現れではあるが、それがただの一過性の民衆のお祭り騒ぎでしかなかった狂乱説。

従来、「ええじゃないか」や百姓一揆を民衆闘争史の文脈にて理解し、それらに近世江戸の民衆の下からの抵抗の政治的エネルギーを見出したい理念的思考な民衆思想史家は、これら四象限の評価の中で、3番目の「自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動─民衆の間から自生した下からの運動で、それが自発的に高度に組織化された反封建闘争の民衆運動説」の理想的な歴史意義的解釈を百姓一揆らの歴史現象の解釈・評価に積極的に取りたがる傾向にある。その反面、4番目のような「自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─民衆の間にある反封建社会的な意識の自生的現れではあるが、それがただの一過性の民衆のお祭り騒ぎでしかなかった狂乱説」は、近世江戸の民衆の下からの政治的抵抗のエネルギーを皆無と見なすか、不当に軽く見積もるものとして、この見解を取らず、むしろ積極的に否定し排除したがる。

そうして、これら「「四・慶応の『ええじゃないか』」にての同時代の各研究者の見解総括を参考にして、著者の藤谷俊雄は「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価として、最終章に当たる「七・宗教と民衆運動」にて、およそ以下のような結論をまとめている。

「わたくしは前にもいった通り、『おかげまいり』と百姓一揆とを比較して、『おかげまいり』の歴史的意義をいちがいに低く評価することには賛成できない。百姓一揆はたしかにもっとも鋭い階級闘争の形態であるが、地方的な小規模の自然発生的な百姓一揆が、それだけでは封建支配にたいして、ただちに大きな革命的影響をもちえなかったことは明らかである。百姓一揆に爆発した農民の革命的なエネルギーが、政治的に結集され組織されなければ、真に革命的な人民運動とはなりえなかったという点では、『おかげまいり』のばあいも同様であったといいうるとおもう。…江戸時代の『おかげまいり』は、…神の信仰にもとづいた民衆の自主的な秩序がおこなわれており、けっしてマス・ヒステリーという言葉が印象づけるような無秩序な状態であったわけではない。…しかしながらそれは、後期になるほど乱れていったようである。とくに性的倒錯という点ではひどくなっていった。…そのことが、あの封建支配の空前の危機に当って、うっせきしたエネルギーを内部に包蔵しながら、日本の民衆が、幕藩支配から天皇制支配への移行を、まったく政治の局外で見送ってしまう結果となったのである」(「民衆闘争の分岐点」)

著者によるこの「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価は、幕末の民衆の革命的なエネルギーに突き動かされた階級闘争の一応の成果を「おかげまいり」に見るのであるが、同時に他方で政治的に結集されず組織化されず、真に革命的な人民運動とはなりえなかった限界を有していた事も明らかであって、さらに後期には以前の民衆の自主的な秩序が崩壊し、「おかげまいり」の集団内にて性的倒錯の横行など、マス・ヒステリーな無秩序な集団的堕落状態におちいっていった。結果「おかげまいり」は、うっせきした当時の人々のエネルギーを内部に包蔵しながらも、それを下からの民衆闘争の政治的運動として自らを昇華し得なかったとする結論である。

これは「ええじゃないか」や百姓一揆に対する、前述の4つの極限の組み合わせの四象限による歴史的評価の型で見れば、3番目の「自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動」の民衆の運動エネルギーを高く見積もる肯定的評価と、4番目の「自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱」の民衆の自主的な秩序形成の欠如を厳しく弾ずる否定的評価の混合(ミックス)の結論であるといえる。

その他「おかげまいり」は、元々は日本の伝統的な神道信仰に基づいた伊勢神宮への参詣の宗教行為であるから、「おかげまいり」は宗教的観点から一貫して考察される必要がある。この点で岩波新書の藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」では、近世江戸の百姓一揆の研究を通して「世界史的に見れば近代社会成立期における民衆闘争は、一般に宗教的形態をとった。そしてそのことが、民衆闘争を『世直し』の論理として政治権力に向かわせた」ことを以前に指摘した安丸良夫の一連の民衆思想史研究に触れた記述もある(160─162ページ)。この箇所も、確かに本書の読み所である。

岩波新書の書評(430)中村邦生「はじめての文学講義」

岩波ジュニア新書の中村邦生「はじめての文学講義」(2015年)は、渋谷教育学園渋谷中学高等学校にて(私は本新書を読むまで知らなかったが、本校は中学受験の世界では「渋渋」と略称され、都内の中高一貫校の中では有数の入学難関校であるという)、作家であり大東文化大学文学部教授である中村邦生が、中高生の前で実際に行った「文学講義」の講演を録音し、そのまま文字起こしし加筆修訂して書籍に収めたものである。

