アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(199)滝浦静雄「時間」

西洋哲学史において、存在論と認識論とは昔から主な理論支柱をなしてきた。そもそも「事物や世界が存在するとは、どういうことなのか」その意味を突き詰めると、人間主体の外部に分離独立して事物が先天的に存在している素朴実在論ではなくて、物事が存在するのは、あくまでも人から認識されて在(あ)る、主体との関係性においてであり、存在認識する人間主体なくしては物事も世界もそれ自体では孤立先天的に存在し得ない了解にやがては至る。

つまりは「存在するとは、どういった人間の認識機制に従って物事が在ることになるのか」を見定めることに他ならず、人との認識の関係性にて存在が捉え直されることからして、西洋哲学史において「存在論の難問は必然的に認識論の難問へ」と移項するのであった。例えば近代哲学をして、「従来哲学の存在論は、真に存在する事物とは何かの究極の存在根源たる『存在する物』を追究してきたけれども、近代以後、西洋哲学は真に存在する物事探究たる存在論ではなくて、人間にとって物事や世界が『存在すること』の意味についての存在論へと深められていった」云々の哲学教科書的言辞は、「世界存在の難問は必然的に人間認識のそれへと移項する」西洋哲学史の展開をうまく言い当てている。

そうした「物事が在ること」に関する存在論かつ認識論にて、時間の存在を掘り下げて考えることは誠に有益である。よく哲学の教科書では私の目の前にある1個のリンゴやコップをして、事物の存在認識を説明したりするけれども、誰にとっても常に存在し、絶えず意識してある時間についての思索を通して物事の存在機制を原理的に解明できれば、その他、時間以外の、いま私の目の前にある1個のリンゴも私とは異質な他者の存在も根源的に理解できるようになるに違いない。一見、観念的で実体がないように思える時間も、意思を持たない無機物であるリンゴも意思をもち人格がある他者の人間も、私の目前に在ること、もしくは直接に眼前になくても思念できる限りにおいて、存在の原理は普遍同一なあり方でそれらは等しく存在するのだから。何よりも哲学的に考察されるべきは時間の存在に関する思索、いわゆる「時間論」であるのだ。

岩波新書の青、滝浦静雄「時間」(1976年)は比較的昔の新書の時間論で、本書は以前に大学入試センター試験・現代文の問題に採用されたこともあり、哲学的時間論の古典の名著だと私には思えるけれど、近年ではそこまで広く読まれてはいないようである。近年の時間論の人気の書籍は、例えば講談社現代新書の入木二基義「時間は実在するか」(2002年)であり、滝浦「時間」よりは、入木二「時間は実在するか」の方がよく読まれているらしい。だが、私は昔から岩波新書も滝浦静雄その人も両方ともに好きなので以下、岩波新書の滝浦静雄「時間」について述べてみる。

そもそも時間に関しては三つの位相がある。まずは日常生活の中での実用指標の目印と量としての時間、例えば時間割だとか暦(カレンダー)だとか労働賃金の時給換算の目安になるような時間である。次に過去の時間について、起こった事柄を一般的に整理し記録する歴史としての時間がある。この歴史として確立された時間を「時間の地図化」などと言ったりする。そして最後に、人間主体にとって存在して在る哲学的考察対象としての時間がある。

哲学的考察対象としての時間は、最初の実用指標の目印と量としての時間とは明確に異なる。目印と量としての時間は、日常生活の決まり事の指標であるがゆえに誰にとっても均一で、例えば「就業時間の午前8時」は皆に等しく同時刻の同じ瞬間であるし、「1時間は60分の長さ」は誰にとっても同様である。だが、哲学的時間は、個人によって時間の流れの遅速も内容密度の濃淡も人それぞれで、個々の時間存在のあり様が違う。ある特定日付の同じ時刻の1時間や1分間であっても、他の人とは異なり、私にとってそれか実時間以上に非常に濃密に長く感じられ、印象に残り後々いつまで経っても忘れられない運命的な時間というものもある。つまりは、それこそが哲学的時間である。歴史的時間のように、ある特定の過去の時間(つまりは時代)をして、「××の時代には××の歴史的出来事があった」など、いわゆる過去の時間を地図化し皆が共有できるような自明な時間ではない。個人により様相が相違し各々に在ったことが様々に思い返されて瞬間が刻まれ実感されるのが哲学的考察対象の時間の存在である。

滝浦静雄「時間」は、サブタイトルが「その哲学的考察」になっている。おそらくは滝浦も時間の三位相区分(実用指標の時間、歴史的時間、哲学的時間)を踏まえた上で、「本書は哲学的考察の時間についてのもの」としているに違いない。

滝浦「時間」に限らず、哲学的時間論は一般に難しい。もはやいうまでもなく、時間はある意味、観念的で実体の捉えどころがないからだ。滝浦静雄「時間」では論述前半から、まず古代ギリシアのアリストテレスの、自然界生物の生老死の生命循環サイクルに類似(アナロジー)させたポリス的時間の観念、中世ヨーロッパの原罪観の終末論に引き付けた直線的で不可逆な終りがあるキリスト教的時間の観念、それから近世啓蒙時代の、独立性・均一性・無矛盾性・現実性を有するという物理学の前提としてあるニュートンの絶対的時間を、それぞれ概観する。これらは形而上学的で人間に不可知なイデアに由来するものであれ、人間の信仰では思い至らない全知全能な世界主宰の超越の神の提示であれ、人間理性により自然界対象に普遍的に内在することを確認できる絶対的基準であっても、何らかの実在を伴って流れる確固たる時間存在の想定である。

