「ヒマラヤ」とは一つの特定の山に与えられた名称ではない。「ヒマラヤ」は中央アジアの高山をすべて包容する名称である。世界の屋根ともいうべき、この中央アジアに無数の高峰がそびえている。地球上、七千メートル以上の山はこの範囲の外にはない。世界の屋根、ヒマラヤは今も昔も人々の心をとらえて離さない。
岩波新書の青、深田久弥「ヒマラヤ登攀史(とうはんし)」(1969年)は、過去から現在へと続く人と山との壮絶な闘いの歴史を綴(つづ)った記録である。
ヒマラヤ登山の黎明期は1885年頃から始まり、最初の組織的な探検隊は1892年、イギリス王室地学協会のカラコルム学術遠征隊であった。その後も探検と試登が繰り返され、未知の山が探られた。ヒマラヤには多くの八千メートル峰が存在する。1950年、フランス隊がアンナブルナ登攀(とうはん)に成功し、最初のヒマラヤ八千メートル峰を制した。以後十四年間に八千メートル峰十四座が各国の登山隊によって全て登頂されたのみならず、七千メートル以上約六十座、それ以下の山に至っては数うる煩(はん)に堪(た)えないという。
本書「ヒマラヤ登攀史」は、人類最初の八千メートル征服のアンナブルナ(8078m)から世界最高峰のエヴェレスト(8848m)、カラコルムの偉峰のケー・トゥー(8611m)、ネパールの秘峰のダウラギリ(8172m)など高山別に各国の探検隊各人が山に挑んだ壮絶な闘いの記録が全14章にわたり続く。日本人の記録もある。第Ⅷ章の「日本登山史上の金字塔・マナスル」である。1952年から調査隊派遣をなし、幾度かの不成功の後、1956年「三度目の正直」を経て日本隊はマナスル(8125m)初登頂の栄冠を果たした。「日本登山史上の金字塔・マナスル」の章は、同じ日本人として読んで胸にくるものがある。しかし日本人の山頂アタックに関するこの章のみならず、本書はどの章から読みはじめても面白い。
それはひとえに著者・深田久弥の文筆の見事さによる。文体がしっかりしている。内容が間延びせず密度が濃(こ)い。文章全体に登山時の現場の緊張が漂っている。この人は自身が実際にパーティーに参加していないのに、まるで自分がその場にいたかのように書く(笑)。当然、後の登山記録、パーティー談話や個人の回想を詳細に調べて書いているに違いないが、やはり深田の書き方が上手いのだ。登山資格収得のための地元国・チベットやネパール政府との事前交渉、僧院や山岳部落での現地村人との協力や不和・妨害がまずはあった。登山に際し、隊員と通訳・シェルパ・ポーターとの雇用の兼ね合いの相性の問題もあった。そして登頂アタックに際して荒天の吹雪、烈風、嵐、突然の雪崩があった。
本書を読んでいると、ヒマラヤ山岳での人の死は実に多い。雪崩に呑み込まれる、クレヴァスにはまる、滑落する。遺体を下山させられない時は、その場で埋葬して故人を山に残す。寒さと酸素稀薄の影響での不調、肺炎による衰弱や凍傷による四肢指切断の山での負傷も多くある。偵察隊の派遣、登路の様子、ベースキャンプの設営と撤退など、各国登山隊の様子が事細かに記載されている。もちろん、ヒマラヤの美しい山々の描写や山頂制覇の痛快な記述も本書にはある。
名著や良書に関する書評は難しい。素晴らしい文章や記述箇所は多々あるが、それらを部分的に引用し紹介しても、なぜか白々しくなってしまう。本書「ヒマラヤ登攀史」に関しても同様だ。全14章の内、自分として特に好きな章や気に入った記述の場面はいくつかある。私は本新書は何度も繰り返し読んでいる。そうして毎回、実際に自身が山に入った心持ちになる。しかし、それら気に入った箇所をわざわざ引用し、ここで紹介してその良さを力説しても何だか空々しい気持ちになる。岩波新書の青、深田久弥「ヒマラヤ登攀史」をもし未読な方がおられたら、よかったら読んでみて下さい。
著者の深田久弥は、もともと文筆の人だ。だから「ヒマラヤ登攀史」でも文章が上手い。彼は小説を執筆し創作していたが、以前に北畠八穂とのこと(離婚と小説焼き直しの件)で小林秀雄や川端康成らから非難があり筆を折った。それから、しばらくして山岳随筆で文筆に復帰した。深田の「日本百名山」(1964年)は名著であり、山男の山に関する代表的文学として知られている。
深田は以前に文壇でトラブルがあって、おそらくは人間関係の人的交友に苦労を感じたに違いない。非常な困難を一時は抱えた。それから山に専心し自然と向き合い、彼はどういった景色を山の中で新たに見たのだろうか。深田久弥の山岳随筆を読んでいると、いつも私はそうした感慨を持つ。