ゆえに本書の冒頭では、生徒代表による「開演の挨拶」のとても丁寧な演者紹介から始まって、本講演があり、参加生徒との質疑応答もあって、最後はまた生徒代表による「中村先生、ありがとうございました」の「終わりの挨拶」まで当日のプログラムを律儀(りちぎ)にそのまま活字収録している。

ところで文学といえば、私は昔から、例えば文学者の大江健三郎が好きで氏の小説を今でも日々、愛読しているが、昔の大江健三郎のエッセイを読むと「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か?」といった文学に突きつけられた難題に大江は多くの字数を費やし結構、真面目に答えていた。それに類する「文学は実生活で役に立つか?」の問いが本書「はじめての文学講義」の中にもある。著者の中村邦生は中高生の前で、これまた結構、真面目に文学に対するこの手の疑問に反駁(はんばく)し答えている。すなわち、

「結論から先に言ってしまえば、文学というものは、そのような問題の前提そのものを疑うのです。つまり〈役に立つ/役に立たない〉という二つの区分が絶対的に存在しているような発想って本当なのだろうか?『そもそも、そのような分け方っておかしくない?』と問題設定の有効性を疑います。問題の前提そのものを付き崩すわけです。役に立つとか立たないとか、そうした乱雑な分け方をする発想がいかに浅薄(せんぱく)なものであるか…世の中に流通している価値観への疑念と言ってよいかもしれません。…ですから文学とは日常の当たり前に思える発想を揺さぶる不穏なものでもあります。楽しいものであるけれど、場合によっては日常を裂く破壊的要素を隠し持っていることがあります。そうしたことが丸ごとおもしろいのです」(「文学は実生活で役に立たない?」9・10ページ)

「文学は実生活で役に立つか」の問いに対し、この質問に正面から答えるよりは、その問いの内にある「役に立つか役に立たないか」の二項の有用性判断に基づく質問の立て方の前提そのものを疑い相対化して、それを文学の本領の本質(「文学とは日常の当たり前に思える発想を揺さぶる不穏なもの」)につなげて置く、まさに「文学論のお手本」のような文学の本質定義よりする周到な模範的回答である。かつて大江健三郎も、この手の「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か」の質問には、その問いの中にすでにある「飢えて死ぬ子供の前で…」という恣意的な極限状況の設定と、「有効か無効か」の二項の価値判断そのものを批判し無化するような趣旨の同様な答えを寄せていた。私もこの辺りが、よくある「果たして文学は役に立つか」問答に処する、正統な文学よりする「誠に文学的な」適切な回答の落とし所であるような気がする。

こうした文学問答から「はじめての文学講義」の講演は始まり内容は次第に深まっていき、中高生に向けた「はじめての」文学初心者への講義でありながら、なかなか本格的な「文学講義」が展開されていく。

前半では「文学の楽しさはどこにあるか」と題し、「二つのものを結びつける力」、すなわち「ダブル・ヴィジョン(二重視点)がイメージを喚起させる」として、一つのものとしてあるシングル・ヴィジョンの単調な物の見方よりも、一見関係のないもの同士や意表をつく組み合わせの妙による、ダブル・ヴィジョン(二重視点)にての物事の関係性から初めて、そのものへの豊かなイメージ喚起力が生じる文学の技法効果らが、太宰治「富嶽百景」(1939年)における「富士と月見草」の対比を例に主に述べられている。

また後半では「文学のいとなみ」として、生徒からの質問に答える形で文学との接し方や日々の読書のアドバイスがより実践的に語られている。例えば、

「読書において、文学史にとりあげられていなかったり売れてもいないし評判にもなっていない、自分だけの大事な作品を発見できるような、本に対する自身の選択眼の養成に努めるべき」(「自分だけの 『名作』を見つける」98ページ)

「新聞各紙に掲載の書評を日々チェックしたり、定期的に通う自分が好きな書店を見つけることで、それらを通して自分が読むべき本が見つかったり、本そのものの新たな魅力に気づくことがある」(「書評を利用し、ファイルを作る」100─103ページ)

「小説は読みながら随時、読む行為を中断して時に考えながら味わいながら読むとよい。読むという行為は、たくさんの中断があるほど奥行きを増す。一番いけないのは粗筋(あらすじ)読みで、粗筋だけを追っていく水平的に移動していくばかりの読書はつまらない」(「深く読むほど、読むことの中断が起こる」115─ 117ページ)

といった旨のアドバイスがある。その他、ここでは触れなかった「文学講義」の読み所が本新書には数多くある。それらを全て挙げてしまうと「ネタばれ」になって、本書の著者の中村邦生と発売元の岩波書店に申し訳ないので(笑)。あとは是非とも実際に本書を手に取り、各自で熟読して頂きたい。

