アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(245)原武史「平成の終焉」

「平成の終焉」は、天皇明仁(あきひと)による退位の意向表明にて始まった。2016年7月のNHKニュースにて第一報が流され、翌8月に天皇自身がテレビに出演しビデオメッセージとして「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」を読み上げた。その後、2019年4月の「退位礼正殿の儀」によって天皇明仁は退位し、翌5月の「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」にて新天皇徳仁(なるひと)が三種の神器のうちの剣と曲玉を引き継ぎ、新天皇に即位する。天皇明仁の退位が2019年4月30日でその日に「平成」は終焉し、翌5月1日の天皇徳仁の即位を以て「令和」へ改元となった。

岩波新書の赤、原武史「平成の終焉」(2019年)は、時代が「平成から令和へ」移り変わる改元直前の2019年3月に出された書籍であり、まことに時宜を得た(タイムリーな)企画の新書といえる。本書は天皇明仁と皇后美智子の人柄を良エピソードにて偲(しの)ぶ、ありし日の「平成」を回顧するような「皇室アルバム」的無難な皇室ジャーナリズムの新書ではない。本新書は確固とした学術書である。著者の原武史は日本政治思想史専攻の学者である。注目すべき氏の学術的業績に、近代天皇制についての理論的考察と、昭和天皇や大正天皇に関する具体的評伝仕事があった。

岩波新書「平成の終焉」の最初の読み所は、「『おことば』を読み解く」として「平成の終焉」の契機たる天皇明仁による退位の意向表明「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年8月)を全文掲載し全六節に分け要約した上で、著者の原武史が「おことば」の問題を6点に渡り指摘するその「読み解き」だ。原により指摘されている「おことば」の6つの問題点の概要をまとめると以下のようになる。

「問題点1・権力主体となる天皇」(今回の「平成の終焉」に際し、天皇の退位が天皇明仁自身の個人的意向から発せられ退位の事態に動いている。天皇退位の国民的関心の高まりや政府内と国会での事前の継続的議論なく、唐突ともいえる天皇個人の表明にて退位・改元がなされることで「天皇が権力主体」になってしまっている)

「問題点2・象徴の定義」(「おことば」では、天皇自身が「象徴天皇の務め」を国事行為以外の行為、具体的には宮中祭祀と行幸をその中核に位置付けた上で、「全身全霊をもって祭祀と行幸を履行できなくなりつつあること」を退位の主な理由に挙げている。しかしながら、宮中祭祀と行幸は国事行為と違って憲法に規定されていないし、皇室祭祀令のような法的根拠もない。宮中祭祀と行幸はあくまでも天皇個人の私的行為であって、必ずしも公的な「象徴天皇の務め」であるとはいえない。よって「象徴天皇の務めたる宮中祭祀と行幸とが全身全霊をもって履行できないから」という退位理由は象徴天皇の定義として合法的根拠を欠き、そもそも退位理由が正当なものではない)

「問題点3・自明でない民意」(「おことば」の中で天皇は「国民の安寧と幸せを祈ること」=宮中祭祀と、「人々の傍らにたち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」=行幸を大切な天皇の務めとしている。だが、国民というのは天皇から一方的に宮中で祈られたり、わざわざやって来て思われたりする客体ではないし、そもそも国民全体が天皇に祈ってほしいとか来てほしいと思っているかどうか、国民間の民意は必ずしも自明ではない)

「問題点4・矛盾する論理」(天皇明仁は、明治以降の終身在位に基づく皇室典範を改正し、退位を恒久制度化することで明治以後に強大化した天皇制の残滓(ざんし)を取り除き、天皇権力が小さかった江戸以前の伝統に立ち返ろうとしている。しかし他方で天皇明仁は明治以降に創始確立され、天皇権力強大化に絶大な役割を発揮した政治的行為である宮中祭祀と行幸とを「象徴天皇の務め」と理解し懸命に履行する。これは天皇権力の強大化と弱小化をめぐる「矛盾する論理」ではないか)

「問題点5・『国民』とは誰のことか」(天皇と皇后の行幸啓にて、訪問したり直に話しかけたりする「国民」があらかじめ分別されている。天皇明仁と皇后美智子は皇太子時代から様々な福祉施設を訪れてきたが、精神障がい者を収容する施設には訪れていない。また受刑者が収容された刑事施設も天皇と皇后が訪問することはない。ホームレスも「国民」には含まれていない。事実、2006年に天皇明仁と皇后美智子が上野日本学士院会館を訪れるのに際し、上野公園に住んでいたホームレスの一時的な強制排除を意図した公園管理所からの公的動きがあった。天皇や皇后の視界から特定の人々は常に排除されている。天皇が「おことば」にて述べる「寄り添うべき国民」とは一体誰のことか)

「問題点6・行幸に伴う警備や規制」(天皇と皇后が日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅を行うと、必然的に警備が強化され、交通規制や立ち入り規制がしかれる。往々にしてそれらは常軌を逸脱した過剰警備となり、別の意味で「おことば」に言うところの「国民の暮らしにも様々な影響が及ぶ」事態をすでに招来している)

