(今回は、芦田愛菜「まなの本棚」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、芦田「まなの本棚」は岩波新書ではありません。)
先日、芦田愛菜「まなの本棚」(2019年)を読んだ。芦田愛菜は女優、タレントである。この人は幼少の時から子役で活躍している。「まなの本棚」を出版時は慶應義塾中等部に在学の中学生である。近年の「天皇陛下御即位をお祝いする国民祭典」(2019年)での彼女の祝辞や公的メディアでの発言・振る舞いを視聴して、周りの大人たち(御両親、マネージャー、現場スタッフ、事務所社長ら)も含めて「芦田愛菜、この人は相当にデキる人だ」の感慨を私は持った。「まなの本棚」は芦田愛菜によるおすすめ図書の紹介本であり、ブックレビュー、書評の内容になっている。本書の帯には次のようにある。
「『本との出逢いは人との出逢いと同じ』年間100冊以上も読み、本について語りだしたら止まらない芦田愛菜が『秘密の約100冊』をご紹介」
またこうもある。
「世代を超えて全ての人が手に取ってみたくなる 考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書」
こうした「考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書」というコピーからして、芦田愛菜に関心があったり好感を持ったりする人には、同世代のファンもさることながら、彼女と同年代の子どもや孫がいて「自分の身内にも芦田愛菜のようになってもらいたい。例えば彼女のように礼儀正しく聡明で本好きで、読書を通じて自然と考える力を身につけている」ような理想の中学生を望んでいる親御さん世代が多くいるに違いない。「芦田愛菜」という女優、タレントは、主にそういった好感度支持の像(イメージ)で人気で売れている人なのだと思う。そして「考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読の書」というようなコピーを考え帯に付している本書の編集者は、そうした「礼儀正しく聡明で本好きで、読書を通じて自然と考える力を身につけている理想的中学生」たる芦田の好感度人気の仕組みや売り方の方法をあらかじめよく知っている。ゆえに本書がより爆発的に売れるよう、「考える力をつけたい親御さんと子供たちにも必読」云々の「本書を読めば芦田愛菜のように考える力が身につく。ないしは自分の子供を考える力がつく教育方向に導ける」強調の自己啓発書的売り文句をわざと帯に表記している。周りの大人たちも含めて「芦田愛菜、この人は相当にデキる人だ」の率直な感想だ。さらには以下のような芦田愛菜の語りである。
「『愛菜ちゃん、何が欲しい?』と聞かれたら、小さい頃から、真っ先に『本が欲しい!』というほど、私は読書が好きな子供でした。ぬいぐるみやゲームで遊ぶのと同じ感覚で、私にとって本は、ずーっと遊んでいられる、おもちゃみたいな存在だったのかもしれません。『なんで、そんなに本が好きなの?』そう聞かれるたびに考えるのですが、きっといろんな理由がある中で、まず一つわかっていることは、ページに並んだ活字から自分の想像で物語の世界を作り上げていく楽しさです。…そしてもう一つ、私は『自分とは違う誰かの人生や心の中を知ること』に、すごく興味があるんだと思います」(「宝探しみたいに本の世界へ入っていきます」)
芦田愛菜の「私が本が好きな理由」は、「ページに並んだ活字から自分の想像で物語の世界を作り上げていく楽しさ」と「私は『自分とは違う誰かの人生や心の中を知ること』に、すごく興味があるから」の二つである。別に私はケチをつけるつもりはないが、「少しデキすぎている」とは思う。芦田愛菜の語りが優等生すぎる。異常に大人ウケが良すぎる(笑)。
