書籍は著者が書きたいものを書き、それを出版して世に問いたいから彼は本を執筆するのが常だが、時に著者よりも出版社や編集者の方に売れ筋狙いや時代状況を勘案して「こうした書籍を自社から出して是非世に問いたい」強い思いがまずあって、後に著者に執筆依頼を出して結果、書物が上梓される場合もある。その場合に、出版社や編集者がその書籍企画に大変に乗り気で内容や締め切りについて厳しく発注を出すが、肝心の引き受けての著者が実はそこまでやる気がなくて案外その本がグダグダになってしまう、完成した本を読んで半畳を入れ所の散々なお笑いの結果も時にある。
岩波新書の赤、網野善彦「日本社会の歴史」(1997年)は、そうした書籍の典型だ。本新書は上中下の全3冊で網野善彦が原始・古代から近現代まで日本の歴史を通史で、しかも独りで書き抜く体裁になっている。
下巻の巻末「むすびにかえて」を読むと、「原始・古代から近現代に至る概説を一人で執筆するなど到底、私には不可能であり、岩波書店から日本通史企画の執筆依頼があった当初、私は強く辞退した。だが編集部からの非常に強い要望でついには本新書企画の執筆を引き受け、しかも中途では岩波書店側から原稿締め切りの相当に厳しい期限催促があった」旨を網野善彦は本書の不出来への「あれこれと弁解じみたこと」として長く書いている。本新書は明らかに網野の手に余る日本通史の概説仕事であって、また完成した全3巻に対し執筆した当の網野が自身の仕事の出来栄えに満足していないことが「むすびにかえて」の巻末文章から窺(うかが)える。
岩波新書の網野善彦「日本社会の歴史」全3巻の概要はこうだ。
「現代日本人の日本国は、いかなる経緯をへて形成されたのか。周辺諸地域との海を通じた切り離しがたい関係のなかで、列島に展開した地域性豊かな社会、自律的に進展する社会と『国家』とのせめぎあいの歴史を『日本社会の歴史』として社会の側からとらえなおした通史」(表紙カバー裏解説)
「列島に展開した地域性豊かな社会、自律的に進展する社会と『国家』とのせめぎあいの歴史を『日本社会の歴史』として社会の側からとらえなおした通史」という文言からして、本書初版の1997年の社会状況から鑑(かんが)みて、これは当時世論を席巻していた「新しい歴史教科書をつくる会」(1996年結成)による「日本人なのに日本国の悪い歴史を強調し子ども達に教える」とする従来の歴史教科書を、いわゆる「日本悪玉史観」「自虐史観」として糾弾する、かの「新しい歴史教科書」運動に対抗しぶつける岩波書店による日本通史の歴史教科書的新書に他ならない。一国史に集中の「日本人としての誇り」注入の「国家」に対抗できるのは、地域の多様性の確保や国家支配の枠組みに必ずしも一元的に回収されない自律的な市民社会の「社会」である。ゆえに岩波新書「日本社会の歴史」は新しい歴史教科書をつくる会編 「国民の歴史」(1999年)への痛烈批判の対抗の書としてあるのだった。
もうこれは著者の網野善彦がもともと書きたいのではなくて、本当は網野自身は通史の「日本社会の歴史」の執筆にあまり乗り気でなく、むしろ岩波書店の方が強烈にやる気である。「新しい歴史教科書をつくる会」の「日本国民の歴史」への対抗批判で網野に「日本社会の歴史」を無理矢理に書かせて、それを岩波新書のラインナップとして早急に世に出したい岩波編集部の強い思いが何よりも先にあるのだ。だから、網野善彦の「むすびにかえて」に書かれてあるように、書籍タイトルは編集部からの強い提案で「日本社会の歴史」に途中で変えられてしまうし、網野は「どうしても中世史家の自分には専門外の日本近現代史の概説はかけない」旨を伝えたのに聞き入れられず、是が非でも近現代史まで書いて日本通史の体裁にしてもらいたい、つまりは原始・古代から近現代まで一気に書き抜く「つくる会」の歴史教科書の通史形式と同一な書籍にして、「日本国民の歴史」に対する「日本社会の歴史」の内容だけでなく歴史叙述の形態まで、どこまでも張り合い対抗させようとする。
しかも網野によれば、中途で岩波書店側から原稿締め切りで相当に厳しい期限を定められたという。岩波書店にとって「日本社会の歴史」は時事的かつ高度に政治的な書籍である出版事業認識であって、それを世に出すタイミングを最初から計(はか)っていたのである。本新書が「新しい歴史教科書をつくる会」に対する効果的な対抗批判の日本通史になるタイミングを逃さないように、実に周到なまでに。
