アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(372)笠原嘉「不安の病理」

常々、私は思っているのだが、「健康と病気」の明確な境目はそもそもない。「健康とはこういう状態で、かたや病気とはこういった状態」というような確固とした線引きの範疇(はんちゅう)や定義はないのである。特に精神疾患に関し、人は誰でも少なからず精神的病理の要素を有しているのであって、だがそのことで自身の心身の健康を害したり、他者や社会との付き合いに顕著な困難が生じたりすることがなければ一応は「健康」と見なしてよい。逆に人は誰でも少なからず精神的病理の要素を有しているなかで、その病理によって自身の心身の安定を極度に害したり、他者や社会との付き合いにて明確な困難が生じて当人が苦しむ場合には「病気」と見なし放置せず適切に対処した方がよい。つまりは「健康と病気」の相違は、実生活に差し支(つか)えの弊害が出るか否か実利的観点からの相対的判断に依(よ)るわけである。

例えば「不安神経症」という精神疾患がある。その概要はこうだ。

「不安神経症とは、日常生活のなかで根拠がない不安や心配を漠然と持ち続ける病気のこと。不安神経症は全般性不安障害とも呼ばれる疾患であり、『自分が病気になるのでは』『帰り道に交通事故に巻き込まれるのでは』など明確な根拠がないのに、絶えず不安や心配を感じてしまう状態をさす」

不安神経症は、何の根拠もないのに漠然とした不安を慢性的に感じる疾患である。しかしながら、どんな人でも少なからず皆、日常的に不安は感じるものであって、私なども健康であるにもかかわらず、理由もなく「もしかしたら自分はガンなのではないか」とか「家族が病気になってしまうのでは」の根拠のない心配や不安を感じてしまうことはある。だが、それは一時的なもので、やがては忘れてしまう。そして、また後にその種の心配・不安をふと思い出したりして、それから忘れるの繰り返しだ。ところが不安神経症の病気の場合、絶えず根拠のない深刻な心配・不安の感情的思いに苛(さいな)まれてしまう。結果、当人にとっての心身の不調(頭痛、吐き気、異常発汗、呼吸促迫、不眠など)と、他者や社会との付き合い上での弊害(ネガティブ志向で陰気、ヒステリーで攻撃的、躁鬱(そううつ)状態の連続などによる人との交際や社会活動の困難)が顕著に出てしまう。

つまりは、常日頃からの漠然とした根拠のない不安という精神的病理の要素を実際、人は誰でも少なからず有していて、逆に不安を全く感じないことは人としてほとんどあり得ないことなのであるが、ただその誰にでも広範に共通して見受けられる精神的病理の不安が肥大化し強烈化しすぎると当人の心身状態や社会生活に実害を及ぼすため、その時点で「不安神経症」の精神疾患と相対的に判断される仕組みであるのだ。

このことは、昨今よく話題にされる精神病理トピックの「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」にても同様である。もともとどんな人にも自己愛の精神的病理は少なからずあるのであって、そのこと自体、人間として極めて普通なことである。ただその自己愛の要素が肥大化し強烈化しすぎると、自身への過剰な自己愛ゆえに他者や社会との付き合い上での弊害が生じるので(例えば、行き過ぎた自己愛のため周りに自身への注目と賞賛を異常なまでに要求しすぎるとか、自分より優越している人にやたら敵意を燃やして攻撃的であるとか、あらゆる手段を尽くし他人を操作し利用して自分を崇拝してくれる人を周りにはべらしたがるなど)、その時に、はじめて彼は「自己愛性人格(パーソナリティ)障害」という精神疾患の病理にあると認定されるだけのことだ。

岩波新書の黄、笠原嘉(かさはら・よみし)「不安の病理」(1981年)も、この不安神経症の精神疾患について書いている。ただし著者は精神病理学専攻の精神科医であり専門家であるので、「人は誰でも少なからず精神的病理の要素を有しており、健康と病気の相違は実生活に差し支えの弊害が出るか否か実利的観点からの相対的判断に依る」などの私のように無責任なことは、さすがに言わない(笑)。逆に不安神経症において軽微な病気の兆候を見逃し、そのまま放置しておくと後に重篤化するから精神疾患の病気に対し関心を持って不断に注意・観察することの大切さを促す本書にてのアドバイスである。

確かに不安神経症は、専門医学的見地から、その発症には環境的な要因、遺伝的な要因、脳の機能的な要因などが複雑に関与すると指摘され、治療では不安をコントロールするために精神療法(カウンセリングによる認知治療、森田療法などの行動治療)や薬物療法(投薬治療)が一般的に行われる。そうして実際に不安神経症に苦しんでいる患者は、自身の中での不安心性の完全コントロールや不安そのものの軽減ないしは根絶を時に切実に志向する。

だが、何度も繰り返すように、そもそも人間は漠然とした根拠なき不安に時に心悩ませる不安の精神的病理を本来的に抱えた存在であり、不安をめぐる「健康と病気」の間の境目は実生活に差し支えの弊害が出るか否か実利的観点からの相対的判断に依るのであるから、当人の心の内の不安の病理要素を完全操作したり完全に取り除くことなど不可能である。そうした自己認識を持って、どんな人でも自分の中に少なからずの精神的病理の「病気」的なものが元々あることを冷静に認識することこそが、逆接めいた言い方ではあるが、精神的「健康」なあり方の第一歩となるのでは、という気が私はする。