岩波ジュニア新書、中村邦生「はじめての文学講義」を一読して、私もまるで中高生に戻って著者の講演を現実にその場で聴講しているような気分になり、非常に楽しめた。本書は岩波ジュニア新書でジュヴナイル(10代の少年少女向け読み物)であるけれど、大人の読者にもお勧めである。

「読むことを楽しむにはどんな方法がある? 魅力的な文章を書くにはどうしたらいい? その両面から文学の面白さ、深さを構造的に探っていく。太宰治をはじめ多種多様な文学作品をテキストにしながら、読むコツ、書くコツ、味わうコツを具体的に指南する。『文学大好き!』な現役の中学・高校生を対象にした『文学講義』をまとめた一冊」(裏表紙解説)

岩波新書の書評(429)今井むつみ「英語独習法」

岩波新書の赤、今井むつみ「英語独習法」(2020年)だけを読むと気付かないかもしれないが、本新書は今井の旧著、同じ岩波新書の「ことばと思考」(2010年)と「学びとは何か」(2016年)の続編となっている。すなわち、「ことばと思考」と「学びとは何か」にて認知科学の観点から明らかにされた人間の「思考」や「学び」に関する原理的考察の成果を、今度は実際の日本人による第二言語習得であるところの英語学習に適用させて具体的に生かそうとする実践編として、この度の新著の「英語独習法」はあるのであった。

より詳細に言えば、認知科学専攻の今井むつみにおいて「ことばと思考」にて展開された、言葉とは単なる伝達のための手段の道具と目されていた、かつて支配的であった、いわゆる「言語道具論」に対する批判に裏打ちさせて、言葉を元に言葉を使って人間は思考するのであり、言葉が人間の思考をかなりの所まで根拠づけ言葉によって人間の思考は相当に左右されて、ゆえに当然ながら異なる言語を話す日本人と外国人とでは認識や思考のあり方が違うのは、世界を切り取り発想したり認知したり判断したりする、そもそもの言語が相違するからといった人間の認知や思考に関する原理的解明。さらには「学びとは何か」にて指摘された、人が物事を「学ぶ」ということは、単なる知識の雑多な寄せ集めではなくて、言語知識の行間を補うために使う常識的な知識のフィルターである「スキーマ」に当てはめ人は有機的に知識を取り込んで記憶のネットワークを構築しており、さらには、そのような知識についての認知(知識についてのスキーマ)であるところの「エピステモロジー」に各人の「学び」の方向や質は決定付けられるとされる。こうした人間の「思考」や「学び」に関する原理的考察の成果を、今回は実践的に日本人の「英語学習(独習)法」に生かそうとするのである。

だから岩波新書「英語独習法」にて、「第1章・認知のしくみから学習法を見直そう」よりのはじめの四つの章は、「日本語と英語のスキーマのズレ」など認知科学による人間の「思考」や「学び」の仕組みを踏まえて、日本人にとっての英語学習の見直しや効果的な学習方法を述べる「英語独習法」についての概論的な解説となっている。この部分の記述はこれまでの「ことばと思考」「学びとは何か」の内容を踏まえたものであるが、今井むつみが多用する「スキーマ」らの術語に関する基礎的な一通りの説明は本書にもあるので、それら今井の旧著を未読であっても何ら問題はない。その上で次に「英語独習法」における具体的なツール(道具)使いの方法(「コーパスによる英語スキーマ探索法」など)や、日々の英語学習のポイント(「語彙を育てる熟読・熟見法」など)のアドバイスがあって、さらに最後に「探求実践篇」として語法・英文法の問題演習が付されている。本新書は、およそこのような構成になっている。

今井むつみ「英語独習法」を一読しての私の率直な感想は、「本書を熟読してこの通りに独習で英語を学んだとしても到底、英語がマスターできるようになるとは思えんな(笑)」。

これまでの今井むつみの岩波新書を連続して読んできて、私が危惧するのは、認知科学の観点から彼女により考察された人間の「思考」や「学び」について、それが読み手の各人に、認知科学の最新理論に厳密に裏付けられた合理的できわめて効果の出る自己啓発の勉強論とか学習法として読まれ使われる場合に、彼女の口ぶりを真似た「スキーマ」などの認知心理学の専門用語をただ振り回して、より合理的で効果的な学習法を追求の方法論にばかり終始し逃げて結果、本来の目的たる勉強を真面目にやらず、学習の成果が全く上がらない落とし穴にはまる心配だ。勉強法はどこまでいっても勉強をやる方法の「手段」なのであり、勉強そのものをやる本来の「目的」にはならない。  