私は網野善彦の網野史学のそこまで熱心なファンではないが、網野の著作はだいたい読んでいる。この人は中央の政局史だけに止(とど)まらない、アイヌや琉球ら周縁の地域史や、東アジア文化圏の東端に位置する日本の中国や朝鮮との交渉史への細かな歴史的視点を兼ね備えていた。この意味で網野史学は国家に寄与する一国史の歴史学を相対化して超える契機も、確かに持ち合わせてはいた。
だが、他方で網野は昔から一貫してマルクス主義史学の唯物史観に批判的であり、土地支配を介した古代の奴隷制、中世・近世の農奴制に対する異論、特に近世江戸の本百姓体制の農奴支配に関して、江戸時代には封建体制下でも裕福な豪農はいたし、「農奴の百姓」といっても実は農業従事者だけではなく漁業・海運事業者や林業に従事する者も多くいて、必ずしも土地に緊縛され抑圧された貧しい農民ばかりの江戸時代ではなかったとする。いわゆる「貧農史観」「暗黒の江戸史観」に、そうした異議を唱え昔から反発していた網野善彦は反共の唯物史観批判の点では、同様に従来主流の「貧農史観」「暗黒の江戸史観」をして自虐史観と厳しく断罪する「新しい歴史教科書をつくる会」の面々と同じ立場でもあったのだ。ゆえに「新しい歴史教科書をつくる会」の「日本国民の歴史」教科書運動にそこまで熱を持って反対する気はない網野が、それへの対抗馬と勝手に見初められ、岩波書店から「日本社会の歴史」の通史概説を書くよう協力要請させられる事態が、1990年代当時の本書初読時から私には滑稽(こっけい)で時に網野が非常に気の毒でもあり、岩波新書の網野「日本社会の歴史」を読んで爆笑せずにはいられなかった。
本新書は、まさに「出版社や編集者がその書籍企画に大変に乗り気で内容や締め切りについて厳しく発注を出すが、肝心の引き受けての著者が実はそこまでやる気がなくて案外その本がグダグダになってしまう、完成した本を読んで半畳を入れ所の散々なお笑い結果の書籍」の典型なのであった。
最後に岩波新書の赤、網野善彦「日本社会の歴史」全3巻を読んでの各巻読後の軽い感想を記しておく。
上巻は、日本列島の形成から平安時代初期までである。原始・古代の日本列島の海洋文化、周辺東アジア諸国との交流を重点的に描こうとする網野の筆の力点の力の入れ様は大変に評価できるが、その反面、古代日本の中央政局史など網野があまり重視していない通史事項に関し、標準的な高校教科書記載の丸写しのような凡庸記述も目立つ。上巻の原始・古代史は網野の力の入れようと手の抜きようの濃淡が明確に透けて見える所が多少、残念ではある。
中巻は、摂関政治から鎌倉幕府の崩壊までである。網野善彦は日本中世史専攻の歴史学者だけあって、中世時代の通史記述には、さすがに書き慣れており実に読みごたえがある。「第六章・古代日本国の変質と地域勢力の胎動」と「第七章・東国王権の出現と王朝文化の変貌」の各章は、日本中世の地域社会の活性と東国と西国の東西二分論の日本史理解に依拠した概説となっており、読んでかなり面白い通史になっている。
下巻は、南北朝の動乱から近現代の日本までである。全3冊のページ配分からして明白だが、近世江戸と明治以降の近現代がわずか70ページほどで強引にまとめられており、原始・古代と中世に比べて近世と近現代の通史記述が明らかに少ない。網野は近世江戸の儒学史や近代日本の立憲政治の仕組みや西洋の近代思想を(おそらくは)ほとんど知らないに違いない。それらトピックに触れずに近世と近現代の日本史概説を厳密にやるのは相当に困難だと思われる。何よりも「日本社会の歴史」というタイトルでありながら、時に国家と対立し、せめぎあう「社会」の近代日本の社会主義思想や社会主義者の人々に詳しく触れていないのは読んで苦笑である。私のような歴史学の素人読者がプロの歴史学者の網野善彦に対して、このように書くのも失礼ではあるが、「網野は所詮は中世史専攻の中世史家であって、この人は自身の専攻以外の日本近世や近現代の歴史に関しては、ほとんど知らないのだな」の残念な読後感が下巻には残る。