アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(201)小田実「『民』の論理『軍』の論理」

岩波新書の黄、小田実「『民』の論理『軍の』論理」(1978年)は、「民の論理の基本の態度」たる、過去の悲惨(広島・長崎への原爆投下やベトナム戦争など)に学んで非人間的なやり方ではなく人間的やり方で問題を解くことと、問題をできるだけ人々全体に行き渡らせ共有して、価値の多様性という民主主義の基本を大切にして問題を解くこととを旨とする「民」の論理を「軍」の論理に対置させ、「軍」の論理を徹底して批判し尽くす主旨の新書だ。

「軍」の論理の本質は国家である。現代の国際政治の常識からして、余程にこじれた紛争地域でない限り、殺戮(さつりく)兵器の武力は国家権力により独占的に一元管理されている。現代の国際政治において戦争推進の主体は紛(まぎ)れもなく国家であるのだ。特定の私的集団や国民個人が武器を所有し他国や他者を攻撃したり傷つけたりすれば、それは国家により罰せられるのであって、私的集団や個人が直接的に「軍」の論理を体現することは原則的にいって現代社会ではあり得ない。そのため「軍」の論理に批判的である「民」の論理は、必然的に国家主義に批判的な対抗言説となる。

そうして何といっても、本新書の出色(しゅっしょく)は「軍」の論理の鮮(あざ)やかな公式化にある。すなわち、小田実が本書の中で指摘して批判する「軍」の論理とは、

「軍」の論理=「文明、正義+正規軍+工業生産力(科学技術)+官僚機構=国家=勝利=善=進歩」

この公式の読み方はこうだ。おおよそ国家を経て体現される「軍」の論理の内実は、「非文明」で「野蛮」な他者(他民族や他国)を制圧するような、ある種の「文明」を有し、自分(たち)こそが「正義」の体現独占者であることを標榜して「軍」の論理の現実的手段たる「正規軍」の軍隊と、その軍事科学兵器を支える「工業生産力(科学技術)」を国家は特権的・独占的に持つ。さらに「官僚機構」という強大な組織(システム)に支えられた「国家」は、諸外国や国内の反国家運動への力の制圧を以て自らの「勝利」とし、それこそが倫理的価値の「善」と認定して国家の社会の世界の歴史の「進歩」であると無理矢理に強引に言い張る。小田実によれば、こうした内実を持つものが「民」の論理を抑圧する「軍」の論理に他ならない。

ところで戦後日本の左派の「進歩的」知識人に対し、「彼らは日本やアメリカの資本主義陣営の国家は徹底的に批判するけれども、旧ソ連や中国や北朝鮮の共産主義陣営の国家には評価が甘く肯定称賛に終始する」旨の、日本の右派や保守による批判が昔から根強くある。小田実は、そうした戦後日本の左派的知識人の典型として従前、批判に晒(さら)され続けてきた。だが小田も本新書を執筆時の1970年代後半には、さすがに自己修正を施し、本書にても中ソ論争における中国の「社会主義」の欺瞞を当時の日本の戦後「民主主義」の形骸化と共に、先の「軍」の論理の公式を利用して痛烈批判している。例えば以下のように。

「文明、正義+正規軍+工業生産力(科学技術)+官僚機構=国家=社会主義」「文明、正義+正規軍+工業生産力(科学技術)+官僚機構=国家=民主主義」

これら公式記述にて、最初の「文明」から中途の「国家」までの並びは「軍」の論理と同一であるのに末尾だけ「社会主義」と「民主主義」になってしまっている。中身は実質的に「軍」の論理だが、表看板のみ「社会主義」や「民主主義」に取り替えられている中国と日本の体制欺瞞に関する指摘を是非とも確認してもらいたい。特に「軍」の論理に支えられた「民主主義」という当時の日本に対する小田実の指摘と今日の2000年代以降の現代日本の状況とが、どれだけ違うと言えるだろうか。事実、今の日本の状況に「軍」の論理に支えられた「民主主義」国家を見出だすことは残念ながら容易である。

小田実「『民』の論理『軍』の論理」を読んでいると一部には引用説明あるが、その他ほとんどが他人の他著からの使用用語や創作概念の引用にもかかわらず、あたかも自身の独自(オリジナル)の思想記述であるかのような小田の書きぶりに正直、多少は失望する。例えば本文中にある「貧困な精神」「アメリカ合州国」「ヒロシマ、ナガサキ、アウシュビッツ」「草の根の民主主義」「横議・横行の精神」「恩恵的民主主義と恢復的民主主義」など、これらは小田実独自の思想形成ではなく氏が今まで読んできた諸本からの引用の寄せ集めであって、思想論にある程度は馴染(なじ)んだ人ならば、その「ネタ元」はおおよそ分かってしまう。

「何でも見てやろう」(1961年)のバックパッカーな若者の貧乏世界旅行と、「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」のベトナム戦争に対する反戦平和運動と、地域住民と連帯した反基地闘争と、在地の先住民族や少数民族の権利保障の運動と、国内在日の人々に対する言われなき差別・抑圧への反発と阪神・淡路大震災にて露呈した「人災」としての都市の乱開発に対する強い怒りなど、小田実という人は精密な理論構築の書斎の人ではなくて、どちらかといえば常に現場に出ていって行動し運動する実践の人であった。

しかしながら他方で、岩波新書での前著「世直しの倫理と論理」(1972年)から連続して見られるような小田の独自の文体、正式な論説文なのになぜか「です・ます」調の話し言葉で、ひらがな多く表記も「ドレイ」「テンノウ」「ケンキョ」などカタカナ混じりで終始軽く、講談調の話術のスタイルで読み手を圧倒する一方的に畳み掛け喋(しゃべ)り尽くすかのように自在に書く小田実の見事な独特の文体は、岩波新書「『民』の論理『軍』の論理」にての大きな特長であり、一つの読み所ではあると思う。