なるほど、本新書の帯には「楽してではなく合理的に楽しみながら英語の達人になろう」とあり、本書「英語独習法」の目玉は、「英単語でも英熟語のイディオムでも、とにかく暗記しろ」とか「英文読解や英会話は習うより慣れよ。反復して繰り返せ」の英語上達への確固たる理論や合理的筋道なく、昔からの、ただ暗記や反復を奨励するだけの非合理な根性主義の英語学習法に対する批判である。だから、本新書の第1章より「認知のしくみから学習法を見直そう」の、従来型の英語学習法を見直すべき旨の著者からのアドバイスになっている。

しかし、英語を本気で習得して自分のものにするには、「認知科学の学術成果に裏打ちされた合理的で効果的な学習法」などアテにせず、時に無心に愚直に自分が消耗する程までに苦労して長い時間をかけて長期の学習計画にて勉強してもよいのではないか。特に英語をこれから本格的に学んでマスターしようとする人には10代の学生ら若い人が多いのだから、人は若い時分は長い時間を費やし向こう見ずな努力の苦労を重ねるのもよいのではないか。

泳ぎを覚えたいなら正しいフォームや効果的な息継ぎのやり方の方法理論以前に、とにかくまず水の中に飛び込め。苦しくて沈まないよう、もがいている内に泳げるようになるよ。勉強でもスポーツでも仕事でも何でも「最初から失敗しないように上手くやろう」「工夫して合理的な最小限の努力で最大限の成果を上げるようにしよう」など事前にあれこれ考えず、まずは素直な気持ちで無心にやってみることではないか。

1970年代生まれで、80年代に高校時代を過ごし大学受験英語を学んだ私らの世代では、英語独習の英文読解には駿台予備学校・英語科の伊藤和夫「英文解釈教室」(1977年)が定番の参考書で、当時は皆がやっていた。私も高校生の時は伊藤師の「英文解釈教室」の参考書を一生懸命にやって英語が読めるようになった。

岩波新書の赤、今井むつみ「英語独習法」に関しては、やはり「本書を熟読してこの通りに独習で英語を学んだとしても到底、英語がマスターできるようになるとは思えんな(笑)」。今井むつみの口ぶりを真似して認知科学の「スキーマ」とか言わずに、まっとうな苦労の正攻法で伊藤和夫「英文解釈教室」あたりの大学受験英語の参考書でもコツコツと地道に真面目にやった方が「英語独習法」の近道なのでは、と私には思える。

岩波新書の書評(428)渡辺金一「中世ローマ帝国」

中世ヨーロッパ史専攻で、なかでも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に関する多くの論文や書籍や訳書を著している渡辺金一の岩波新書は、「中世ローマ帝国」(1980年)と「コンスタンティノープル千年」(1985年)の二冊がある。後出の「コンスタンティノープル千年」が箴言(しんげん)や問答体など多様な文体で初学の読者にも分かりやすい新たな書き下しの、まさに「新書」たるに相応(ふさわ)しい、都をコンスタンティノープルに置くビザンツ帝国に関する入門的な新書になっているのとは対照的に、前出の「中世ローマ帝国」は、大学紀要か専門の研究雑誌に掲載した学術論文を書店売りの一般新書なのにそのまま収めたような硬質な学術文章の岩波新書であり、本書は読んで難しい。

渡辺「コンスタンティノープル千年」に関する文章は以前に書いたことがあるので、今回は岩波新書の黄、渡辺金一「中世ローマ帝国」について書いてみる。

本新書のタイトルである「中世ローマ帝国」とは、より厳密にいって中世の東ローマ帝国、別名・ビザンツ帝国のことである。東ローマ帝国は東西分裂(395年)後のローマ帝国の東半分を支配して、首都の旧名であるビザンティウムが東ローマ帝国の別称・ビザンツ帝国の由来となっている。東ローマのビザンツ帝国(395─1453年)は首都をコンスタンティノープルに置いて、西ローマ帝国が5世紀末に滅亡した後も存続し、6世紀半ばに全地中海周辺の領域支配の回復にほぼ成功し、7世紀に帝国のギリシア化が進み、皇帝が宗教上の指導者を兼ねる(皇帝教皇主義)とともに西ヨーロッパに対して独自の東ヨーロッパの文化を形成した。だが11世紀からの十字軍運動以後に衰退し、15世紀にビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされた。

