岩波新書の青、家永三郎「革命思想の先駆者」(1955年)は副題が「植木枝盛の人と思想」である。「革命思想の先駆者」とは、著者の家永に言わせれば植木枝盛のことであった。後の家永三郎の仕事に「植木枝盛研究」(1960年)もある。まずは植木枝盛の概略を記しておこう。
「植木枝盛(1857─92年)は近代日本の思想家であり、自由民権運動の理論的指導者である。高知出身。藩校、致道館に学び、1873年には土佐藩、海南私塾の生徒として抜擢される。明治六年政変(征韓論政変)に触発されて上京を決意、19歳で上京し慶應義塾の『三田演説会』に頻繁に通い、明六社に参加し福沢諭吉に師事して学ぶ。自由民権運動に際して新聞雑誌に投書を始め、1876年『猿人君主』(郵便報知)が掲載され、讒謗律(ざんぼうりつ)による筆禍事件で2ヶ月入獄する。1877年、板垣退助に従って帰郷し書生となる。この頃より『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。1881年に私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。1882年、板垣の岐阜遭難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪、中江兆民、田口卯吉らと共に『自由新聞』社説を担当。
1886年、高知県会議員に当選。1888年、大阪に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと知り合う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属して大隈重信の条約改正問題を攻撃するために福沢諭吉、寺島宗則、副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による大隈重信爆殺未遂事件が起こったが条約案は葬り去られた。愛国公党設立に尽力し、1890年の帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1892年、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍(いかいよう)の悪化により36歳で死去」
このように植木枝盛の生涯を概観するだけで、植木と交流があった当時の思想家たちの顔ぶれに驚く。福沢諭吉、板垣退助、馬場辰猪、中江兆民、田口卯吉、幸徳秋水ら明治日本の非藩閥政府系、民権運動ないしは在野の思想家の一流の人達ばかりである。植木枝盛は旧土佐藩出身の民権運動の理論思想家として在野のエリートであった。彼は実に優秀であった。民権運動の理論家として頭が切れて筆が立ったし弁が冴(さ)えた。それだけに36歳での逝去は早すぎる。あまりにも早すぎて無念である。植木の急逝には、その突然の死から毒殺説もあるらしい。
さらに没後の植木枝盛研究に関しては、次のように概略できる。
「植木枝盛は自由民権運動当時は知名度が高かったが、早世したことでその後は忘れられた存在となる。憲法学者で法制史家の鈴木安蔵が1936年に高知県立図書館に保存されていた植木の文書類を調査し、その内容を新聞に発表した。これにより植木の業績に再び光が当てられることになった。鈴木は終戦後に民間の有識者で結成された憲法研究会に参加し、研究会が1945年に発表した『憲法草案要綱』では植木の憲法案を参考の一つとしたと証言している。戦後は主に家永三郎によって研究が進められた。岩波新書の家永『革命思想の先駆者』は植木の業績や生涯を世に広く知らしめ、後に刊行された家永三郎『植木枝盛研究』は、その後の植木研究の基礎文献となった」
家永三郎「植木枝盛研究」を始めとする論考を読んでの植木枝盛に対する私の基本理解はこうだ。植木の思想には三つの層があり、それらが抽象理論から具体的政策へと下降する形で極めて有機的に構成されている。まず、天賦人権論の自然権の理論がある。次に社会契約論の展開と抵抗権・革命権の発動要請がある。それから国会開設と憲法制定の政策要求がある。植木枝盛の思想根本には何よりも天賦人権論(自然権)の主張理論があり、その自然権の本源的防衛のために、おのずと社会契約論と抵抗権・革命権の実効的発動が要請され、さらにそれら理論実践のためには国会開設と憲法制定という現実政策の実現が要求される、という仕組みである。「天賦人権(自然権)─社会契約論と抵抗権・革命権─国会開設・憲法制定」の三つの層から周到に有機的に思想が整序構成されており、ゆえに植木枝盛は当時の自由民権運動を担う代表的な思想家であり、理論的な運動指導者であったわけである。
戦後の自由民権運動研究にて、しばしば指摘されるように、特に第二層にあたる植木起草の「東洋大日本国国憲按」に見られる「抵抗権・革命権」の主張がかなり明確であり、その理論的明瞭さが優れている。抵抗権・革命権とは、社会契約論に依拠して、政府が本来の役割を忘れて圧政を行ったりすることのないように、仮に政府が人民保護の使命契約に反し専制の抑圧を強いた場合、被治者たる人民の側から政府に対し抵抗し革命の政権転覆も厭(いと)わないとする対抗手段の理論的想定である。
植木枝盛のように明治の思想家で、ここまで明確に強く抵抗権・革命権を主張できた人はいない。西洋の政治理論に明るく、比較的開明派で「市民的自由主義者」といわれた同時代の福沢諭吉も森有礼も抵抗権・革命権の設定と行使の議論になると途端に歯切れが悪くなり急に保守的になる。そうした意味で、天賦人権論から抵抗権・革命権の主張に至る植木枝盛を始めとした中江兆民、馬場辰猪ら在野の民権思想家は輝いて見える。自由民権思想家の中でも植木枝盛は、時に中江や馬場を抜いて瞬間最大風速にて最も急進的(ラディカル)で強力な、家永三郎がいう所の「反権力的自由主義者」であり得た。
岩波新書「革命思想の先駆者」は前半が「その生涯」で植木枝盛の評伝になっており、後半が「その思想」で植木枝盛の思想研究になっている。当然、読み所は後半の思想研究のパートであり、植木の思想における天賦人権論、憲法と普選議会論、天皇制論、女性論、貧民論、対アジア認識、明治憲法と教育勅語への反応など、本書に書かれざる点も含めて植木枝盛に関し考察されるべきものは実に多い。
そのなかでも植木枝盛の思想の難点であり問題点として前から広く指摘され、本新書にても家永三郎が触れているが(159─165ページ)、女性論にて男尊女卑の風習排除や女性の社会的地位向上や廃娼論を主張しながらも、当の植木本人が花柳(かりゅう)の巷に出入りし連夜のごとく娼女と遊んで性的放蕩(ほうとう)を極めていた問題があった。「そうした性的放逸をなした植木に果たして男女の道徳を口にし廃娼を論ずる資格があるのか!?」の議論があったのだ。
ここにあるのは、公的討論や紙の上で論ずる思想と私的な実生活での行動との矛盾・乖離(かいり)の問題である。こうした特に女性の人格尊重の人権に絡(から)んだ公的な思想と私的な生活行動との矛盾の問題は、近代日本の思想家において常に存在した。植木枝盛の事例以外に、例えば自由民権運動を経て後に社会主義者さらには無政府主義者となり、人民の権利保障を強く訴え続けた植木と同郷の幸徳秋水にしても、彼も女遊びの性的放蕩を極め、見合い結婚後の新婚初夜に花嫁を袖(そで)にして花街に通い入り浸(びた)るのであった。また幸徳には結婚後の不倫問題もあり、幸徳秋水は人民の権利を主張しながら特に女性の権利の自覚意識に相当に問題を持つ人であった。
そういった思想家における公的な思想と私的な生活行動との矛盾の問題(発言思想と実生活行動との食い違い)に焦点を当てさせた点でも、植木枝盛研究は戦後の日本思想史研究の中で大きな画期であり、一定の成果を収めたといえる。