アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(432)田中美知太郎「ソクラテス」

前から私は、岩波新書の田中美知太郎「ソクラテス」(1957年)、同岩波新書の斎藤忍随「プラトン」(1972年)、同岩波新書の山本光雄「アリストテレス」(1977年)の三冊を自室の書棚に並べ折に触れて眺めたり、各新書を日々読み返しては悦(えつ)に入り満足していたことがあった。

言うまでもなく、これら岩波新書の各書タイトルとなっているのは古代ギリシアの哲学者たちである。ソクラテスはプラトンの師でプラトンはソクラテスの弟子であり、ソクラテスの弟子であったプラトンはアリストテレスの師でアリストテレスはプラトンの弟子であり、またアリストテレスはソクラテスの孫弟子にあたるのだった。「ソクラテス─プラトン─アリストテレス」の三人の古代ギリシアの哲学者らの連続した並びが、昔から私には相当に魅力的で眩(まぶ)しく輝いて見えるのだ。

今回は岩波新書の青、田中美知太郎「ソクラテス」について書いてみる。ソクラテスは自身の著作を残さなかった。だから後にソクラテスについて知れるのは、弟子のプラトンの対話篇か、あるいはクセノフォンの「回想録」の史料しかない。岩波新書「ソクラテス」は、そのように実証史料が極めて少ない制約ある中で、序章で「何をどこまで知ることができるか」にてソクラテス記述の現代における困難さの不利を著者の田中美知太郎は冷静に認めた上で、しかしソクラテスの生まれ育ちの「生活事実」の章から始めて最終章の「死まで」、出来る限り厳密に実証的にソクラテスの生涯と哲学思想を硬質な文体で果敢に書き抜いている。

そもそものソクラテスその人の概要は以下だ。

「ソクラテス(前469頃─399年)は古代ギリシアの哲学者。ペロポネソス戦争とその後のアテネの衰退期にあって、ソフィスト(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師)を批判し普遍的・客観的真理の存在、知徳合一を主張した。問答法という、対話を通じて『無知の知』(自らが無知であることを知ること)を自覚させる方法を実践し、アテネの人々に普遍的真理があることを説いた。その後、民事裁判で死刑の判決を受けて、『悪法も法なり』と述べ刑死した。彼は著作を残さなかった」

ソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのであった。このことから単に主観的に自分が「正しい」と言葉で言い募(つの)って、言葉で相手を言い負かして論破する当節、人気を集める世俗的なソフィストら(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師たち)に対するソクラテスの痛烈な批判があった。またソクラテスは、自身が発した言葉が混沌となり、他人から都合の良いように恣意的に理解され引用されることを最も恐れた。ゆえに彼は相手を前にした直接対話以外での、書き言葉の伝達たる文字による著作を残さなかった。

ソクラテスは、言葉が混乱して人々が迷うポリスの現状を憂慮し、常に正確な定義・概念を見出し、正しい言葉による新たなポリスの基礎を得ようとした。「徳」という「よく生きること」が、かのソフィストにとって人々から富や名声を得る世渡りの技能を意味したのに対し、ソクラテスは「富を求めるな。名誉を求めるな。ただ魂をできるだけ優れたものにすることに意を用いよ」として魂への配慮を訴えた。ソクラテスの哲学が主知主義と呼ばれるのは、何が正しいかの認識が正しい行為の保障となるという意味で人間の知性の優位を求めるからである。そして、その人間に知性は、もはや言うまでもなくソクラテスにおいては言葉の正しさに基づくものであった。

ソクラテスという人は現代風の俗な言い方をすれば、「相当に嫌味で皮肉屋の人」であって、非常に交際しづらい、人々から「悪意ある者」と見なされる、かなり誤解を受けやすい人であった。

彼は、対価をとって知識を授ける当時人気であったソフィストらに対し、問答法という対話(ダイアローグ)を仕掛けていく。「私は物事をよく知っている」と自負しているソフィストを前に、まずソクラテスは「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」として、ソフィストに謙虚に教えを乞(こ)う形で相手に次々に問いを発する。それらソクラテスの問いに繰り返し相手が答えているうちに答えに詰まったり前の答えと矛盾する答弁をしたことを指摘して、「私は物事を知っていると思っていたが、実は何も知っていなかった」ことを相手に自覚させる。これは普通に考えれば明らかにソクラテスからの皮肉(イロニー)である。なぜなら、ソクラテスは最初に自らの無知を告白し、自分の無知の劣勢を示して謙虚にソフィストに教えを乞う形で相手と問答を始めているのに、「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」の教えを乞うソクラテスの方が、「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストよりも優れてしまう逆の結果に、いつの間にか問答の過程で毎回なってしまうからだ。

