アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(474)田中美知太郎「古典への案内」

他社の新興新書と比べ、日本で最初の新書形態をとった古参の岩波新書に古代ギリシアの哲学や文学や美術の、いわゆる「古典」に関する新書が多いのは、昔は一般に「古典」と言えば主に古代ギリシア時代のそれであり、「プラトン全集」や「アリストテレス全集」の刊行など、日本での古代ギリシアに関する書籍の版権を昔から持ち、出版に際して翻訳・監修の古代ギリシアの研究者とそもそものつながりが岩波書店は特に深かったからに違いない。

最近は「古典」と言えば、その分野で長く好評で定番な書籍や以前に売れたベストセラーなどを幅広く指すが、昔は「古典」と言ったら、人間社会の文明のほぼ最初の開化の時代である古代ギリシアの哲学・文学・美術の一択であり、古代ギリシアに関するものが必読の「古典」として若者によく勧められ、また若者を中心に熱心に読まれている時代が確かにあった。なるほど、岩波新書のバックナンバーを見ても、ソクラテス、プラトン、アリストテレスら古代ギリシア哲学についての書籍は実に多彩であり、そして田中美知太郎、藤沢令夫、山本光雄ら古代ギリシア哲学専攻の優れた書き手が昔の岩波新書には多数いたのだった。

岩波新書の青、田中美知太郎「古典への案内」(1967年)は、サブタイトルが「ギリシア天才の創造を通して」であり、本新書は古代ギリシアの「叙事詩と歴史と悲劇」の哲学・文学に関する紹介であって、主に初学者へ向けてのタイトル通りの「古典への案内」である。著者の田中美知太郎は、ソクラテスとプラトンを専門とする西洋哲学専攻の学者であり、古代ギリシア哲学の碩学である。氏のギリシア哲学についての著作は確かに素晴らしいものがある。例えば、田中美知太郎「哲学初歩」(1950年)や田中「ソクラテス」(1957年)は、いずれも相当な名著であり、(少なくとも私は)繰り返し何度読んでも読み飽きないのである。

ただし田中美知太郎は、専攻の西洋哲学以外の分野はほとんど無知で全く駄目で、案外デタラメな人だった。田中美知太郎は、戦前の大日本帝国(近代天皇制国家)の国策遂行の戦争に理論的正当化をなし、戦後に「知識人の戦争責任」の追及を受けて追放された、かつての西田幾多郎や田辺元ら京都学派の後を受けて戦後の京都大学文学部哲学科を引き継いだ哲学者の一人であった。

そうした「哲学と国家の癒着(ゆちゃく)」の政治的責任の問題を抱えた戦後の京大哲学科の関係者であるにもかかわらず、田中美知太郎は「哲学(学問)と国家」の近すぎる共犯の問題を何ら考慮せず主体的には引き受けず、逆に戦後に京大哲学科の教官の立場から自民党保守政府の憲法改正に賛同し、積極的にこれを応援して、「現存憲法の戦争放棄の平和主義など、単なる綺麗ごとの理想論のお題目でしかない。非武装で丸腰の国家など他国にすぐに攻撃され滅ぼされる。今こそ憲法改正して再軍備を!」の旨の、戦後日本の右派保守論者にありがちな極めて荒い議論の「真空理論」(真空の空白があれば、たちまちそこに空気が入り込んで充満するように、非武装で軍事的空白がある地域や国家はたちまち周辺他国から軍事的に攻められ占領されるという理論)や、「戸締まり再軍備論」(戸締まりしていない無防備でお人好しな家がすぐに泥棒に入られるように、軍事的に無力で非武装な国家もすぐに他国から攻撃・占領されてしまう。そうならないよう常日頃から軍備増強して備えておくべきとする考え)を主張して、自身が専攻の古代ギリシアの西洋哲学の著作以外にも、現代政治に関する時事論の書籍も何冊も出してしまう。

その上、当時保守論壇を牽引し経済的に支えていた「文藝春秋」の援助の下で、田中美知太郎は保守系知識人団体「日本文化会議」(1968年結成)の発起人と初代理事長にまでなり、戦後日本の自民党保守政権下にて、憲法改正論議らを通して現政府の国家に積極的に協力し勢力的に応援してしまうのであった。

例えば以下のような、田中美知太郎による現行の日本国憲法の平和主義(「いわゆる平和憲法」)に対する、「台風を放棄すると憲法に明記すれば、台風は来なくなるのか。平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方がよい」の皮肉の口吻(こうふん)である。

「平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていればそれで守られるというものではない。いわゆる平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない」(田中美知太郎「敢えて言う」1958年)