ビザンツ帝国は専制君主制、つまりは唯一の皇帝が支配する統治体制であった。4世紀から15世紀までのビザンツ帝国1000年余りの歴史で(数え方にもよるが)89人の皇帝が統治し帝国は続いた。東西の世界史の中でも一つの帝国が1000年以上滅びずに継続し、しかもその政体が皇帝による専制君主制であったというのは極めて希(まれ)で実に驚くべきことである。コンスタンティノープルを首都としたビザンツ帝国が千年統治継続の理由の一端は、本書「中世ローマ帝国」の実質的な続編にあたる渡辺「コンスタンティノープル千年」にて明らかにされている。

ここで岩波新書「中世ローマ帝国」の目次を見よう。本書は全四章よりなる。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国、第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合、第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み、第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」

私が読む限りでは、本新書は「ビザンツ帝国と中世の民族移動により現出した帝国周辺諸民族との主にキリスト教の宗教イデオロギーを絡(から)めた中世の東ローマ全体像の歴史概観」である。本書では一見、独立した論文が四本並べられ、あたかも無造作に収録されているように思えるが実のところ、それら全四篇の全四章は有機的に繋(つな)がっている。著者の渡辺金一は誠に優秀で周到な方で、全四章で「中世ローマ帝国」=中世初期の地中海世界の全体構造(ビザンツ帝国と帝国周辺諸民族)を概観できる本書記述になっているのだ。

すなわち、第一章と第二章の前半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、前者のビザンツ帝国本体の話である。

「第一章・民族移動と中世のローマ帝国」では、中世初期の民族移動の結果、ビザンツ帝国周縁部に出現し定住して、やがて帝国と関連を持つようになった諸民族(アヴァール部族のフン人、ゲルマン民族のフランク人やゴート人、アラブ民族のサラセン人ら)へのキリスト教改宗を通してビザンツ皇帝を家父長とし、彼ら周辺諸民族と諸国家の長たちを家人(子供や兄弟)とする擬制的親族秩序理念の形成という、キリスト教を介した帝国と周辺諸民族との宗教イデオロギー支配の実態を明らかにしている。

他方、「第二章・帝王の光輝と限界─中世政治神学の比較史のために、ビザンツの場合」は、今度はビザンツ帝国の国内政治の話であり、「天上の帝国の模倣として地上にあるビザンツ帝国」という演出、その帝国の頂点に立つビザンツ皇帝を絶対的なものとして、「神の嘉(よみ)し給うものであり、神の終末論的な人類救済の要(かなめ)として」皇帝は定置される。そのような「キリストの模像としてのビザンツ皇帝」の支配イデオロギーは、宮廷儀式や法律文書前文や皇帝の演説らを通じて様々に形成され流布される。だが、他方で帝国の上からの、こうした皇帝讃美の政治神学に反する、人民の下からの対抗イデオロギーもあった。ビザンツ皇帝の退位失脚を願うもの、「国家に仕える者としての下僕の皇帝」という法体系による帝国権力に対する縛りや、法に基づく皇帝への忠告があった。このような一筋縄ではいかない、帝国側から演出される「帝王の光輝」と、人民側より突きつけられる「帝王の限界」の諸々の複雑なイデオロギーの対抗・錯綜の一側面が中世東ローマにはあった。

しかも第一章と第二章では、このビザンツ皇帝に関するキリスト教の宗教イデオロギーに関して、より具体的にコンスタンティノス七世(在913─959年)の治世に編纂(へんさん)された「帝国の統治について」「ビザンツ宮廷の儀式について」からの文献引用を介して詳述されている。ビザンツ帝国にて皇帝コンスタンティノス七世在位の10世紀は、7世紀に帝国のギリシア化が進み、ギリシア正教会の首長の任免権を持つことで政教両権を皇帝が握る、ビザンツ皇帝が宗教上の指導者を兼ねる皇帝教皇主義の成立を経てのビザンツ帝国の東ローマ文化の全盛期であった。当時、西ヨーロッパではオットー一世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立(962年)、同時代の中国は隋・唐帝国の時代に当たる。

それから第三章と第四章の後半は、ビザンツ帝国と帝国周辺の諸民族の二つの要素からなる「中世初期の地中海世界の全体構造」における、後者の帝国周辺の諸民族の話に移る。

「第三章・森の民と砂漠の民─比較社会史の一つの試み」は、中世初期の民族移動にて出現し地中海沿岸に定住した様々なビザンツ帝国周辺諸民族の中から、ゲルマンとアラブ両民族に関し、相互に絶えず影響を与え合っており、両民族の発展の過程において、その近接の同時代性と相違の対照性との確認を両民族の比較史を通じて明らかにしようとしたものだ。ゲルマンとアラブの中世初期の帝国周縁の民族にて社会的分業という同一の過程が見出されると同時に、しかし「森」のゲルマンと「砂漠」のアラブのそれぞれの民族が置かれたエコロジー的自然に応じて、そこから由来する各自の生活様式の異なった形態を見る民族比較史である。

