アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(168)島崎敏樹「生きるとは何か」

岩波新書の青、島崎敏樹「生きるとは何か」(1974年)を読むたび、私は連続して神谷美恵子「生きがいについて」(1966年)と「人間をみつめて」(1971年)も再読したくなってしまう。事実、本書にて島崎敏樹が記しているように、岩波新書「生きる意味」は以前に刊行された神谷「生きがいについて」に影響を受け、奮起されて島崎が後に執筆した書籍であった。

神谷美恵子「生きがいについて」の初版は1966年である。その頃、日本社会は敗戦の物質的貧窮の生活を多くの人が脱し、時代は高度経済成長のただ中にあった。確かに、まだ経済的に困窮して貧しい人達もいたが、以前と比べて明らかに多くの人々が相対的に物質的に豊かになり、衣食住の日々の生活に困らなくなると、今度は精神的な貧しさの問題、自己の存在意義や自身の心の充足や人間の生の意味を追求し渇望する、いわゆる「レゾンデートル問題」(存在価値問題)が湧(わ)き起こってきたのだ。俗にいう「生きがい」についての問題である。それは人間の「生きる意味」の豊かさを問うものであり、物質的に以前とは異なり繁栄した戦後の日本社会の時代背景に支えられて出てきた新たな難題(アポリア)である。そうした戦後の日本社会の人々の心の問題に対応する形で、神谷美恵子「生きがいについて」は1960年代に人々の耳目を集め、当時の社会にて広く読まれたのであった。「生きがいについて」を中心に愛読する神谷美恵子のファンはいつの時代にも多い。それだけ物質的豊かさではなくて精神的豊かさの「生きがい」を求める人々がいつの時代にも多くいて、レゾンデートル(存在価値問題)は人間の実存本質にとって、かなり重要な本源的課題であるといえる。神谷美恵子はいつの時代でも、当然ながら今日にても人気である。

岩波新書の島崎敏樹「生きるとは何か」は、そうした神谷美恵子「生きがいについて」の後継書として神谷の延長上にある同一な時代文脈を踏まえた上でレゾンデートル問題の観点から読まれなければいけないと思える。繰り返すまでもなく、著者の島崎その人が本論にて神谷の自身への強い影響を認めているのだから。以下は岩波新書の島崎敏樹「生きるとは何か」の表紙カバー裏解説である。その紹介文の中にも明確に「生きがい」という言葉があること、よって本書が神谷美恵子「生きがいについて」の後継書であることをまずは確認しておきたい。

「『生きがい』ということについてはこれまで多く論じられてきたが、この言葉の本来の重い意味が風化して薄らいでしまった。著者は精神医学者としての蘊蓄(うんちく)を傾けて、改めてこのテーマを問い、『ひとの生涯』にとっての生きることの意味を心のめざめ、居がい、生きがいという風に系統的に発掘してその正体を見届けようとする」(表紙カバー裏解説)

「生きるとは何か」を執筆した島崎敏樹は精神病理学者であり、本書上梓時の氏の肩書は東京医科歯科大学教授であった。「生きるとは何か」といったある意味、重い大袈裟な題名新書であるが、「生きるとは、つまりは××ということだ」の明確な定義や、「よりよく生きるためには××をやりなさい」の具体的提言のような、生きがいを見失って無気力の虚無に陥っている人々、よりよく充実して生きたいと思いその手がかりを模索している人達に対して、即効性のある効果覿面(こうかてきめん)な自己啓発的な功利的方法が本論中に記載されているわけでは決してない。

むしろ、本書は「生きるとは何か」について緩(おだ)やかに考えるヒント集のような書籍であるように私には思える。「居がい」や「行きがい」の著者独自の造語がある。著者の周りの人達や臨床の現場で接した人達やメディアを介して知り得た同時代の人々の悩み、困難、克服再生のエピソードが、それとなく幾つも書き入れられている。この各人エピソードから、何かしらの自分なりの「生きるとは何か」「自分にとっての生きがい」の手がかりをつかむことが出来れば、それで良いのではないか。

最後に岩波新書の青、島崎敏樹「生きるとは何か」を踏まえて、私なりに日々感じる「生きるとは何か」や「生きがいについて」に関する軽い提言を2つだけ述べさせて頂きたい。

(1)「生きるとは何か」や「生きがいについて」を問う際に有用性や功利性の思考を排すること。本書を読んでいると、また最近の特に若い世代の「生きる意味」問題の切実な悩みに接するにつけ、「私は誰からも必要とされていないがゆえの自己の存在意義のなさ」の「生きる意味」喪失の苦悩はよく耳にする。しかしながら「自分が何かの役に立つ」とか「自身が他者や社会から必要とされている」云々は、人間を何かの目的のために使える道具・手段と見なす有用性観点からの人間把握、自身に対する自己理解であって、それは健全な思考とはいえない。そもそも人間は何かのための手段として「目的─手段」の合理性で存在し生きているわけではない。人間存在そのものが、そのまま目的であって、容易に何らかの役割や手段に堕するものでは人間はないのだから「生きる意味」を問い、自身の実存本質を模索するレゾンデートル問題(存在価値問題)に関して「使える」や「役に立つ」観点からの有用性で考えてはいけない。

同様に自分の外部にある即物や事柄を「生きがい」と見なし、それに献身依存する生き方(仕事、財産、宗教、趣味、恋愛、家族などが「生きがい」であるとする)も、自身の存在価値の問題に「××のため」という「目的─手段」の合理性観点からの功利が入っているのでよくない。何かに献身依存して「生きがい」を見出だす合理化の生き方において、そのものを失ったり、ある時それへの無価値に気づいた人の破綻事例は岩波新書「生きるとは何か」にも多く掲載されてある。そこから私達は何かに献身依存して「生きがい」を見出す生き方の無意味さや弊害を、あらかじめ学び知っておくべきだ。

(2)「生きるとは何か」や「生きがいについて」を考える際には自身の心身の健康を保つことを何よりも第一に置くこと。「生きるとは何か」「生きがいについて」自身の存在価値問題を模索することはよいが、そのことで心身に不調をきたしてしまっては話にならない。前述のように「生きる意味」や「生きがい」の渇望思考に有用性や功利性が入ると「××でなければならない」(例えば「私は周りの人達から好かれ必要とされて社会に貢献して生きなければならない」とか「私は周囲の人達と協調し連帯して生きていかなければいけない」)の思いに強迫されて、時に自身の心身バランスを崩してしまう。同様に、何かに献身依存して「生きがい」を見出だす生き方も病的である。

もともと人間は自身が心の底から納得していなかったり、好きではなかったり、自分の身の丈に合っていなかったり、安心できないことや苦手なことは長時間に密度濃く継続して出来ないようにできている。人間とはそういうものである。だから「自分に合わないことはするな。出来るだけ怠惰でいろ。無気力であれ」とまではさすがに言わないが(笑)、自分の中にもう一人の自分を作って、自分がそうした心身ともに追い詰められる困難な状況に陥(おちい)らないよう前もって自身を避難させる知恵のようなものも「生きる意味」や「生きがい」の模索に際し考えておくべきだ。

もし「生きるとは何か」や「生きがいとは何か」と問われれば、逆説的な言い方になるが、自身の心身の健康を保つこと、例えばノイローゼ、ヒステリー、神経症、犯罪行為、アルコール依存、熱狂的な信仰、不平不満の吐露、感受性肥大の躁鬱(そううつ)、他者と社会に対する過度な他罰感情や攻撃性など、それら心身の不健康に陥らないこと。そうした困難状況を回避することこそが人間の「生きる意味」であり「生きがい」であるとあえて私は回答したい。