アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(359)大江志乃夫「統帥権」

日本近現代史専攻の歴史学者であり、なかでも軍事史に優れた業績を残した大江志乃夫の著作には「岩波新書三部作」とも呼ばれるべきものがある。岩波新書の「戒厳令」(1978年)と「徴兵制」(1981年)と「靖国神社」(1984年)である。だがしかし、今回は「岩波新書の書評」から外れて大江志乃夫の「岩波新書三部作」以外の大江「統帥権」(1983年)について、本書のスムーズな理解の補助となるよう「統帥権」に関する基本的な事柄を挙げてみる。

統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限(最高指揮権)のことをいう。法的根拠は、大日本帝国憲法第11条に定められていた天皇大権の一つであり、陸軍や海軍への統帥の権能を指す。その内容は陸海軍の組織と編制の制度、および勤務規則の設定、人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などの権能である。これらは陸軍では陸軍大臣と参謀総長に、海軍では海軍大臣と軍令部総長に委託され、各大臣は軍政権(軍に関する行政事務)を、陸軍参謀総長・海軍軍令部総長は軍令権(作戦・用兵に関する統帥事務)を担(にな)った。

統帥権の本来の意味は、天皇が軍事の専門家である参謀総長・軍令部総長に委託した戦略の決定や軍事作戦の立案や指揮命令をする軍令権をさす。帝国憲法下で天皇の権能は特に規定がなければ陸軍大臣と海軍大臣の各国務大臣が輔弼(ほひつ・天皇大権の施行に過誤がないよう天皇に進言をなすこと)することとなっていたが、それは帝国憲法に明記されておらず、また慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については国務大臣ではなく、統帥部(陸軍は参謀総長、海軍は軍令部総長)が補佐することとなっていた。

ここで軍政と軍令の二つの言葉が出てきた。この二つの事項は内容は類似しているが、「軍政軍令の分離」というように厳密には区別・分離して扱われるべきものである。そもそも絶対主義権力の下では絶対君主の機能のもと軍政と軍令は単一機関によって同一に専掌(せんしょう)されていたが、軍事の複雑化に伴い、また他方で近代の立憲政治にて軍事事項に対する議会からの干渉・関与を免(まぬが)れんために、近代軍隊において「軍政軍令の分離」の原則から軍政機関と軍令機関とは、それぞれ別個に機構された。

軍政とは軍事行政の略語で、軍事組織の運営に関する行政事務のことである。一般統治権に基づいて人民に命令強制し、例えば徴発や軍需工業動員などの負担を課する作用及び軍隊を管理する作用を意味する。軍政は人民に対する一般的な国務であるから、戦前の日本では内閣に属する陸軍大臣と海軍大臣が軍政指揮担当のトップとなる。他方、軍令とは、軍事についての実際の作戦・用兵に関する統帥事務、及びこれに密接な関連のある事項(軍隊組織の教育訓練や紀律など)の指揮・統帥を指す。一般国務の軍政とは異なり、軍令は軍令府及び「帷幄(いあく)の府」、つまりは陸軍参謀総長と海軍軍令部総長によって政府を介することなく、天皇に直接に上奏が行われ、近代日本の戦前にて軍の統帥権である軍令は「統帥権の独立」により、立憲政治の例外をなしていた。

改めてまとめると以下のようになる。

軍政─軍に関する一般行政事務。陸軍大臣と海軍大臣が統轄。
軍令─作戦・用兵に関する統帥事務。陸軍参謀総長と海軍軍令部総長が指揮。

それぞれの概要をもさることながら、軍政と軍令の最大の相違は、軍政の「行政事務」の言葉と明らかに対照して、軍令が軍事についての実際の作戦・用兵に関する現場での軍事専門的な「統帥事務」であることから「統帥権独立」の原則により、軍令には帷幄上奏が認められていたことである。「帷幄上奏(いあくじょうしょう)」とは、統帥事項に関して参謀総長(陸軍)と軍令部総長(海軍)が直接天皇に上奏することである。戦前の近代日本では、政府から独立して単独で天皇に軍令事務を進言できる帷幄上奏が陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長に認められていた。帷幄上奏は「統帥権独立」の原則に政治的根拠を持っており、さらにその統帥権の独立は、前述のように大日本帝国憲法第11条「天皇は陸海軍を統帥す」で法的に保障されていた。