「第四章・ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃─地中海的生産様式の一類型」も、ビザンツ帝国周縁の諸民族に関する考察であり、「ローマ領シリアにおけるオリーヴ・プランテーション村落の興廃」の歴史を具体的に追求している。この第四章は、紀元前7世紀のササン朝ペルシアの時代から後に7世紀イスラム教徒のアラブ人に占領されるまでの東ローマの周縁で地中海沿岸に位置する、かつてのローマ領シリアの「オリーヴ・プランテーション」の経済生活の様子を非常に長い時代射程で、かなり詳細に論じている。

岩波新書の書評(427)佐高信「戦後を読む 50冊のフィクション」

評論家でありジャーナリストである佐高信に関しては、廃刊になって今ではもうないが、以前にあった雑誌「噂の眞相」での佐高の連載「タレント文化人筆刀両断!」など私はよく読んでいた。私は10代の頃から岡留安則が編集発行の「噂の眞相」を定期的に読んでいたので。また佐高信と同様、本誌に連載を持っていた本多勝一の書籍も学生の頃から愛読していた。

佐高信という人は大学卒業後、郷里の山形にて高校教員をしていたが、教職員の組合運動にて学校体制側と激しく半目し、同時に独自に運動をやったため本来は連携すべき現場の県教組とも対立し孤立して、後に教師を退職。それから上京して経済系業界雑誌の編集者となり、次第に頭角を現す。そうして新聞の全国紙や週刊誌に政治経済記事を寄稿したり、テレビやラジオにメディア露出しコメントを出したり討論参加するようになって佐高信は全国的に顔が売れたのだった。

佐高信の政治評論の基調は左派で反権力である。この人は昔から一貫して戦後の自民党保守政権に対し非常に厳しい批判的立場を取る。そのことからして佐高信の政治評論の内容は、憲法第九条を保持の護憲と反戦平和、沖縄基地問題に関しては基地反対の沖縄市民を応援、過去の日本国の戦争責任追及、政治家と官僚と財界人の癒着と公的なものの私物化(裏金、利権、汚職ら)への攻撃と全容解明に向けての徹底追及、その都度、自民党保守政権から出される国民への統制強化の各種法案に対する反対などが主である。

そのため、佐高信の政治評論では前より自民党の岸信介、中曽根康弘、自民党在籍時代の小沢一郎らに対する厳しい批判があった。近年の2000年代以降では、同じく自民党総裁で首相であった小泉純一郎と安倍晋三に対する佐高信の姿勢・評価は特に苛烈を極め厳しい。その反面、昔から旧社会党やその後継政党には多分に同情的であり、反自民の野党を一貫して掩護(えんご)し応援して、自民党からの政権交代を常に願う所があった(ただし万年野党の日本共産党に対しては割と一貫して批判的である)。

前から佐高信の文筆と仕事を見てきて、この人は週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビやラジオへの出演ら時事的なその場限りの、いわゆる「消え仕事」が多いと私は不満に思ってきた。もちろん、その都度の時事論たる反政府のキャンペーン記事や発言、首相と内閣批判の世論形成の論幕は必要で時に重要な役割を果たすが、結局のところ、それらは一時的な政局の時局の「消え仕事」なのである。どんなに優れた週刊誌連載でも新聞記事でもテレビ・ラジオ内での鋭(するど)いコメントで皆の耳目を集めても、それは一時的な時事論としてその場限りで消費され、やがては人々から忘れ去られてしまう。近年まで佐高信が務めていた「週刊金曜日」の編集委員や時評の仕事も、一時的に人々に読まれるが、ゆくゆくは忘れられる。

佐高信は、週刊誌連載とか新聞や雑誌への寄稿やテレビ・ラジオへの出演ら時事論以外の、後々にまで残る本格的な政治論や思想史研究や現代思想論の原理論的な仕事も平行してなすべきであった。それらは時事論とは異なり、後々まで残り、時に「古典」として人々に広く長く読み継がれていく。だいいち佐高信は至るところで、「市民」の概念から戦後民主主義を志向した哲学者の久野収の弟子であることを公言し、師の久野を慕(した)っているが、「おい佐高(怒)、お前は久野収の弟子を公的に名乗るなら週刊誌連載とか新聞や雑誌やテレビでの安易なジャーナリズム仕事の時事論だけでなく、『思想の科学』に掲載できるような原理論の思想史研究や現代思想論の本格仕事も同時にやれよ。マルクスか幸徳秋水あたりの本格研究でもやれ。佐高信よ、師の久野収に無駄に恥をかかせるな!」と私はかねがね思っていた。ある人の弟子を公言するには、その師に恥をかかせないために、弟子に当たる人は元々のそれなりの才覚の力量と日々の積み重ねの努力が必要である。弟子たる者は師匠の後継の重い看板を背負って、決して楽をしてはいけない。佐高信「タレント文化人筆刀両断!」などの週刊誌連載は簡単な仕事で安易すぎる。あんなゴシップ的売文は楽に書けて誰にでも出来る。そして安易で時事的な売文仕事は後々まで残らない。一過性で終わり、広く長く人々に読み継がれない。

