民法学者の末川博といえば、元は京都大学にて教壇に立っていたが、戦時に京大の滝川幸辰(ゆきとき)「刑法読本」に発禁処分が出て思想弾圧事件となり、滝川の休職処分を受けて同僚教官らが抗議の意を示し京大法学部を去った、いわゆる「滝川事件」(1933年)の主要人物の一人であった。
滝川事件で京都大学の教授陣が退職し、その多くが後に立命館大学に移籍した。滝川事件にて京大を辞職した教授陣を立命館大学が受け入れる形であり、そのことは戦時下の思想学問への弾圧に抗する立命館のリベラルな校風を広く世に知らしめた。滝川事件の際に京都大学を辞職した末川は、後に立命館大学に移籍し遂には京大に復学せず、戦後は立命館大学学長と総長を務めた。末川博といえば立命館学閥で関西法曹のイメージが強い。
岩波新書の青、末川博「法律」(1961年)は、憲法や民法や商法や刑法や民事訴訟法や刑事訴訟法の各論以前の法学に関する基礎的な事柄を一般の人に向け平易に語った新書だ。おそらくは法学部に入学したばかりの初学の新入生に「まずは本書を読んでレポート書いてこい」と指導するような、法学の基本の書といえるのではないか。それほどまでに本新書には「法律」についての初歩的な事柄が解説されている。例えば「法律と道徳の相違」「罪刑法定主義とは何か」など。
私は末川博の人柄が昔から好きだ。本書「法律」と同じく、岩波新書から末川博の自伝として「彼の歩んだ道」(1965年)が出ている。この人は自身を語るのが上手い。自分のことについて人前で話したり書いたりするとなると、下手な人は自慢話や苦労話の自己肯定や称賛が主なつまらない「自分語り」になるか、逆に妙に謙遜したり自虐が入ったりする陰気で弾まない話になってしまいがちだ。人前で自分を語ることは実のところ難しい。このことは自伝や回顧録の書き物で滅多に傑作に出会えない事情に裏打ちされている。あまりに自信をもって自分を語るとイヤミな自己宣伝になるし、かといって控えめに自己を抑えて語られると面白くないし、その辺りの配慮の案配(あんばい)が意外と難しいのである。
以下は、末川博「法律」にての「まえがき」の書き出しである。
「法律というものは、これについて知るにしても学ぶにしてもまた語るにしても、そんなに面白いものではない。…ところが、私は、この面白くもない法律のことを学びかつ語って、この生涯を過ごしてきた。そしてそれを、白髪を加えることの多い今日まで、悔いたことがない。私には、別だんとこれといった才能も素質もなく、また法律が好きで好きでたまらないというほどのものもなかったのだから、いわば偶然に選んで学ぶことになった法律を相手に一生を過ごす羽目になったというほかはない」
末川博は絶妙である。「私は、この面白くもない法律のことを学びかつ語って、この生涯を過ごしてきた」とか、「私には、別だんとこれといった才能も素質もなく、また法律が好きで好きでたまらないというほどのものもなかった」など、法科そのものや自身を軽く落としても、そこまで鼻をつく陰気な自虐にならない。また私たち読者は滝川事件の一連の経過と事件の顛末(てんまつ)の、法研究を通してのかつて末川が置かれた困難な状況を当然、知っている。だからこそ、末川が軽く語るように「法律というものは、そんなに面白いものではない」と法学を軽く見なしたり下げたりする語りは氏の本心でないことも私達は知っている。これはこの人の話芸(テクニック)であって、本当は法学に熱意を持ち常に真摯(しんし)に向き合ってきたに違いない。
そうして「法律」をあえて軽く落とす軽妙な語りで始めながらも、「はしがき」の最後では、「虚偽をしりぞけ、不正不義をにくみ、人間を愛するがゆえに社会の邪悪とたたかうために、法律について知り学びまた語るということは、現代に生きるわれわれにとって大切なことではあるまいか」とする法律を社会正義と結びつける末川博の定番の文章に持っていって終わらせるのだから、やはりこの人は語り上手である。
末川の気さくな人柄をうかがい知ることができる岩波新書の青、末川博「法律」と共に岩波新書の末川「彼の歩んだ道」(1965年)も私は強く推薦する。