統帥権の独立に関し、これまで述べてきたように軍事は通常、軍政と軍令とに分離される。行政事務である軍政に関与できるのは内閣の一員である陸軍大臣と海軍大臣の各国務大臣であり、統帥事務である軍務の指揮をとるのは陸軍参謀総長と海軍軍令部総長であるから、例えば陸軍にて軍政管轄の陸軍大臣が、作戦に関する実践実務の参謀総長が指揮権を有する軍令の統帥事項に干渉したり直接の作戦命令はできないのである。であるならば、この「軍政軍令の分離」原則からして、陸軍大臣は軍令事項には積極関与できないのに軍令の統帥に関して本来天皇に上奏できる参謀総長以外の軍政担当の陸軍大臣が、帷幄上奏の特権を行使することは「統帥権独立」の恣意的拡大解釈の濫用であり、明らかにおかしいことになる。

事実、大正時代の第二次西園寺公望内閣での2個師団増設問題(1912年)で陸軍大臣・上原勇作が陸相であるにもかかわらず、「統帥権の独立」をタテに帷幄上奏権を行使して陸相単独辞職のすえ、西園寺内閣が総辞職に追い込まれた第一次護憲運動の契機となった事例を私達は知っている。これら2個師団増設問題をめぐる上原陸相の帷幄上奏について、大江志乃夫「統帥権」でも厳しく批判されている。すなわち、「陸軍参謀総長の他に、行政長官で内閣の一員である陸軍大臣までもが帷幄上奏権を行使してしまうのは明らかな公式令違反に当たる。また内閣総理大臣を経由しないで単独で天皇に上奏し結果、陸軍大臣が単独辞職して内閣総辞職に至らしめたのは、『統帥権独立』の名のもとに純粋国務に属する陸軍大臣の軍政事項が、内閣総理大臣の輔弼責任の枠外に逸脱することを認めさせ、以後それを可能にした」の旨で大江志乃夫により痛烈批判されているのであった。

このような陸軍参謀本部ないしは海軍軍令部より本来なされるべき軍令事項の帷幄上奏が、軍政担当の内閣の一員である陸軍大臣の国務大臣から堂々と行われる「統帥権の独立」についての拡大解釈を経ての大々的な違反の根元は、大日本帝国憲法制定に伴って制定された「内閣管制」(1989年)が官報掲載の原典から一般普及の法令全書に書き写される際、条文のある文言がそのままそっくり削除されており、あたかも軍令事項の帷幄上奏権を軍政管轄の軍部大臣も行使できるよう読めてしまう(誰の手によるもかは不明だが)故意の改ざんが明白にあったとする大江「統帥権」での指摘(36─38ページ)は誠に興味深い。私は昔に大江「統帥権」を読んで、この条文削除の改ざんによる軍部の帷幄上奏の拡大解釈の問題を初めて知った時、さすがに驚いた。こうした条文改ざんという極めて初歩的でいい加減な小手先の操作で、一国の大事を左右する「統帥権の独立」の恣意的拡大解釈な運用の深刻な事態に至るとは、近代日本の軍事史の暗黒の深い闇を確かに覗いたような身の震える心持ちがしたのである。統帥権をめぐる近代日本の軍事史に関心興味のある方は、大江志乃夫「統帥権」の該当記述の箇所を是非とも参照されたい。

私は軍事史の研究者ではないし、日本を含む諸外国の軍事法制史にも明るくない。いわゆる「軍事マニア」や「ミリタリーおたく」でもない。だが軍隊に関する法規や組織的取り決めは特に近代以降、どの時代のどの国であっても軍事は人命や国防に関わる重大事項であるから、その法規や組織編成は、およそ機能的で合理的なものである。ゆえに軍事史には専門的な思考判断よりも素人の一般市民の常識で処して案外上手くスムーズに理解できる場合が多い。このことは自身の経験からしてそう思う。