以上、一読して分かると思うが、「平成の終焉」たる天皇の退位と改元が天皇明仁による「おことば」の個人的表明から唐突に端を発しているとする「問題点1・権力主体となる天皇」以外の、問題点2から6の全てが悉(ことごと)く天皇の私的行為である宮中祭祀と行幸啓のトピックに絡(から)んだ問題指摘になっている。思えば著者の原武史は、宮中祭祀と行幸啓の観点から近代天皇制について批判的に一貫して考察してきた研究者であった。本新書「平成の終焉」は、そうした原の近代天皇制に関してのこれまでの研究の内実に見事に見合っている。この「『おことば』を読み解く」章以外の「『平成』の胚胎」や「『平成』の完成」の各章も、宮中祭祀と行幸啓に対する天皇明仁と皇后美智子の取り組みを分析し、そこに前時代の「明治」や「昭和」とは異なる二人の独自の「平成流」の特色を見い出し論じるものだ。

原武史の近代天皇制についての研究書籍は多く出されている。なかでも原の仕事で外せないのは、多木浩二「天皇の肖像」(1988年)の仕事を正統的に引き継いだ、「見る・見られる」の視覚上位な近代の身体論を介した「権力の視覚化」問題、政治装置たる行幸啓を素材にした明治期の近代天皇制確立に関する「可視化された帝国」(2001年)と、「昭和天皇実録」を読み込んで生母・貞明皇后との宮中祭祀の主導権をめぐる皇族内での昭和天皇の争いを明らかにし、かつ祭祀の祈りの内容を戦前の好戦的な「戦勝祈願」から戦後の静かなる「平和の祈り」へガラリと巧妙に変え、しかし「神に祈る天皇像」はそのまま継続保持し戦後、皇族・侍従や世論からの戦争責任追及由来の退位論を見事に回避した昭和天皇に対する告発、岩波新書「昭和天皇」(2008年)であろう。これら二つの著作は原武史の近代天皇制に関する優れた研究として、何よりもまず読まれるべきものであると私は思う。ゆえに岩波新書「平成の終焉」と併読しておくことが望ましい。

原武史「平成の終焉」の「あとがき」を読むと分かる。天皇と皇后はともかく、宮内庁職員は宮中祭祀と行幸啓が暗に果たす政治的役割に批判的な原の近代天皇制研究を相当な「懸念」を持って日頃から、ある意味「熱心に」参照しているらしい。そのこと自体が私は非常に面白いと思う。

私は原武史ファンというわけではないが、彼の著作はだいたい読んでいる。原武史という人は「近代天皇制」の他にも「鉄道」や「団地」に興味関心を示し掘り下げて社会学的な歴史研究をなす人だ。ただこの人は物や事柄への興味関心は格別なものがあり、「天皇制」や「鉄道」や「団地」についての原の研究は優れたものが多く一目置くけれども、人間そのものの他者に対する人格尊重や思いやりの配慮に徹底して欠けるところがあって、原武史は対人把握の人間理解には全く駄目な人であった。例えば原の著作に「滝山コミューン・一九七四」(2007年)という自伝的社会史研究があり、以前に私は当ブログにて「滝山コミューン・一九七四」の書評を書いたことがあるが、かつての小学校教師や同級生に対する原の無神経な容赦ない書きぶりに正直、困惑し閉口した。

そうした点からして同じ天皇制論でも女性論を絡めた原武史「皇后考」(2015年)は、「可視化された帝国」と比べてあまり出来が良くない。そのことは岩波新書の「平成の終焉」での以下のような記述に明確に引き継がれ、その人間理解、特に女性理解の原の駄目さ加減を如実に示している。

「天皇の後ろを歩き、天皇の傍らで祈る皇后の姿が、現代の日本社会に与えている影響は決して小さくないように思われます。…世界的に見ても日本の男女平等度ランキングが低く、政界や企業、大学などで女性がなかなか進出できず、若い女性の専業主婦願望が高まっている理由の一つに、皇后美智子がモデルの役割を果たしているとは言えないでしょうか。皇后美智子は、大学を出て就職することもなく結婚し、家では夫を支え、三人の子供を育てる『良妻賢母』としての役割を果たしました。…けれどもこうした皇后像は、…『実力主義の社会における女性像とは明確に異なる』のです。皇后美智子が理想の女性として崇敬されることの負の側面に無自覚であってはならないと思います」(190ページ)

率直に言って「世界的に見ても日本の男女平等度ランキングが低く、女性がなかなか社会進出できない」のは、皇后美智子の女性としての個人的な身の処し方や、彼女を「理想の女性として崇敬」するような社会的象徴作用のなせる技(わざ)ではあるまい。「男女平等度が低く、女性の社会進出が果たせない問題」については「皇后美智子」云々以外の、日本社会の構造的問題があるはずで、上述の原武史の文章には「本当か!?」と思わず苦笑の半畳を入れたくなる。岩波新書の赤、原武史「平成の終焉」を読んで、「この人は宮中祭祀や行幸啓が暗に発揮する近代天皇制の政治的威光の事柄には抜群の反応で鋭い考察を見せるが他方、女性論を始めとする人間理解に関しては相変わらず無理解で駄目だ」の残念な思いが残る。