アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(198)栗原康「アナキズム」

2018年11月に創刊80周年の節目を刻んだ岩波新書にて、同年同月に配本された新赤版の栗原康「アナキズム」(2018年)は、岩波新書の長い歴史の中で相当に新奇な新書であり、後々まで「異色の岩波新書」として折に触れ話題になるに違いない。何はともあれ、まずは本新書の書き出しを軽く引いてみる。

「チャンチャンチャチャーン、チャンチャチャチャチャチャーーーチャーンチャーンチャチャーン、チャーチャチャチャチャチャーーーン、どえれえやつらがあらわれたぁ!あれはことしの五月二日。深夜四時、自分で自分におつかれさまと、『麦とホップ』の黒をプシューッとあけたときのことだ。ふとパソコンをながめてみると、仲のよい友だちからメールがきていた。ひらいみると、すげえハイテンションで『ヤバイっす、ヤバイっすよ!』ってかいてある。なんだ、なんだ?URLがはりつけてあったので、クリックしてみるとユーチューブにとんだ。そんでね、でてきた映像がすげえんだ。舞台はフランス、パリ。五月一日の映像だ。マクドナルドが炎上している。あっ、比喩じゃないよ。ほんとにマックが燃えていたんだ。ウヒョオッ、ビールがうまいぜ!よし、もう一杯!だって、マックが真っ黒コゲになっているんだから。こりゃ、飲まずにはいられない」(「序章・アナキズムってなんですか?」)

擬声語、意味不明な叫び、ひらがなが多く話し言葉で一文がとりとめなくて、まるで左翼のアジビラ(政治的煽動をなすアジテーション・ビラ)か、全くの他人に読まれることを想定していない、仲間内だけで流通する内輪(うちわ)ノリの個人間の私的ノートメモのような文章だ。比較的硬派で学術的な固い新書本刊行イメージがある、従来の岩波新書の長い歴史の伝統に鑑(かんが)みて、本書「アナキズム」は明らかに異色である。これまでの岩波新書は、レベルの高い学術的な内容を分かりやすく筋道立てた整った文章で初学の読者にも親切に説き示すか、もしくはレベルの高い学術的な内容を、そのまま難解に語って読者との格の違いを見せつけ、書き手が読み手を圧倒して置いてきぼりにするかの、いずれかだった。しかしながら、栗原康「アナキズム」はそのいずれとも違う。

こうした擬声語、意味不明な叫び、ひらがなが多く話し言葉で一文がとりとめなく、まるでアジビラ、ないしは全くの他人に読まれることを想定していない、非常に読みづらい内輪ノリな個人間の私的ノートのような文章をわざわざ公開して一冊の刊行書物にする著者と岩波新書編集部の姿勢に正直、私は戸惑う。とにかく読みにくい。本書が読了するのにかなり苦労する「異色の岩波新書」であることは確かだ。

ただし、文面は先に引用したように終始ふざけてはいるが、「アナキズム」に関しての内容は比較的まともである。巻末の「主要参考文献一覧」を見ると、大杉栄、伊藤野枝、プルードン、クロポトキンらの各全集、近年の森元斎「アナキズム入門」(2017年)などの書名がある。また各章ごとに「アナルコ・キャピタリズム」「アナルコ・サンディカリズム」「アナルコ・フェミニズム」「アナルコ・コミュニズム」など、「アナルコ」な(「アナルコ」とは「アナキズム」と同義の接頭語である)テーマに分けて各論記述されている。しかし、本新書は約260ページほどだが、「チャンチャンチャチャーン」などの、つまらない出囃子(でばやし)や「ウヒョオッ」などの余計な言い回しの無駄を削れば、まぁ実質50ページ程度の薄い小冊子にはなるわな(笑)。

ここで岩波新書の栗原康「アナキズム」を含むアナキズム関連書籍を読む際に前提となる、アナキズム(無政府主義)に関する一般的な事柄をまとめておこう。

「アナキズム(無政府主義)」とは、既成の国家や権威の存在を望ましくない・必要でない・有害であるとする思想や主義の総称である。「Anarchy」の語源は古代ギリシア語で「支配する者のない」を意味する。アナキズムの主張者をアナキスト(無政府主義者)と呼ぶ。

