アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(362)田中美知太郎「哲学初歩」

(今回は、岩波全書の田中美知太郎「哲学初歩」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、田中「哲学初歩」は岩波全書であり、岩波新書ではありません。)

政治学や法律学や経済学や教育学らとは異なり、哲学にだけ「哲学入門」以前に「入門」よりもさらに易しい、より基本的な「哲学初歩」や「哲学再入門」や「哲学入門一歩前」のような書籍が用意されてあることを私はかねてより不思議に思っていた。哲学は物事の存在や人間の認識の、あらゆる学問に先行する極めて根本普遍的で本質的な事柄を考察する基底学問であるから、時に「哲学は難解で習得が困難」と一般に目され異常に警戒されているのか。もしくは「一度は哲学を学んではみたけれども、よく分からずに結局は挫折した」の「挫折のやり直し輩」が哲学に関しては他の学問より多くいるのか。そのため、「入門」よりもさらに易化した「初歩」や「再入門」や「入門一歩前」の初級者へ向けた初歩的コースの書籍が哲学には、他の学問とは異なり昔から例外的に設定されてあると思われる。少なくとも哲学以外の学問で、例えば「政治学再入門」や「経済学入門一歩前」のタイトル書籍を私は未だ見かけたことはないのであった。

田中美知太郎「哲学初歩」(1950年)は、そういった更なる初級者向けの哲学書籍であり、昔からある代表的なものだ。本書の初版は1950年と古いが、そこに書かれている内容は半世紀以上を経た今日2000年代以降に読んでも何ら色褪(あ)せてはいない。今でも無心に読んで「哲学初歩」の初心の心得として実に学ぶべきものがある。本書の著者である田中美知太郎(1902─85年)は、西洋古代哲学が専攻でソクラテスやプラトンの研究をし、戦時の知識人の戦争責任追及から西田幾多郎の弟子ら西田哲学の、いわゆる「京都学派」の哲学教官らが京都帝国大学を一斉に追われ、指導教授陣人事一掃の総入れ替え以降の京大哲学科に迎えられた、戦後の京都大学文学部哲学科の再建に尽力した昭和の時代に日本の哲学研究を支えた学者の一人であった。

学問には普遍的真理と人間社会にとっての倫理的正義とともに、あらかじめ周到に考え尽くされ整序された整合的で均整のとれた美がないといけない。美しさの欠如した学問は厳密には学問たりえない。哲学は数ある学問分野の中でも、それら「真善美」の指標を明確にし、かつ実践づけるものである。哲学研究者の田中美知太郎の「美知太郎」は哲学に体現される人間の「知」の「美」しさを感受する名前である。「田中美知太郎」という名前が哲学者として出来すぎている(笑)。「田中美知太郎とは、哲学者としてよくできた名前だ」と田中の著作を読むたび、私はいつも感心してしまう。

田中美知太郎「哲学初歩」は全四章よりなる。その目次を書き出してみると、「1・哲学とは何か─その根源的な意味。2・哲学は生活の上に何の意味をもっているか─生活と哲学との結びつき。3・哲学は学ぶことができるか─学問的知識と哲学的智。4・哲学の究極において求められているもの─プロトレプティコスを中心に」

いずれも各章の章題が疑問文になっている。これら各種の疑問に自分なりに答えることができれば「私はそこそこ哲学を知っている」ということになるであろし、本書にて著者の田中美知太郎が各章タイトルの質問に何と回答しているかを押さえることができれば、田中「哲学初歩」の書籍は「一応は読めた」ということになりそうだ。例えば「哲学とは何か。その根源的な意味とは?」と咄嗟(とっさ)に聞かれ、もちろん一言で簡潔に即答できないとしても、「哲学の根源的な意味」についての自身の確固たる考えが元々あって、それなりに説明づけることが出来れば、とりあえず「哲学初歩」の免許は皆伝で次の「哲学入門」か正規の「哲学概論」や「哲学史」の通常コースに無事に進級できるわけである。

ここで各章題の疑問に答える著者による回答を明かすのは本書の「ネタばれ」になってしまうが、大まかな要旨の概要程度の意味で以下に軽く挙げてみる。

「1・哲学とは何か。その根源的な意味とは」。哲学とは全ての知識や人間の知識欲そのものが哲学なのではなくて、愛智の究極的なものを私達は哲学としなければならない。つまりは、哲学とは愛智である。「愛智」とは人間の智を愛(め)で人間の智を愛求して、時に智を鑑賞し、それを反芻(はんすう)し享受して人間の智を大切にし愛惜することである。そうして哲学は、この愛智から出発して、さらには「本当の愛智」であるところの「究極における何か」を知ろうとする真実の智を愛し求めるものでなければならない、何となれば、「真実に智を愛し求める者は、真実にあるものを知ろうと希(ねが)う者」だからである。「哲学は愛智であり、愛智は本当にあるものを知ろうとする真実の受容である」。