私は以前に映画「日本の黒い夏・冤罪」(2001年)を鑑賞して、子役時代から活躍していた当作出演の遠野なぎこ(旧芸名・遠野凪子)に相当に感心したことがあった。遠野なぎこは同年代の女子学生と比べて非常にしっかりしている。立派である。むしろ優等生すぎる。後に成人して自身の子役時代の精神的苦悩や家庭内での不和を赤裸々に告白し、また芸能界での同業他者の醜聞や中傷話に奔放に参戦する遠野の「人としての壊れ方」を見て正直、驚いた。やはり幼少時から周囲の大人や社会に非常に気を使いすぎる「優等生的で異常に大人ウケが良い子ども」は当人の精神健康上よくないのではないか、の思いを持つ。幼少から10代までの若者は、本当は他者との協調や社会への参加の大切さなど分かっていても、逆張りでわざと露悪的に振る舞ってみたり、周囲の大人社会の事情は無視して「自分の見られ方」よりは自身の内的世界にひたすら浸りたい時期もあるわけで。そうした子どもの内的衝動をもし当人にそれがあるとするなら周囲の大人や社会は抑圧・阻害してはいけないように思う。
芦田愛菜「まなの本棚」を一読しての、山中伸弥(京都大学ips細胞研究所所長・教授)と辻村深月(作家)を対談に迎え、相手に気遣ってホストに徹する彼女の立派さ。本好きな友達との間で「芥川龍之介と太宰治、どっちが好き?」の議論によくなるといい、「どちらか好きかといえば、私は芥川龍之介派です!」「うーん、でも太宰のその面倒くさい感じも人間ぽくて、やっぱり気になっちゃうのかな…(笑い)」と太宰の全否定にならないよう「太宰治派」にも最後にさりげなく配慮を見せる彼女の周到さ。ソーシャルメディアの文法スラングで笑う所を「(笑)」とせずに「(笑い)」とあえて一貫表記して、昨今のネット上の軽い若者と自身を暗に画する彼女の慎重さ。繰り返しになるが「芦田愛菜、この人は相当にデキる人だ」の感慨である。
私は彼女とは世代も違うから愛読の書籍も違う。芦田がおすすめのローリング「ハリー・ポッター」シリーズを読んだことはないし、彼女がファンの辻村深月の小説も私は知らない。しかし、芦田愛菜が「おすすめの本」として挙げているものの中で既読であったり、同様に私も好きな書籍も数多くあった。
「まなの本棚84冊リスト」にある、例えば百田尚樹「永遠の0」(2006年)についての彼女の感想書評は上手いと思う。百田「永遠の0」は、一読「反戦平和を希求している」小説のように思えて、「最終的には一周まわって」の戦地への若者の特攻隊動員の感傷的な正当美化と顕彰の褒め称えの、右派・保守・歴史修正主義者による従来型のつまらない戦争小説だと私は思ったし、またマスコミやソーシャルメディアを通して繰り返す、左派論壇や在日外国人や近隣東アジア諸国に対する過激で敵対的な昨今の百田尚樹の言動を見るにつけ、この人は相当にインチキな人である。芦田による「永遠の0」への感想推薦文は、そうした百田尚樹のデタラメさにあえて触れず回避して無難に感想書評をまとめている所に、「ヤバい人とは積極的に関係を持たない。こちらが被害の損害を受けないよう適当に軽くいなして無難に相手する」大人の処世術を、彼女は若くしてすでに身に付けている。「芦田愛菜は聡明な人であり、実に立派だ」と私は感心した。
またドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズについての、芦田の以下のような感想に正直、私は参った。
「探偵小説も昔から大好きで、『シャーロック・ホームズ』シリーズは、小学校の図書館にそろっていて、何作品も読みました。ホームズとワトソンの信頼し合っている関係性がいいですよね。江戸川乱歩の『少年探偵団』に憧れるのと同じように、相棒や仲間と協力し合って謎を解いていくお話が好きです」
私も昔から探偵小説が好きでドイル「シャーロック・ホームズ」の諸作は繰り返し何度となく愛読してきたけれど、私の場合は「探偵小説における謎解きのトリック重視」の読みであり、芦田愛菜のように「ホームズとワトソンの信頼し合っている関係性がいいですよね」というような、「相棒や仲間と協力し合って謎を解いていくお話」の観点から今まで一度もホームズ作品を読んだことがなかったから。自分が既読や愛読の書籍に対して「他の人が読むとこういった異なる読み方、理解の仕方もあるのか!」と新たに気付かせてくれるところに、ブックレビューや書評の面白さが確実にある。