アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(237)ビュァリ「思想の自由の歴史」

今どき教養主義というのも流行らないが、改めて「教養とは何か」を定義するとすれば以下のようになろうか。

「教養とは、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す」

思想史研究において昔から日本「近代」の教養主義の系譜に対し、明治の夏目漱石から始まり大正・昭和を経て西田幾多郎に至るまで、時代状況との接点を持たず、ゆえに現実へ働きかける実践性に乏しく、何ら役に立たない高踏抽象な有閑学問とするような散々な悪評の根強い定番評価があるけれども、私はそうした教養主義の復権を願っている。「教養」をそれ自体として自存化して置かず、昨今世上にて好評人気の「啓蒙」や「自己啓発」への対抗(カウンター)として捉え直し「教養主義」を復権させたいのだ。学問における学び知ることを、個人の能力伸長や社会適応に安易に直結させる自分にとっての損得勘定で脊髄(せきずい)反射的に反応してしまう、あの薄っぺらい「啓蒙」や「自己啓発」に対する痛烈批判として。

そもそも「教養」は目先の損得・適応に安易になびかない。むしろ、修養を重ね自己を確立することで立身出世や全体主義の今日の状況に批判の楔(くさび)を打ち込んで一本筋道を通す。「教養」は時に不適応で孤立を招くこともある。教養は「使える」有用性の能力開発ではなくて、自身の中で真善美の価値を中心とする世界観の構築であるからだ。そして能力伸長の「自己啓発」とは異なり、「教養」の習得には時間もかかれば手間もいる。過剰な成果を宣伝文句にして売り込む叩き売り絶賛発売中のインスタント勉強術の「自己啓発」とは違うのだ、正統な「教養主義」は。

また昨今の世上のトピックに「反知性主義」というのもあった。もともと「反知性主義」は1950年代のアメリカ世相を揶揄(やゆ)した言葉である。知識や理性のそれは無視して、好悪と快不快の感性的判断でもっぱら事に処するのが従来の反知性主義であった。ところが、2010年代のリバイバルの「反知性主義」は様相が異なる。根底では好悪と快不快の欲望充足の感性的判断でもっぱら事に処する従来型の「反知性」と本質は変わらないが、活字映像のマスメディアの更なる発達とネット環境の整備により情報入手が容易になった結果、今日の「最新型の反知性主義」は表面だけ「知的に」扮装(デコレート)されている。

近年の日本国内の状況でいえば、根本に他民族や特定東アジア諸国やマイノリティや市民運動や人間権利の普遍的規範に対する感性的な嫌悪、悪意、攻撃性、他罰感情、排他意識を持っていながら表層にて証拠知識のソース提示、情報リテラシーによる常識的世論ないしは従来メディア批判の論争論破の勝ち誇りだけを求める、現代日本における「反知性主義」の跳梁跋扈(ちょうりょう・ばっこ)の惨状(さんじょう)である。

すでに指摘されているように、現代の「反知性主義」における知性の処し方は「時間の収縮化」(今だけの瞬間、刹那の享受)と、「事柄の断片化」(文脈や歴史や他者の不在、無視)に集約されるのだった。それは「反知性主義」において知識が人間を好悪、優劣、快不快、敵味方、正義と悪に必ず分けて、自分(たち)が乗っかっている立場や党派から全力で相手を批判・攻撃・他罰・毀損・排除する不寛容(イントレランス)に支えられているからに他ならない。確かに今日の「反知性主義」者たちは、よく勉強しており生半可に知識がある。「理論的」で「知性」があるように見える。しかし、他者や他党派や他民族や他国家を不寛容で攻撃(ヘイト)して自分(たち)の優越勝利が達成確保されたとして、一体何の意味があるのだろう。現代日本の「反知性主義」における知性の使われ方たる他者を論破する、他者に優越勝利することへの彼らの執着は(少なくとも私には)異常と思える程である。彼ら反知性主義者は「相手がまず不寛容で攻撃的なのだから反撃せずに、こちらが黙ったままではナメられる」云々と言うけれど、それはチンピラの思考だ。「相手にナメられないように」とか、「ナメられないように威厳を示す」「下手(したで)に出ないで常に相手の上に立つ」などの恫喝権威の上下関係にあらゆる人間関係を全て回収させてしまうのは、ヤクザまがいのチンピラ思考に他ならない。

そうした「反知性主義」にての「時間の収縮化」と「事柄の断片化」への対抗(カウンター)にも「教養主義」は有効であるように思う、損得勘定のお手軽・お気楽な「自己啓発」に対するのと同様に。というのも「教養」は、物事の正統出自や子細な時間経過や他者との関係性の相における知性の把握認識であり、知識の平板蓄積を避け、物事の両義性や多様性のふくらみと重み、他者に対する寛容・宥和を参照項として真善美の価値を中心とする世界観の構築であるところの、深まりを持った自己修練の知の習得の有り様であると私は信じるからである。

思えば岩波新書は、戦時中の発刊であり戦後の現在に至るまで、いつの時代でも「日本の教養主義の最後の砦(とりで)」たる所があった。確かに岩波新書は硬派な学術的新書で深遠で高踏余裕な所があり、容易(たやす)く読み手に読ませない、時に読者の安直な理解を拒(こば)む難解で本格好みな所があるけれど、売り上げ追求のために能力伸長の「自己啓発」や扇動ヘイトの「反知性主義」な書籍を安易に出さないのが岩波新書の昔からの変わらない良さだと思える。

さて岩波新書の青、ビュァリ「思想の自由の歴史」(1951年)である。本書はイギリス本国での出版が1913年で、第一次世界大戦開戦の直前であった。私は「教養主義の復権」文脈での岩波新書というと、本新書をいつも真っ先に思い出す。

「本書は、近代民主主義社会を支える思想の自由がどのようにして闘いとられてきたかを、各時代の具体的な事例に即して明らかにした名著である」と書籍紹介にあるように、ビュァリの「思想の自由の歴史」はヨーロッパ史における古代ギリシアとローマから中世封建世界、ルネサンスと宗教改革、絶対主義体制から市民革命を経ての近代国民国家における「思想の自由の歴史」を概説したものだ。人間の思想・良心の自由がポリスや封建領主や宗教権威や絶対王政など、その時代の反動勢力に常に対抗しながら、現代の民主主義社会に至るまでに勝ち取られてきた歴史を記述している。

現代では当たり前となった人間個人の学問・信仰など思想の市民的権利の自由は、ある時代に突如として成立したものでは決してない。この自由の普遍的権利規範の成立には、先人たちによる長い苦難の歴史があったのだ。そうした「思想の自由」の正統出自の意味の掘り下げと展開のふくらみを本書を読むと感得できる。人間にとっての「使える」有用性の効率判断にのみ終始する「自己啓発」の軽薄さを戒(いまし)めてくれる。人間にとっての普遍的権利たる「自由」を「無責任で放恣のワガママ」と言い換えて簡単に全否定してしまうような今日の反動・保守の「反知性主義」の愚かさを知らしめてくれる。人間の思想・良心の自由の重みを読むものに痛感させてくれる。ビュァリ「思想の自由の歴史」は岩波新書の本領たる、いかにもな教養主義系譜の新書である。確かに名著だ。

「今日、私たちは学問・信仰の自由など思想の自由を当然のことと考えている。だが、この市民的権利は長い歴史の中でごく最近になって獲得されたものであり、そのために数多くの血が流されてきている。本書は、近代民主主義社会を支える思想の自由がどのようにして闘いとられてきたかを、各時代の具体的な事例に即して明らかにした名著である」(表紙カバー裏解説)