岩波新書の青、木田元(きだ・げん)「現象学」(1970年)は広く読まれている有名な名著ではあるが、本書に対し「タイトルに偽(いつわ)りあり」という思いが、昔は私は拭(ぬぐ)えなかった。本新書のタイトルは「現象学」であるけれど、書籍の全体で現象学の創唱者であるフッサールだけについて述べたものではない。全6章からなるが、最初の3章でフッサールを、次の1章でハイデッガーを、その次の1章でサルトルを、さらに次の1章でメルロー=ポンティを、というようにフッサールの現象学を始めとする、ヨーロッパの近代哲学の最後の方と現代思想の最初の方とを大きく概観するような新書である。
特にフッサールに関しては最初の3章のみで、たかだが70ページ程の紙数でフッサールの現象学の詳細(「志向性」「判断中止(エポケー)」「現象学的還元」「生活世界」などの主要概念)が読者に伝わるかの危惧はある。またハイデッガーやサルトルを「現象学」として、まとめて論じてよいかの疑義も私にはあった。フッサールの現象学に関しては、これまで日本でも幾度かの「現象学ブーム」があったと思える。岩波新書「現象学」刊行時の1970年代には、現象学専攻の哲学研究者はいたものの、まだ世間一般の読者の間で現象学理解の機が熟しておらず、「フッサールの現象学のみで一冊の新書を書き抜くには時期尚早」の判断が著者ないしは当時の編集部にあったのでは、と推察される。もっとも本書を読むと著者の木田元からすれば、フッサールやハイデッガーやサルトルらに見られる共通した認識思考態度を抽出し「現象学」的方法論として確立させて、その立場から哲学のみならず、現代の諸科学学問に現象学の成果を生かしたい強い思いがあるようだが(この点については本書の「終章・何のための現象学か」を精読されたい)。
そういった意味からして、かつて木田元が「現象学」というフッサールに徹しきれない雑多な概観哲学の岩波新書を1970年代に出した後、1990年代に同じく岩波新書から木田が「ハイデガーの思想」(1993年)という今度はハイデッガーにのみ集中・特化した新書を出したことは誠に意義深い。木田の「現象学」から20年以上経ち、比較的難解とされるハイデッガー哲学に関しての単新書であっても広く手にとって読まれる、そうした哲学や現代思想に対する世間一般の人々の興味と意欲が増してきた社会の成熟を裏付けるものともいえる。
それにしても常々私が感心するのは、「現象学」を執筆した木田元の世上での人気ぶりだ。木田はかなりの数の書籍を出している。この人は自身のファンである潜在的読者を相当数抱えているに相違ない。「木田元の新刊が出たら、とりあえずは購入して読む」ような一般ファンの読者を。
木田元は、東北大学文学部哲学科の三宅剛一の門下であり、同じく三宅の指導を受けた同門の兄弟弟子に滝浦静雄がいた。滝浦の方が大学入学が早く、後に編入してきた木田の先輩に当たるが、木田と滝浦は一つ違いで二人は年齢も近い。木田元と滝浦静雄はフッサール、ハイデッガー、メルロー=ポンティと専攻が重なっている。三宅剛一の門下から木田元と滝浦静雄の二人の優秀な哲学(研究)者が同時期に出たというのは驚くべきことである。さらには三宅剛一の門下には新田義弘もいた。三宅は戦後日本を代表する哲学者、木田と滝浦と新田の少なくとも優秀な三人の現象学者を輩出したことになる。
木田元は一般にも人気で木田の著作は広く読まれているが他方、滝浦静雄の書籍は、あまり読まれていない印象があり、「哲学的な力量は同等なのに世上人気の木田と比べて滝浦がいかにも気の毒だ」といった思いが私には昔からあった。「木田の書籍は、特に私が読まなくても他の大勢の読者が読むだろうから、私は滝浦の書籍を集中して連続的に読んでみよう」とするような判官贔屓(ほうがんびいき・「弱者や目立たない者に同情し応援したくなる感情」のこと)の心持ちが一時期、私のなかにあったのだ。
岩波新書の青、木田元「現象学」に対し、「タイトルが『現象学』なのに、現象学創始のフッサールに少しだけしか触れられていない」の不満が昔は正直あったが、よくよく読み返してみるとフッサールの現象学にとどまらない、ハイデッガーやサルトルやメルロー=ポンティらの哲学にも多彩に触れていて、ヨーロッパの思想界が「近代哲学から現代思想へ」と移行する際の過渡の時代の哲学的雰囲気のようなものが本新書から全体的に感ぜられ、「それなりの良書だ」と好感を持って後に私は思い直すようになった。
「現象学は今日、哲学のみならず、人文・社会科学に広く影響を及ぼし、一つの大きな潮流をかたちづくっている。本書は、現象学をフッサール、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティといった哲学者の思想の展開のうちに生きた知的運動として位置づけ、『われわれにとって現象学はいかなる意味をもつか』を明らかにする」(表紙カバー裏解説)