その上で論述後半にて、フッサールの現象学的時間論やメルロー=ポンティの身体論的時間を展開させ、前述のアリストテレスやキリスト教やニュートンが志向し構築した実在として確固として在ると考えられてきた時間(論)を徹底的に解体する。これまで書き出しから実在的な時間存在を支持する西洋哲学の時間論の伝統を丁寧に解説論述してきたのに、中途の後半から急に態度が変わって、それら丹念に解説してきたヨーロッパの伝統的時間論をフッサールらを使って一気に解体させる、いうなれば、構造積木をせっせと勤勉に今まで積み重ねてきて、しかし次の瞬間には何のためらいもなく、机上の大切な積木の構造物をガラガラと一気呵成(いっきかせい)に威勢よく打ち壊すような論述魅力の爽快感が本新書には確かにあるのだ。

すなわち、最終章「意味としての時間と身体」にて「フッサールの現象学的時間論の含蓄(がんちく)」に引き付けて、滝浦は以下のように結論づけるのであった。

「時間はあるものではなく、われわれの経験の意味として語り出されるものである。われわれは、実在の出来事に触発されて、受動的に時間の言葉を語り出すのである。…そうだとしてみれば、継起し、流れるのは、時間そのものではなく、時間の言葉で捉えられた物の現出と、時間の言葉を語るわれわれだけだ、と言わなければならないであろう。時間は、未来の時がしだいに今になり、その今が過去に消えていくといった意味では、経過したり流れたりするものではありえない。ただ、物だけが不在から現出へ、そして再び不在へと推移しうるだけであり、そして時間は、そうした出来事を最も一般的に捉えようとするわれわれの意味なのである。そして、そのような解釈を許すところに、フッサールの現象学的時間論の含蓄があるように思われる」(「第7章・意味としての時間と身体」)

究極的にいって、客観的で外在化された先天的に流れる絶対的時間など存在しない。時間の実在などない。時間は非実在である。本書においては「時間とは(人間)主観の働きによって構成された意味である」という。私達の目の前にあるのは「ただ、物だけが不在から現出へ、そして再び不在へと推移しうるだけであり、そして時間は、そうした出来事を最も一般的に捉えようとするわれわれの意味なのである」。ただ眼前に広がる世界の物事の不在や現出の絶え間のない変化に、私たちが意味解釈を与えて了解したとき、その瞬間に「時間が生成されて存在する」と言ったところか。つまりは「時間はあるものではなく、われわれの経験の意味として語り出されるものである」と。滝浦静雄「時間」での、とりあえずの時間の存在についての結論は冒頭にて述べた「世界存在の難問は必然的に人間認識の難問へと移項する」の、存在論から認識論への流れの西洋哲学史の展開にうまく対応している。

このように「時間とは、あるものではなく、われわれの経験の意味として語り出されるもの」であるのだから、日々の雑事の中で充実感なく、毎日それとなく足早に時間が過ぎ去って行って後には何も残らないなど、人生の生きる時間の虚(むな)しさをもしあなたが感じているなら、その都度、無為に流れそうになる時間に私の主体が解釈を加え私から意味を与えて、実際に「時間を生成し」結果、自身にとっての哲学的な内実のある濃密な時間を存在させてやればよい。そのためには、とりあえずは自分を取り巻く世界の今の時間を強烈に意識して「1、2、3」と時間をカウントしろ(数えろ)。足早に無味乾燥に過ぎ去ったように思われる自身にとっての過去の時間を観察記録してノートやメモに詳細に残せ。そうすれば「時間は生成され、私にとっての時間は存在する」。

さらに滝浦静雄「時間」にての最大の読み所は、何といってもマクタガートの時間論、いわゆるABCの三系列理論(「過去・現在・未来」の時間的変化のA系列と、「前・後」の時間的な順序関係のB系列と、無時間的な順序のC系列)であろう。哲学的時間論にて、マクタガート「時間の非実在性」(1908年)での三系列理論を知らないならモグリと思われる程の有名な時間論の考察理論である。不覚にも私はマクタガートのことを長い間知らなくて、岩波新書の滝浦静雄「時間」を以前に読んで初めて知った。本新書ではマクタガートの三系列の説明と、それに対する後日のビーリやラッセルらの批判が紹介されている。マクタガートの時間論は相当に理屈っぽく一般的な時間観念の矛盾を執拗にあぶり出す議論で、根気よく精読しなければ、なかなか真に理解できない感がある。

その他、本書にて触れらているハイデッガーの「死の先駆性」の哲学やベルクソンの「純粋持続」の概念も人間にとっての時間の存在、すなわち時間論の哲学を考える上で大いに参考になる。