一般にアナキズムは国家権力を否認し、それを完全な自由社会に置き換えようとする政治社会思想であるが、アナキズムを国家否認の意味で最初に使用したのはプルードン「財産とは何か」(1840年)であるといわれている。アナキズムは19世紀から現代に至るまで様々なニュアンスを持って多くの学者、思想家、文学者らから語られており、したがって皆が等しく「アナキズム」と言っても雑然たる学説や主張が昔から並列してある。例えば、無政府主義者のエルツバッヘルが以前に「アナキズムの概念規定」を試み、典型的アナキストとしてゴッドウィン、プルードン、シュティルナー、バクーニン、クロポトキン、タッカー、トルストイを選び、彼らの根本思想、法律、国家、私有財産、実現手段の各項目別の見解を詳細に分析したところ、「未来において国家の存在することを否認する点」を除いて何の共通点も見出せなかったという。このことからしてもアナキズムには各時代によって、あるいは各国地域の国家権力の状況や個々人の思想的立場とともに実に多様な解釈があるのがわかる。

それでもあえて、一般化して「アナキズム」の長所と短所についてまとめるなら以下のようになろう。

「アナキズム」の良さは、国家の否認に象徴されるように、現体制所与の価値観や権威を完全否定してそこから自由になり、真に人間としての主体を確保しようとする、いわゆる「否定の論理」である所だ。「アナキズム」の視点は現実に対し、距離を保って遥か彼方の無限遠点から現在を射影する立場を取り、そうした射影の仕方で現在(現実の政治体制や資本主義社会など)を俯瞰(ふかん)し捉えることで、それら現体制秩序を相対化し現状の問題的側面を一気に浮かび上がらせる。アナキストが「国家の死滅」を未来指向の非常に長い射程でしばしば語るのは、距離を保って遥か彼方の無限遠点から現在を射影するアナキズムの思想的立場に由来している。その「否定の論理」のラディカルさ、根源的に否定的であることの爆発的な強さが「アナキズム」の何よりの長所であり魅力といえる。

だが他方で「アナキズム」は、遥かに離れた無限遠点から現在状況を射影するため、現実対象との細かな距離感が捉えられない。現状否定や闘争の直接行動への衝動は強いが、対象との間合いを詰めず距離が測れず、ゆえに爆発的「否定の論理」のみで変革のための合理的筋道の理論が伴わない「アナキズム」は政治理論として常に破綻し続ける。

例えば「アナキズム」の一形態として、資本主義社会下における労働組合主義(サンディカリズム)と結び付いた「アナルコ・サンディカリズム(無政府主義的な闘争的労働組合運動)」というのがある。アナルコ・サンディカリズムは、労働条件の当面の改善要求のみならず、進んで賃金制度や労使関係そのものの廃止まで追求するラディカリズム(過激主義・急進主義)の内実を持つ。そのためのアナルコ・サンディカリズムの闘争手段は、経済行動・直接行動主義(ボイコット、サボタージュ、ストライキなど)であり、かつ政党による政治運動を排撃して反議会主義の方針をとる。

確かに、そこにはアナルコ・サンディカリズムにおける、民主主義的社会形態による労働者囲い込みのイデオロギー的欺瞞に対する十分過ぎる程の透徹した不信の警戒があるわけだが、そうしたアナルコ・サンディカリズムが「アナキズム」の一変種であるがゆえに、単なる過激で無軌道な暴力礼賛、何の理論的裏付けもない、ただの騒乱喧騒に終始する集団的堕落の危険性は常にある。実のところ、それは、そもそも「アナキズム」自体が何ら理論的に詰められていない無理論で無原則な一種の空想主義でしかなく、「反権力で反国家」というポーズをとるだけの極めて漠然とした、根本において感性的な個人の自由の絶対化を脱しきれていない可能性の疑いと表裏をなしている。このことは「アナキズム」が時に不遜(ふそん)な話し言葉や文章で感性的に威勢よく語られ(あたかも本作たる岩波新書「アナキズム」のように)、奇抜なポーズや過激な集団行動を伴なって特に若者の間で一種の「思想ファッション」として「アナキズム」が流行利用される社会現象に暗に裏打ちされている。

岩波新書の赤、栗原康「アナキズム」を始めとして、いわゆる「アナキズム」関連の書籍を読む際には以上のことを最低限押さえておくことが望ましいと思える。

最後に栗原康「アナキズム」に関し、岩波新書編集部が出している公式の紹介文を載せておく。

「火のついた猿,火のついた猿になれ!どんな支配もいらない。はじめから、やっちゃいけないことなんてない。書いちゃいけないこともない。何ものにも縛られるな。目的にも、自由にも、アナキズムにも縛られるな。歌い、叫ぶ、アナキストの精神。根源的な問いと最新の知見が、アナーキーな文体で炸裂する。合理性の錯乱へようこそ」