「自分は無知である」と自認するソクラテスから謙虚に問答を挑まれた、かつて「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストは自身の面目をつぶされ、「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」ということに普通はなる。しかし、ソクラテスは最初に「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」とあえて謙虚に劣勢の格下に出て、最後に「私は物事をよく知っている」ソフィストよりも「無知である」私(ソクラテス)の方が、実は智者であり優れていることを勝ち誇って相手に知らしめたいわけでは決してない。全くそのような相手を論破したり無駄にヘコませたりする気はなく、当のソクラテスからすれば、これは言葉を正しく使った問答法によって導き出された極めて正当な帰結なのであって、冗談や悪ふざけでなく彼はどこまでも大真面目(おおまじめ)の大本気(だいほんき)なのである(笑)。

またソクラテスはデルフォイの神殿で下された、「ソクラテス以上の賢者ありや」の問いに対する「ソクラテス以上の賢者なし」の神託を受けて、それは「自分は皆と同じく全くの無知に他ならないが、ただ自分は自己の無知を知っているから他の人よりも智者であり賢者であるのだ」という自分の神託解釈を、自身の身を以て愚直なまでの彼自身の主観的な「使命感」から単に他のソフィストに教え広く伝えたかっただけなのである。

おそらくソクラテス本人には相手に嫌味や皮肉をいう悪意の本意など微塵(みじん)もなく、皆無である。後世からのソクラテス評価にて哲学者として彼は確かに優れた古代ギリシアの哲学者であったかもしれないが、私から見れば、この人は絶望的なまでに他者に対する世俗的な配慮や礼儀ら、そうしたことの対人の機微(きび)に全く気付かない、多少の与太が入った与太郎的な実生活者のポリス市民として破綻した単に駄目な人であっただけだ。ただ自身の言葉の厳格さの哲学を実践し哲学的真理を日々追求しているソクラテス当人は、いつでも大真面目の大本気なのであるが(爆笑)。

現代の私達の社会でも、「私は無知」と言い張るソクラテスから、あのような問答を仕掛けられて、いつの間にか自称「私は無知」なソクラテスから逆に自分の方の無知を心底思い知らされ、しかも神殿にて「ソクラテスは自分が無知であることを知っているので誰よりも智者であり賢者」という神による智者の保障神託の賞賛を頂いて、本当は「私は無知であるが、結局の所、周りに回って最終的に自分は智者であり賢者」と内心思っているソクラテスに対しては、どんなに知識や教養がある人格者であっても、誰でも「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」の不穏な空気に普通なるわな(笑)。

ソクラテスという人は、他者に気を使い相手のメンツやプライドに配慮して時にその場限りの思いやりのある嘘を述べたり、巧妙に黙り込んだり、あえて真実を語らずにそれとなく誤魔化したり、言葉の裏の意味や二重の意味を用いてその場の人間関係を修辞(レトリック)により良好に保ち上手に切り抜けるような処世の機転の効く人では全くなかった。何となればソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのである。

だから、ソクラテスは言葉の正しさや厳密さに異常なこだわりを愚直なまでに見せて、処世における時に相手に対する思いやりの言葉の配慮や、最低限の対人の礼儀を無視し続けた結果、ソクラテス本人の言葉による主知主義の哲学の意図の主観的「誠実さ」とは裏腹に、確かに一部の青年らを引きつけソクラテスは若者人気であったが、他方でソクラテスから結果的に無知を指摘され、恥をかかされたソフィストら同時代の周りの多くの人々から不興の反感を余計に激しく買い終始、彼は果てしなく誤解され続けた。紀元前399年にソクラテスは、「国の認める神々を認めず、別の新奇なダイモンの祀りを導入」し、「青年たちに害悪を与え」たという罪でアテネの法廷に告発され死刑を宣告される。そうして、ソクラテスは「悪法もまた法である」と言って法の決まりの言葉の厳格さを、これまた最期まで愚直なまでに丁寧に重んじて自ら毒杯を仰いで死んだのである。

ソクラテスの生涯と哲学にあるのは確かに、ある種の喜劇的な悲劇であった。