アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(379)藤沢令夫「プラトンの哲学」

古代ギリシアの哲学者のプラトンについて、岩波新書では「プラトン三部作」というべきものがあった。斎藤忍随「プラトン」(1972年)と、藤沢令夫「プラトンの哲学」(1998年)と、納富信留「プラトンとの哲学・対話篇をよむ」(2015年)である。

一つの新書で同じ人物やテーマにて何冊も重複して書籍を出すのは、私たち一般読者が軽く思うよりも、その著者や担当編集者には「内容の重複があってならない」「似たような書籍を何度も出してはいけない」というような、かなり慎重な重い気持ちの配慮を要するものらしい。岩波新書の「プラトン三部作」に関しても同じプラトンという人物を扱った新書を三冊出すにあたり、前の新書と内容重複しないよう特に後発の二著では相当な配慮の工夫が見られる。すなわち、最初の斎藤忍随「プラトン」は何ら制約なく、古代ギリシアのポリス社会の背景からプラトンの師のソクラテスやプラトンの生涯やプラトンの哲学思想について伸び伸びと広く自由に書いているが、次の藤沢令夫「プラトンの哲学」になると、前著と記述内容の繰り返しを避ける配慮からか、本書では「プラトンの哲学」の中でも特にイデア論に内容を絞(しぼ)り、その哲学思想を掘り下げて詳しく論述している。それから「プラトン三部作」の最後の納富信留「プラトンとの哲学・対話篇をよむ」になると、さらに前二作との繰り返しを避ける配慮が大きく働いて、今度はプラトン哲学の著作における「対話篇」という論じ方や思考の方法に中心を据え、より限定してプラトンを扱う新書となっているのであった。

以下では、岩波新書「プラトン三部作」の中で二作目に当たる藤沢令夫「プラトンの哲学」について書いてみたい。本新書は岩波書店刊、田中美知太郎・藤沢令夫監修「プラトン全集」全15巻(1974年)の1998年から始まった第5版増刷に合わせての出版である。「プラトン全集」の第5次復刊にてプラトンを今回、新たに読む読者へ向けて、岩波新書「プラトンの哲学」を指標にしてこれからプラトンの諸著作に当たるようにとの岩波書店よりの心遣いである。何しろ「プラトン全集」を監修した藤沢令夫みずからによる「プラトンの哲学」に関する解説であるので、これほどの適任者はいないと思われ、その新書解説は信用できる。

岩波新書の藤沢令夫「プラトンの哲学」の表紙カバー裏解説は、次のようになっている。

「西洋哲学の祖と仰がれるプラトン。だが、その哲学の内容はしばしば通俗的理解によって歪められてきた。ソクラテスの影響、イデア論を中核とする思想の展開と最終的達成、さらに現代に生きるわれわれにとって彼の哲学がもつ意義。プラトン哲学の核心を、研究の第一人者が長年の蓄積の上に立って平易に語った最上の案内書」

これは非常に上手い新書紹介の解説文だと思う。私は岩波書店の「プラトン全集」を当時、予約購入しなかったが、藤沢令夫「プラトンの哲学」は初版で発行日からまもなく1998年当時に即購入して読んだ。本書解説文中での「西洋哲学の祖と仰がれるプラトン。だが、その哲学の内容はしばしば通俗的理解によって歪(ひず)められてきた」という文言が気になって、私はこれまでプラトンの主要著作や解説書を読んで「プラトンの哲学」のことは、それなりに理解し分かったつもりになっていたけれども、「もしかしたら自分のプラトン哲学の読みは歪められた通俗的理解の不十分なものなのでは!?」の一抹(いちまつ)の不安があったからだ。

詳しくは各自、本新書を熟読し内容確認してもらいたいが、私が読む限り、本新書にて展開されている「プラトンの哲学」の読みは、従来のプラトン理解を否定し一新して新たなプラトン像を提示するような、そこまで新規で斬新なものではない。むしろ「プラトンの哲学」の中で中核をなすイデア論について、その成立変化の過程を同時代の哲学者らからのイデア論に対する批判や対話の議論を受けて、プラトン自身の哲学思想の深化の経過をより詳細に掘り下げ、「プラトンの哲学」のイデア論の内実を改めて読者に指し示すものである。そのことこそが、「しばしば通俗的理解によって歪められてきたプラトン哲学の誤りをといて、その通俗的理解をただす」という旨の著者・藤沢令夫の本意だと考えられる。

プラトンは、師のソクラテスから真理への献身の哲学的態度と対話による弁論術を学び、かつ「万物は流転する」の生成変化の世界認識を踏まえた、従前のパルメニデスの存在の哲学も継承し、また同時代のピュタゴラス派と交流をもったことから数学(幾何学)と魂との形而上学的な結びつきを自らの哲学に取り入れた。それがイデア論としてプラトン哲学の中核をなした。そうしたプラトンのイデア論の哲学は、弟子のアリストテレスの哲学とは「かたやブラトンは数学、かたやアリストテレスは生物学が認識モデル」という対照をなすものでもあった。

「イデア」とは世界や観念の起源の根本となるものである。プラトンによれば、生成変化する物質界の背後には永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。そこには師のソクラテスからプラトンが学んだ普遍的原理が存在することの確信、真理への献身の厳しい哲学的態度が確かにあった。プラトンにおいて、なぜ私達が物事や世界に「善さ」や「美しさ」を認めるのかといえば、それはその背後に超越的な「善のイデア」や「美のイデア」があるがゆえである。人はそのイデアを想起することで「善さ」や「美しさ」の認識に至るのである。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が数学(幾何学)や問答を通して、その記憶を想起することによって近接することができるのである。