統帥権に関して、確かに大日本帝国憲法第11条で「天皇は陸海軍を統帥す」と規定され、天皇は陸海軍を統帥する「大元帥」と一応はされているけれども、天皇は軍事には全くの素人で天皇自身が独力で個別に判断できず、作戦・用兵に関する軍令の統帥事項は専門知識と実務経験を持った軍人でなければ適切に判断・遂行できないのだから、実際は陸軍参謀本部と海軍軍令部から随時、天皇が報告・進言を受け、時に天皇からの質疑があって適切に事態を進める「統帥権独立」の原則は理にかなっており、機能的であり合理的である。だがしかし、厳密には軍令事項に関わりのない陸海軍省の大臣に過ぎず、かつ内閣の一員である軍人の陸海軍大臣だけが「統帥権独立」の原則を恣意的に拡大解釈し時の首相や帝国議会に優越して単独で自由に権力行使できることになると、もはや陸海軍が出した一国務大臣のその時々の意向で内閣はたちまち崩壊し、議会は即座に機能不全に陥ってしまう。戦前日本の立憲政治にて当時の内閣は「単独輔弼責任」(内閣は議会にではなく、総理大臣や天皇から個別に任命された国務大臣が天皇に対してのみ責任を負うこと)であるとしても、同時に国務大臣はどこまでも内閣の一員であり、「内閣総理大臣は各大臣の首班として機務を奏宣し」(内閣管制2条)の規定もあるのだから、一国務大臣の暴走のスタンドプレイで内閣そのものを倒閣させることは現実政治の運用観点からして明らかに非合理であり、到底許されないことである。だから戦前昭和の政党内閣はこの政治不備のために、内閣主宰の首相が陸海軍大臣の暴走を抑えるような非合理な協調を度々強いられた結果、内閣総理大臣その人が軍部大臣を制御(コントロール)できるよう、陸軍大将か海軍大将の軍人が首相となり組閣する軍国主義の方向へやがては必然的に傾いていった。

戦前の近代日本の憲政では、これまで繰り返し述べてきたように、軍令の統帥事項に軍政のそれを故意に繰り込み「統帥権の独立」の恣意的拡大解釈をタテに軍部が時の内閣や議会よりも超越し優越する独走がしばしば見られた。大正時代の第二次西園寺内閣での2個師団増設問題にての陸軍大臣の帷幄上奏権の行使で内閣退陣に至った問題以前に、明治の第二次山県有朋内閣にてすでに「軍部大臣現役武官制」(陸海軍大臣の任用資格を現役の大将・中将に限る制度。これにより陸海軍の支持を得られない限り陸海軍大臣の候補者を得ることが出来ず、軍部による組閣非協力や軍部大臣単独辞任で内閣が成立できない事態になった。1900年に成立。1913年には現役規定が削除されたが、1936年に復活した)が制定され、陸海軍は自分たちの気に入らない内閣の成立を合法的に阻止することが出来た。事実、軍部大臣現役武官制により「宇垣流産内閣」(1937年、元老からの首相指名で宇垣一成が組閣に当たったが、陸軍が反対して陸軍大臣を出さなかったため宇垣内閣が成立できず流れた)の事例があった。また昭和の初めには、ロンドン海軍緊縮条約をめぐり、条約批准した首相の浜口雄幸が民間右翼に襲撃され退陣を余儀なくされて後に命を落とす「統帥権干犯問題」(1930年、建艦・保有制限を定めたロンドン海軍軍縮条約の締結に際し、編制権に属する兵力の決定は内閣の輔弼事項であるとして条約批准した政府に対し、編制権にも統帥権が及び条約批准は海軍軍令部が有する統帥権の侵害に当たると海軍が抗議して、内閣と海軍とが対立した問題)も発生した。この時、首相の浜口雄幸を襲撃した右翼青年は後日の聴取で「浜口は陛下の統帥権を犯した、だからやった。何が悪い」と叫んだという。戦前昭和の初めには「統帥権の独立」は、暴力テロで殺人を犯す倒閣と首相暗殺を正当化する軍部や軍の取り巻きシンパの理論的根拠にさえなっていたのであった。「戦前の近代日本にての軍部の暴走を可能にし軍国主義の温床となったのは統帥権の独立である」旨で強く批判される所以(ゆえん)である。

そもそも統帥権の独立というのは近代日本にのみ見られる例外的現象ではない。それは近代にての軍事の複雑化と国民国家における政党政治の成立に伴い必然的に出てきた、諸外国にても共通に見られるものであった。戦前の近代日本にて「統帥権の独立」が自明なこととされ異常に幅を利かせてきた理由や背景は、先行研究にて各識者によりこれまで様々に指摘されてきたけれども、その中で私が特に重要だと思うものは以下の3つである。

(1)もともと軍事の近代化を経ての複雑化・専門化に伴い、軍政と軍令の二元的処理形態が取られたわけだが、軍令とは、組織人事と職務の決定、出兵と撤兵の命令、戦略の決定、軍事作戦の立案や指揮命令などに関することであり、現場での専門的事柄や機密を多分に含むため、軍令の統帥事項は政府や議会への報告や軍外部の組織から絶えずチェックされるようなものではない。たとえ「国民に開かれた民主的な軍隊」を標榜するとしても、前線現場での作戦遂行や指揮命令系統らの統帥事務を何でも政府や議会に明かしてしまう、つまりは統帥事務が国民一般に筒抜けでガラス張りの軍隊であるならば、そうした軍隊は何ら実際に機能しないのである。ゆえに「統帥権独立」の原則を立てて軍令に関する統帥事項は時の政府や議会には関与できない「独立」のものとして、ある程度、軍組織内にて内密に処理されなければならないという軍事上の合理的理由による。