「2・哲学は生活の上に何の意味をもっているか。生活と哲学との結びつきとは」。哲学は愛智であり、愛智者とは智を熱心に求める者の意味でもあるが、私達はただ自身や世界に関する物事を漠然と幅広く知るのではなくて、そもそも哲学とは最も広く普遍的かつ根本的に深く真実の智を知ることであるから、その哲学の知は、また知る者の自身の生活を根本的に変えるような意味を持つものでなければならない。すなわち、哲学は生活に強く結びつき、人間の日常の物の観察の見方や常日頃よりの人間の行動指針を根本から見つめ直し変えるものに他ならない。「我らいかに生くべきか」の日々の生活指針を哲学は私達に与える。ここにおいて哲学を生活から分離させて、哲学を純粋観照なものにしてはいけない。また哲学的知識を持っていることで討論の弁論術にて無駄に相手を言いくるめ言い負かして勝ち誇ったり、他者や社会に対する自身の優越性や虚栄心の確保のために哲学が使われる愚を十分に理解し、私達は日頃からそうした愚行を避けるべきであろう。

「3・哲学は学ぶことができるか。学問的知識と哲学的智の相違は何か」。智を愛(め)でて愛惜する、さらには真実を求める「愛智としての哲学」に対し、私達はどのような方法の通路をもってして学び、哲学そのものに近づくことができるのだろうか。厳格には哲学は「智」であり「学」とは異なる。確かに哲学は「学」の学問でもあるが、外部から即物的に他律的に教授されて身に付ける単なる学問的知識ではない。哲学に関する書物を読んだだけで何だか全て分かったような気になってはいけない。哲学的智は、単にロゴス的(公共的)なものではなくて、さらに直接に真実を把握するものであり、これは直知的なものを意味し、哲学の知性は時に感覚の直感にたとえられる。知性はあくまでもロゴス的なものであって、いわゆる合理性の根本をなすものではあるが、しかしその根本において、さらにまた直感的なものであると考えられる。哲学は学問のように外から知識を与えて授けるものではなくて、人が自分で自己の内に直感に裏打ちさせて哲学的智を見出すことにある。ゆえに哲学とはただ私が知って見出し、自身の内に有機的に血肉化していくべきものであって、決して外部から即物的(インスタント)に教えることは出来ないものである。だから次のようにも言える。「人は決して哲学を学ぶことはできない。学ぶことができるのは、せいぜい哲学することだけである」。

「4・哲学の究極において求められているものは何か」。哲学とは私達にとって無限の偶然ではなく、むしろ私たち人間の本質に根ざす必然的なものであると言わねばならぬ。哲学の究極とは、「ただ生きる」だけの生存意欲ではなくて、それを超えた何かより良きものを志向すること、すなわち「よりよく生きる」のよき生を希求することである。「ただ生きているということが大切なのではなくて、よく生きるということが大切なのである」。こうして私達は自身の生活を出発点にして私達自身のために哲学を求めることを許されたわけである。人間にとってのより良き生活、例えば「幸福とは何か」「善とは何か」について、人間と社会の事物にてのよき有様を哲学は明らかにし求める。だが他方で、哲学的智も哲学をする人間も決して完璧で万能ではない。私達は自身が常に真実の智を愛し求めて、真実にあるものを絶えず知ろうと希(ねが)う途上の者でしかなく、いつも真実をすべて知り尽くしている者ではない。そうした自身に対する「無知の知」ともいうべき無智の自覚を絶えず持ち、自分を厳しく戒(いまし)めながら哲学に向かうべきである。かくして本書での結論の結語は次のように導かれる。「人間の仕事としては、哲学も限界をもたなければならない。最大を欲して最小を知る。無智の自覚は、哲学の出発点であると共に、また哲学の終点なのかもしれない」。

