アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(238)鶴見俊輔「本と私」

岩波新書の赤、鶴見俊輔編「本と私」(2003年)は、岩波書店創業90年を記念し実施した原稿募集「本と私」の入選作19篇を収録したものだ。

よって本新書に掲載の「本と私」に関するエッセイはプロの書き手によるものではなく、一般応募者の優秀作品であるから、入選作19篇を読んで私としては「なるほど」と率直に感心させられるものもあれば、「果たしてこれはどうなのか」と正直思ってしまうものもある(笑)。本書に収録のものは、少年時代の本の思い出、本に囲まれた病床生活、国境を越えて人々を結ぶ本、自らの本づくりに挑む体験など、本と人との間に生まれた様々なドラマに関する手記だ。「本と私」の原稿募集には下は10代から上は90代まで幅広い層から800篇近くの文章が寄せられたという。それらの中から鶴見俊輔と岩波書店編集部が19篇を選んだ。

本書にて何よりも感心するのは編者の鶴見俊輔による編者まえがきでの語りであって、鶴見の仕事人としての優秀さと鶴見の懐(ふところ)の深さ、人当たりの良さを私は感じずにはいられない。

「本は、今までの歴史の終わりに立たされている。本は今、人気がない。敗戦後、出版社の前に行列ができたころに比べて、今は、本に打ちこむ人が少ない。この時に、『本と私』という題で、八一八篇が集まったということに、おどろいた。本という文化について、危機感が、この日本で広く共有されているからではないか。…今直面している本の危機に、対したい」(鶴見俊輔「本という自分」)

「鶴見俊輔は仕事ができる誠に有能な人である」という感慨を、この編者まえがきから思い起こすことができる。今回の一般応募「本と私」を岩波書店が企画したのは、単に自社が創業90年の節目を迎えたからではない。そうした記念企画の催しではなくて、書籍の編集販売を手掛ける岩波書店にとって「本は今までの歴史の終わりに立たされている。本は今、人気がない」という危機感があるからこそ、「本と私」というような読書振興の原稿募集企画「本と私」を岩波書店は実施するのであった。そして、その入選作を岩波新書にまとめ「本と私」として出版する。そうした岩波書店の「今直面している本の危機」を編者の鶴見俊輔も岩波編集部の企画意図を汲(く)んで、そのことを「編者まえがき」たる「本という自分」の中で見事に文章化し著(あらわ)している。編者として仕事発注の依頼主である岩波書店編集部の「本と私」の企画趣旨を押さえ共有し、新書冒頭の編者まえがきを鶴見は書き抜いている。鶴見俊輔は実に見事である。「よい仕事ぶりだ」と私は感心する。

しかも「本という自分」まえがきにて、本新書に収録の入選作19篇のうちの幾つかに鶴見は触れているが、いずれも各手記の書き手に敬意を払った誠に上手い具合の着地評価の紹介記述であり、そこに「鶴見俊輔その人の懐の深さ、人当たりの良さ、人なっこさの寛容さ」といったものを私は感じずにはいられないのであった。岩波新書「本と私」の巻頭、鶴見俊輔「本という自分」の編者まえがきは、鶴見さんの仕事人の優秀さと温かい人柄とが、にじみ出た良文である。

ところで岩波書店創業90年を経て、「本と私」の本新書が出された2003年の時点での「本は今までの歴史の終わりに立たされている。本は今、人気がない」とする岩波書店と鶴見俊輔とに相互了解され共有されている本をめぐる危機意識は本当なのだろうか。私は昔から変わらず人並みに日々、書籍を読むし、私の周りの身近な人達も「趣味は読書」として日常的に不断に書籍に親しむ人は多い。鶴見俊輔がいう「本は今、人気がない。…今直面している本の危機に、対したい」というのは少し大袈裟(おおげさ)で、悲観的すぎる気もする。紙の活字の書物はこれからも創造的媒体(メディア)として文化を担(にな)い続けるであろうし、この先も本の文化は安泰なのではないか。

とりあえず、私は本の文化を享受して「本と私」の生涯を充実させ全(まっと)うしたい、死ぬまで本を読み散らかしたい。少なくとも私はそうした心意気である。