(2)しかしながら、近代日本において歴代の帝国陸海軍が「統帥権の独立」をタテに一貫して幅を利かせ、時の内閣や帝国議会より優越する権力を持ち、やがては暴走していった近代日本の軍事史の流れを押さえるなら、かの「統帥権の独立」は軍部の特権行使や権力伸張の有効な手段として確信犯的に故意に不必要なまでに過剰に使われ過ぎたと見ることもできる。明治の最初の頃には、内閣の交代により、その都度軍事が政府や議会からの干渉を受け軍事政策が一貫せず連続しない弊害を避けるために「統帥権独立」の原則はあった。さらには「統帥権の独立」とは本来、軍が政治から干渉を受けないと同時に、軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないことを意味した。明治から昭和のある時期までは「政治と軍事」は内閣と軍部との間で互いに独立不干渉であり、その原則が守られていた。それまでの陸海軍は軍事専門の基本的には国政には不介入の立場を取る非政治的な組織であったのだ。だが時代を経るにつれ、やがて陸海軍が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝(どうかつ)をやり、時に五・一五事件(1932年)や二・二六事件(1936年)のような軍事クーデターまで起こし軍みずからが政治を動かして、軍部の本体が組織として急速に政治化していった。内閣と議会勢力を駆逐し、軍部がその政治権力化のための有効な手段として「統帥権の独立」を恣意的に拡大解釈し、果てしなく前面に押し出して次第にエスカレートしていった近代日本独自の事情があった。

(3)明治維新を経て成立した大日本帝国の近代天皇制国家は表向きは帝国憲法と帝国議会とを持つ「国民国家」であったが、実質の内実は「万世一系の神聖不可侵な」天皇が祖先から家産の国体を引き継いで統治する絶対主義国家であった。一般に絶対主義体制下にて常備軍の軍隊と官僚組織とは絶対君主が私的に所有する家産である。近代日本の天皇制国家においても、その絶対主義の考えから、軍隊は天皇私有のものであるとする「天皇の軍隊」の考えが自明なものとして根強くあった。つまりは戦前の日本において、大日本帝国は国民のために存在する国民国家ではないため、「文民統制」(シビリアンコントロール)といった、軍隊は公的国家や国民一般のために存在し機能するべきで、ゆえに民意を反映した内閣や議会ないしは文民(軍人以外の者)が軍隊をコントロールできるとする発想が当時の日本人に全くなかったのである。そうした軍に対する文民統制の発想欠如の問題も背景にあって、戦前の近代日本では軍隊は政府や帝国議会が関与できない独立のものとされ、天皇に直属する「天皇の軍隊」をどこまでも強引に押し進める「統帥権独立」の恣意的拡大解釈が成立しやすい状況にあったと考えられる。

以上の(1)から(3)の、戦前の近代日本にて「統帥権の独立」が自明なこととされ異常に幅を利かせてきた理由と背景についての重要な3つの内容を押さえ、かつこれまでの議論を総括すると、従来よくなされてきた「戦前の近代日本にての軍部の暴走を可能にし軍国主義の温床となったのは統帥権の独立である」の指摘は正確ではない。統帥権の独立それ自体には軍事上、ある程度の合理性や正当性は認められるものの、「軍政軍令の分離」原則を曖昧(あいまい)にして、厳密には軍令である統帥事項にどこまでも軍政を繰り込んで拡大解釈してきた帝国陸海軍に問題があるのであって、より厳密に正確に言って「戦前の近代日本にての軍部の暴走を可能にし軍国主義の温床となったのは統帥権の独立に関する軍部の恣意的な拡大解釈である」とするべきか。

ここまでかなりの駆け足で非常に大まかではあるが、統帥権の概要を述べてきた。以上の内容を踏まえ大江志乃夫「統帥権」の書籍に当たれば比較的スムーズに「統帥権」についての適切な理解が得られ、そこまで著者の本意から外れたひどい読みにはならないであろうとは思う。とはいえ統帥権について、ここでは触れることが出来なかった残された幾つもの論点や問題が未だ数多くあることを最後に書き添えておきたい。