ところが、佐高信は法学部の大学卒業後に高校教員になり、その後に経済系の業界紙の編集者になったことから政治学や歴史学や思想論の専門的な研究実績の研鑽(けんさん)を積んでおらず、そのためこの人は組合運動の扇動的なアジビラまがいの文筆か状況的な過激政治発言に結局は安直に流れ、そこに終始してしまうのであった(苦笑)。

このように全く駄目な佐高信であったが、その佐高の一連の著作の中で比較的よいと思えて、例外的に私には印象深い一冊があった。岩波新書の赤、佐高信「戦後を読む・50冊のフィクション」(1995年)である。本新書は以前に同じ岩波新書から出された佐高「現代を読む・100冊のノンフィクション」(1992年)の続編の姉妹本に当たるものだ。

岩波新書「戦後を読む・50冊のフィクション」は、そのタイトル通りの「50冊のフィクション」の紹介本である。一冊につき4ページと書評紹介文の字数は決まっている。それが全50冊で本書は総数200ページ程のコンパクトな書評紹介文収録の新書である。佐高信の日頃の政治評論の嗜好(しこう)や経済系の業界紙編集者を以前にやっていた彼の経歴出自からして、日本の政治家や官僚や経済人とその政財界の内幕をモデルにしたフィクション(小説)を佐高が好んで選択し取り上げようとするのは、よく分かる。例えば戸川猪佐武「小説吉田学校」(1980年)、石川達三「金環蝕(きんかんしょく)」(1966年)、城山三郎「官僚たちの夏」(1975年)らの経済政治小説だ。だが他方で、自称「本好き」や「趣味は読書」と公言する人達が好んでよく推薦する案外ベタな、常日頃から多くの人が読んでいるような、例えば松本清張「ゼロの焦点」(1959年)、村上龍「コインロッカー・ベイビーズ」(1980年)、宮部みゆき「火車」(1992年)ら経済政治分野以外でのミステリーや都市文学の定番作品を今更ながら取り上げて佐高信がわざわざ紹介し書評しているのも、なかなか面白い。

さすがにどの作品に関しても、わずか4ページの非常に限らた字数の中で時に抑揚をつけ、唐突だが読み進めていく内にやがては分かる意味のある頭の文章の入り方だとか、適切でテンポある小説本文からの巧(たく)みな引用だとか、必ずしも全てを語らない、絶妙に余韻を残す「いかにも」な文章の終わらせ方など、佐高信は上手い具合にまとめている。

だが本新書を連続して読んでいると、国家権力や企業組織や組合上層部らの腐敗・堕落の実態を小説という「フィクション」の形式を借りて、批判的に時に痛烈な皮肉を込めて描いていたり、それとは逆に、それら政治権力や企業や組合の体制に逆らって不当に虐(しいた)げられた人々や、独り奮闘しそれら日本の「戦後」社会の現代における組織の巨悪に立ち向かう人物をモデルにした小説作品に対して、書き手の佐高信が、様々な紆余曲折の工夫の文章展開を毎回凝(こ)らしながらも、結局は最後にそれなりの高評価の肯定の論調で締(し)める、佐高のお決まり書評紹介文は、どれも似たようなものであり、パターン化されていて単調で連続して50冊分を読んで正直、私はツラい感じもする。これも普段からの左派で反権力な、佐高信の政治評論の基調の味に由来するものか。

ただそれらの中で例外的に、単に「戦後」の日本社会にての組織や人間の腐敗・堕落に対する批判の一刀両断の全否定で終わらせずに、社会や組織の内でそのように生きていかざるを得ない人間の悲哀や哀愁にまで佐高信が触れ得たもの、例えば生島治郎「腐ったヒーロー」(1969年)の小説モデルとなった現実のプロレスラーの力道山、また例えば山崎豊子「不毛地帯」(1976年)での作中の主人公に対する悪役のモデルとなった実在の日商岩井の元副社長・海部八郎を介しての本新書での佐高信の書評紹介文は、なかなかの名作と思えて、私には読後も深く強く印象に残る。