田中美知太郎「哲学初歩」の肝(きも)は「哲学とは何か」の「その根源的な意味」を定義するに当たり、「哲学とは愛智である」と明確に最初の章から言い切っていることだ。「愛智」とは人間の智を愛で人間の智を愛求して、時に智を鑑賞し、それを反芻し享受して人間の智を大切にし愛惜することであった。これは古代ギリシア哲学専攻の哲学研究者や哲学者が「哲学の現代的意義」を説く際の、だいたいの定番主張の落とし所であり、田中美知太郎「哲学初歩」は、そもそもの「哲学とは何か」の定義に際し、あまりにその基本で定番な常套(じょうとう)の言説を忠実に踏んでいるので読んで毎回、私は笑ってしまう。

古代ギリシアの古典哲学では、例えば「アテナイ人はアテナイのためにあるのであって、アテナイがアテナイ人のためにあるのではない」(古代アテネの政治家・ペリクレスの演説での言葉)などと平気で言われる。古代ギリシア人にとってアテネのポリスこそ実体であり、ポリスの共同体が個人の目的であって、ゆえにそこにはアトム(単体)的な個人主義的人間観が成立の余地はない。現代の近代社会に生きる私達の常識からかけ離れて決定的に人間の捉え方の理解の仕方が異なるのである。古代ギリシアにおいて、第一義に共同体のポリスがあって、人間はそのポリスの共同体のためにあり、時にポリス本体とポリスに属する諸個人は一心同体の同義であって、個人は集団に果てしなく吸収され同化していくのであった。また古代ギリシアを代表する哲学者であるプラトンにおいても、ポリスにて政治は善のイデアを認識した哲学者が統治する厳しい階級秩序の下での苛烈な専制の、いわゆる「哲人政治」であって、古代ギリシアの民主政には奴隷の存在も自明なことであった。これは全ての人間が自由であり、かつ平等であって、各人に政治参加の権利が認められていて、しかも個人は内面の自由を有する権利の主体であり、人間はどんな人であっても、性別や出自や財産や能力や社会的地位に関わりなく、皆が平等に尊ばれなければならないとする人間の尊厳性についての自覚に基づく近代の人権思想に裏打ちされた個人主義とは明白に異なるものであった。

こうした現代の私達からする近代社会の常識から大きく乖離(かいり)した西洋ギリシアの古典哲学の現代的意義を説く場合、あえて近代社会における大量消費や知識の量的飽和の人間疎外の問題を指摘して、その今日的問題に対する近代批判の対立の形で「大量生産の大量流通の量的飽和ではない、使い捨てられ、ぞんざいに扱われ事務的・機械的に処理されることの決してない、限られた哲学的智を質的に深め掘り下げて観賞し享受し愛惜して大切にする古代ギリシアの古典哲学における哲学的知性観の正しさの強調」の定番な常套指摘の記述に毎回だいたい無難に着地する。日本には優れた古代ギリシア哲学の研究者ないしは哲学者が昔から多くいるが、私が知る限り、例えば山本光雄や藤沢令夫ら、彼らが古代ギリシア哲学に絡(から)めて「哲学の現代的意義」を説く場合でも、およそ「今日の近代社会にて使い捨てられる情報過多で量的飽和な知と人間の疎外状況」に抗する脱近代(ポストモダン)の近代批判の文脈にて古代ギリシアの古典哲学に触れ、頻繁に論じていた。近代批判のポストモダン論の文脈で前近代の古代ギリシア哲学が、しばしば参照され引用されるのが面白い。

思えば、「哲学初歩」の著者である田中美知太郎は、西洋古代哲学が専攻でソクラテスやプラトンの研究をなし、古代ギリシア哲学に関して「ロゴスとパトス」や「イデア」や「ソフィスト」の術語を用いて、どちらかと言えば古代ギリシア哲学から西洋哲学の全体像を、果ては「哲学とは何か」を一般化して語りたがる典型的な古代哲学専攻の哲学(研究)者であった。それゆえ「哲学とは何か」の定義に際しても、近代批判のポストモダン的観点から「限られてある哲学的智を質的に深め掘り下げて愛惜して大切に扱う古代ギリシア哲学における哲学的知性の正当さの強調」という、古代哲学専攻の哲学(研究)者がよくやる定番常套の型に、きれいにはまって記述している本書は、ある意味、半畳の入れ所の笑い所ではある。しかしながら本書の内容は極めて妥当であり良質だ。

田中美知太郎「哲学初歩」は、初版が1950年と古いが、そこに書かれている内容は半世紀以上を経た今日2000年代以降に読んでも何ら色褪せることなく、今でも無心に読んで「哲学初歩」の初心の心得として実に学ぶべきものが多くある名著といえる。