私は、田中の古代ギリシア哲学の論考の精密で硬質な学術的文筆の素晴らしさに感心する度に、それとは対照的に極めて荒く俗っぽい田中美知太郎の日本の現代政治の時事論も同時に読んで失笑を禁じ得ない。田中美知太郎には、氏の稚拙な床屋政談レベルの現代政治への提言を読む限り、氏の中には人間が思索することを通しての規範や理念の普遍性の契機が全くないのであった。田中において、反戦平和の主張や戦争責任追及の反省議論や協調(平和)外交への働きかけは、現実的に力が劣る弱者の理屈で「単なる綺麗ごとの理想論のお題目」でしかなく、現実世界は「力こそ正義」の弱肉強食で「力のあるものが勝って生き残る」の路線の下に、言語による観念的理念や規範とそれへの実践努力は一刀両断、即に全面否定されてしまう。

ここにおいて、普段から本業の西洋哲学の古代ギリシア哲学にて「ロゴスとイデア」などと言っている田中美知太郎の古代ギリシア哲学における、人間が言葉を用いて思索することの意味の内実を改めて批判的に再検討する必要に私達は迫られるだろう。しかし、この話を続けると相当に長くなるので、ここでは詳しく述べないのだが。また別の機会があれば、田中美知太郎における現代日本の現実政治への提言から遡及(そきゅう)して明らかにされるべき、氏の古代ギリシア哲学認識におけるソクラテスとプラトンの「ロゴス」ないしは「イデア」(真理、規範、理性法則)の理解内実の問題について詳述してみたい。

さて岩波新書の青、田中美知太郎「古典への案内」である。ここまで書いてきて、もはや誰にも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こうみえても私は西洋哲学、なかでも古代ギリシア哲学専攻の田中美知太郎その人を氏の哲学仕事に関してのみ、日頃から読み重ねてかなり尊敬しているのである。実のところ、私は相当な「田中美知太郎ファン」なのである。岩波新書の田中美知太郎といえば、青版の「ソクラテス」と同じく青版の「古典への案内」は共に良書といってよく、田中の数ある著作のなかでも必ず読まれるべきものであると思う。田中美知太郎は論述内容もさることながら、何よりも記述の文章が毎回、適切で硬質で良い。

岩波新書の田中美知太郎「古典への案内」は「まえがき」を冒頭に置き、全3章よりなる。以下、本書の目次を書き出してみると、

「まえがき。ホメロス─叙事詩の世界。ヘロドトス─歴史の成立。悲劇─アリストテレス理論を手がかりに」

ここで直截(ちょくせつ)に言おう。岩波新書「古典への案内」の最大の読み所は、西洋哲学が専門である田中美知太郎が古代ギリシアの哲学者、アリストテレス「詩学」の「創作論」を手がかりにして読み解く「悲劇とは何か」の定義解説の157ページからの一連の記述である(と私は思う)。この箇所には「アリストテレスの悲劇概念にとって、『いたましさ』と『おそろしさ』が大切な規定であることは明らかである。このことはわれわれをアリストテレスの有名な定義へと導くことになる。『トラゴーディアー(悲劇)とは…』」と続く、古代ギリシア人にとっての詩学上の悲劇の定義内容が田中美知太郎により簡潔にまとめられ、理論的に考察されている。特に古代ギリシアの文学や演劇を読み、かつ演ずる者は、アリストテレスを通しての「悲劇とは何か」の定義考察を理解しておく必要がある。

なるほど本論記述によれば、ギリシア悲劇において「悲劇」とは人間についての「いたましさ」(他者の苦難に対する同情・共感)と「おそろしさ」(自身にとっての恐怖、未知や自己の限界の認知)、その他「二重正義の矛盾の複合性」(複雑な正義の要求。すなわち、法的な正しさ・厳正さ・必罰と人間倫理の正しさとの二律背反)の描写なのであった。これら「いたましさ」や「おそろしさ」や「矛盾の複合性」は、動物にはない、人間のみが持ちうる感情認知の能力である。ここから岩波新書「古典への案内」の中で著者の田中美知太郎は必ずしも明確に書いてはいないが、「古典」とは人間だけが持ちうる輝かしい人間中心主義の理路を記したもの、と取り急ぎ私は結論しておきたい。

「『叙事詩』といえばホメロス、『悲劇』といえばアイスキュロスやエウリピデスの名前があげられるように、西洋文化を知るには、これら天才たちの作品に触れ、味読する必要があるだろう。わが国ではとかく縁遠いと思われる古代ギリシアの作品が、実は誰が読んでも面白く、いかにすぐれたものであるのかを懇切に案内する」(表紙カバー裏解説)