こうした生成変化する世界の背後には永遠不変のイデアという理想的な範型が存在するというプラトンの指摘は、「万物は流転する」の生成変化の世界認識がまずあって、「であるならば、本当に存在するもの、ないしはそのものが『ある』ということは変化しない不変の完全なものがあるということだ。存在とは変化しない完全なこと」という従前のパルメニデスの存在の哲学を継承し、導き出されたものであった。まさにそうした「存在とは変化しない完全で永遠なもの」こそが、プラトンにおいて万物の始原の根本たるイデアであったのだ。

またこのようなイデアへの近接は、数的神秘主義の哲学のピュタゴラ派の影響を大きく受け、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が数学(幾何学)を通して、その記憶を想起することで近接することができるとプラトンはした。なるほど、プラトンの認識モデルは形而上学的な価値源泉のイデアという現象の背後にある抽象普遍的な原理措定の発想からしてピュタゴラス派と同様に数学、なかでも幾何学であった。プラトンが創設した学園アカデメイアの門前には「幾何学を知らざるもの、この門を入るべからず」と書かれてあったという。

プラトンの後、プラトンの弟子のアリストテレスは現象の世界にはイデアの抽象的な原理構成以外に物事の生成発展という極めて具体的な事態があることも加味した。アリストテレスにおいて世界の経験的な認識の構成原理は、もはや硬直的な固定のイデアのみではなり得ないのである。アリストテレスは事物の生成変化や物事の多様性を宥和的に見つめる。プラトンの認識モデルは形而上学的な価値源泉のイデアという着想からして数学、なかでも幾何学であって、プラトンは、とりあえず抽象原理から超越的に現実世界を斬るが、かたやアリストテレスの場合、現実世界の森羅万象をその生成変化と共に宥和的に見るところの、ある生き物が誕生し成長して、やがては死を迎えて消滅するサイクルを観察し見届けるような、生物学が認識のモデルになっていたのである。

このように師のソクラテス、先人のパルメニデス、同時代のピュタゴラス派、弟子のアリストテレスとの異同にてイデア論を中核とするプラトンの哲学思想を押さえることが一般の西洋哲学史では常套(じょうとう)である。以上のことから、ともすればプラトンの哲学思想は、形而上学的な観念論とか数学を範とした理性合理主義とか、物事の生成変化を何ら勘案しない静的な世界認識の方法などと一般に思われがちだ。しかしながら藤沢令夫「プラトンの哲学」は、そうした紋切り型なプラトン理解にさらに踏み込んで、プラトンに向けられた批判を彼自身が反省し、プラトン自身の思索の深化の時間的経過を経て、「ある」ことの存在について「魂(プシュケー)と身体(ソーマ)」や「静(不変)と動(変化)」の各種の二元論や、時にイデア論を相対化した上で哲学知が成立する経験論的な立脚点をも論ずるプラトンの周到さなど各種の要素を取り込んで、結論としてのプラトンのイデア論の哲学が精密に思考されていたことを明らかにするのである。何となれば、プラトンのイデア論は、近代以降の哲学のように人間主体にとっての存在や認識や行為など特定の分野にのみ限定されない、全宇宙を包括する総体的で普遍的な、瑕瑾(かきん)が一切ない完全な哲学論理として思索されていたからである。

以上のような「プラトンの哲学」に関する、特にイデア論についての考察は「プラトン全集」を監修し、プラトンの著作を広く深く読み込んでいる藤沢令夫ならではの優れた仕事であって、本書は熟読に値する。少なくとも私はプラトンのイデア論について、専門の学術論文ではない一般書籍でここまで詳細に掘り下げ多くの字数を割(さ)いて丁寧に解説したものを岩波新書の藤沢令夫「プラトンの哲学」以外でいまだ読んだことがない。この意味で本書は、その解説文にあるように、まさに「プラトンの哲学」に関し「透徹した原点の読みに深く根ざした最上の案内書」といえるのではないか。

それにしてもプラトンという人は、彼のイデア論に象徴されるように、時に単調な一本調子と思えるほど物事を徹底した一つの原理により突き詰めて考える嗜好資質の持ち主であった。彼の哲学思考をみると、常に「概念は判断(感覚や経験)に先立つ」のであって、あらゆる事柄が先天的で自明なイデアから超越的に説明づけられ、人間のその時々の感覚や認知の判断や経験の蓄積はイデアにより何ら裏打ちされない不確かなものとして徹底して排され、完全に否定されるのである。そのため、イデアで何でも説明づけようとするプラトンの哲学思想に対し、古代ギリシアの同時代人や後の時代、特に近代の哲学者からなされる痛烈なプラトン批判は昔から多い。本書でも同時代人のプラトン批判としてバルメニデスにおける、いわゆる「無限進行」指摘のイデア論批判(152─160ページ)や、イギリス経験論の影響下に大きくあったラッセルとドイツ観念論的伝統の現象学と実存哲学との素養を持つハイデッガーによるプラトン哲学への批判(8─13ページ)が取り上げられている。

プラトンは古代ギリシアの哲学者であるので、後の時代の特に近代哲学や科学主義の立場から「プラトンの哲学」を読めば、その難点や限界がおのずと明らかになるのは仕方のないことだ。にもかかわらず著者の藤沢令夫が、諸々のプラトン批判への反論とプラトン哲学の擁護を案外、全力で一生懸命にやや意地になってやっているのが、他方で岩波新書の赤、藤沢令夫「プラトンの哲学」の笑える読みどころでもある。