「この半世紀に戦争が落とす影は長く濃い。徴兵忌避者、戦犯、女性たちはどう生きたか、戦争責任はとられたのか。また、変貌する戦後社会の課題は何か。政争、汚職、公害、企業主義などの社会問題、アジアとの関係、新しい世代の闘いなど、様々なテーマから同時代の姿に迫った問題作・名作の数々を、意欲的に紹介する迫力満点の読書案内」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(426)沢崎坦「馬は語る」

昔に旅行中、家から持ってきた書籍を旅の中途で全て読み尽くしてしまって、移動中や滞在先にて読む本が弾切れになり、旅先の現地で新しく読む本を仕入れようと思って、とある街の古書店に入った。もちろん、一見(いちげん)の知らない書店である。そのとき購入したのが、岩波新書の黄、沢崎坦(さわざき・ひろし)「馬は語る」(1987年)だった。そのため本新書に関しては「あの時、あの旅の途中の知らない土地で読んだな」の、書籍の内容よりは読書をした行為の思い出の方が私には印象深い岩波新書である。

岩波新書「馬は語る」といいながら、実は私は馬には全く興味がないし、馬の事など全然知らないのである(笑)。また、これから馬について新たに知りたいとは少しも思わないのである(爆笑)。ただ旅で知らない場所に行って電車やバスや船で移動し移りゆく車窓風景を眺め、名所史跡を訪れ、かつ美しい景色を見たり、当地の名物料理を堪能し新規な宿舎に泊まり温泉入浴しただけで、時に異常に高揚し、時には異常に冷静で平坦な精神状態になったりする。そういった、いつもとは違う旅の醍醐味の新鮮な気持ちの中で、「普段の日常の自分だったら絶対に読まないであろう分野の書籍を、あえて選んで読んでみよう」の思いに襲われたのだ。そこで旅先の知らない街の知らない古書店にて書棚から選んだ複数冊の内の一冊が、岩波新書の沢崎坦「馬は語る」だったというわけである。

本新書の著者や編集担当者には誠に申し訳ないが、私は本当に馬の事には興味がないし、全く知らない。これまでの生涯で、おそらく馬に触ったこともない。ましてやエサをあげたとか世話をしたとか、乗馬の経験もないのである。学生時代に大学の友人で競馬に熱中し、よく競馬場に行き馬券を購入している馬好きな人がいた。そうした競馬にハマった経験も私にはないのであった。

ただ競馬中継で疾走するサラブレッドを見ていると、「馬は本当に美しい生き物だ」と感心する。もっとも競馬にて疾走のサラブレッドは人間の手で長い間をかけて相当な改良や交配が重ねられており、「あの美しさは自然の本来の動物のそれではない。サラブレッドの骨格や毛並や容姿全般の美しさは人間によって作られた人工的な馬の美しさだ」とは思うけれど。自然の野生動物で、競馬の疾走馬ほどの洗練された美しさは皆無で出せないのである。あのような細い筋肉質な体躯(たいく)では到底、馬は野生の自然の中で独力で生きてはいけない。

岩波新書「馬は語る」では、競走馬の話だけではなく、家畜の馬(農耕馬や馬車馬ら)の話も出てくる。読んで辛(つら)いが、馬刺しなどの料理に提供される食肉馬の話もある。全般に読んで面白いのは馬の誕生から成長、いわゆる「若馬」の思春期や求愛の、馬の生命誕生と成長過程の話題で、その反面、老いた馬や役割を終えた馬の屠殺処分の話は、やはり初読時から読んで私には大層、辛いのであった。

本新書の著者の沢崎坦という方は、畜産獣医学専攻の農学博士である。最終章「馬と私」での著者の記述は、馬への愛情あふれる良い文章だと私には思えた。また私は非常に残念なことに馬との直接的な関わりが全くない生活環境にて育ち、そのような「馬なし」の人生をこれまで送ってきたけれども、本書の最初の章「馬と日本人」を読むと、「日本人は昔から、特に北海道や東北ら東日本地域の人々は、馬に親しんで馬と共に生きてきたのだな」と今更ながら学ばされる。

最後に岩波新書の黄、沢崎坦「馬は語る」の内容が一目で分かる本書の目次を載せておく。

「Ⅰ・馬と日本人─馬と暮らし馬と語ってきた人々、Ⅱ・馬を育てる─馬の中の『自然』を見つめる、Ⅲ・馬をしつける─栄光のゴールをめざして人と馬は一体となる、Ⅳ・家畜としての馬─この『人間の友』も家畜の宿命は免れない、Ⅴ・馬と私─馬に魅せられ、馬から教えられた少年時代の思い出」