岩波新書の⾚、⽵内啓「偶然とは何か」(2010年)の表紙カバー裏解説には次のようにある。
「偶然は避けることができない。確率論によってリスクを管理したり、合理的意思決定理論によって不運を消滅させることはできない。⼀⽅、⽣物の進化や⼈間の歴史を考えると、偶然の積極的な意味が⾒えてくる。偶然は、単に必然の否定といった消極的なものではない。偶然は想像⼒を刺激することによって、⼈⽣をより豊かなものとしている」
本書のおおよその内容はこうだ。私達が予測できなかったり、説明できない出来事の発⽣を⼀般に「偶然」と呼ぶ。さらにそのような「偶然」な出来事が⾃分にとって好都合なことであれば、それを「幸運」とし、不都合なことであれば「不運」とするように⼈間主体の主観的判断により「偶然」はさらに分類され説明づけられる。そういった「偶然」の概念について、超⾃然的な「神や仏の意思」や⽬に⾒えない所で働く「因果応報」という前近代の不可知で⾮合理な考えを著者はまず何よりも排する。と同時に、他⽅で「偶然」と呼ばれる事態は実のところ、その起こりやすさの程度の差であって、それを表現したものが統計学的な「確率」であるのだが、昨今の数学理論にて「偶然」を「不確実性」とし、その「偶然」の「不確実性」に伴う損失を「リスク」と呼んでリスク管理(マネジメント)しようとする統計学の確率理論にすべて還元させる近代の「偶然」理解も、その理論的限界を⾒定めて同時に批判する。いくら確率理論が正しく適⽤されても実際にそれが起こるか否かをそれ以上確率によって掘り下げ予測することができない、予測不可能な「偶然」(いわゆる「本質的偶然」)の存在余地が現実には残るからである。
そうして著者は近代の統計学からする確率論からも、わずかにはみ出す予測不可能な不可知の「本質的偶然」に対し、近代科学の確率論の導⼊をしても合理的な完全予測は不可能であり「偶然」は克服されないという悲観よりも、偶然は多様さであり、⼀⼈⼀⼈の⼈間にとって「魅惑に満ちた驚異の未来」を作り出す本質的な要素だと肯定的に捉えるのであった。この最後の「本質的偶然」に対する著者の前向きな理解の姿勢は、本書「偶然とは何か・その積極的意味」のサブタイトルたる「その積極的意味」に、また先の表紙カバー裏解説における「偶然の積極的な意味が⾒えてくる。偶然は、単に必然の否定といった消極的なものではない。偶然は想像⼒を刺激することによって、⼈⽣をより豊かなものとしている」の記述部分にそれぞれ対応している。
本新書は全六章よりなるが、前近代の「神仏による超⾃然的な意思」というような⾮合理な「偶然」理解を否定した後に、近代にて「偶然」の現象事態を単なる「必然の法則から逸脱した偶々(たまたま)起こり得ること」で済ませず、近代科学の統計学的確率論の決定論に落とし込んで、「偶然」の現象を確率論の観点より押さえ詳細に論じる「第2章・確率の意味」と「第3章・確率を応⽤する論理」が⼤変に読みごたえがあって⾯⽩い。岩波新書「偶然とは何か」の奥付(おくづけ)を⾒ると、著者の⽵内啓は1933年⽣まれの、専攻が統計学の学者であり、⽒の主な著作には「数理統計学」(1963年)があるのであった。なるほど、統計学専攻なため、その統計学の確率論から「偶然とは何か」の主題に⼀気に切り込む著者の姿勢に納得だ。
その上で本書の後半では、いくら統計学の確率論をもってしても統計学による確率想定に全く引っ掛からない、完全に確率選択からはみ出る想定不可能な本質的な「偶然」の存在余地を、科学経済分野以外での主に⽣物進化と⼈間の歴史における「本質的偶然」の事例を挙げて、その「偶然」を⼈間社会における多様性の契機や個々の⼈間主体にとっての「魅惑に満ちた驚異の未来」として「積極的意味」にて肯定的に捉える。1933年⽣まれの、本書を執筆時には77歳になる、これまで統計学の学問に長年打ち込んできた研究者の著者が、精密な確率論をもってしても予測できず、わずかにはみ出して存在する「本質的偶然」の考察を経て、ある意味、近代科学の統計学‧確率論の限界を率直に認める結論へ向かう本書の議論展開は読んで誠に味がある。統計学をやり始めた初学の者や、ある程度の業績を新たに刻み始めた壮年の研究者ではなくて、著者のように⻑年に渡り統計学に携わり、やり尽くした碩学の専⾨家が統計学の確率論の限界をあえて指摘する主張にこそ重みと味があるのだ。
こういった統計学に造詣が深い、かなりのキャリアを持つ統計学の専⾨家である著者が「偶然とは何か」を通して「統計学の確率論は決して万能ではないし、少なからず限界がある」の引導を渡す、「第4章・偶然の積極的意味」と「第6章・歴史の中の偶然性」は、これまた読みごたえがある。当然、これらの議論は、「いくら精密な確率論をもってしても予測できず、わずかにはみ出して存在する『本質的偶然』は確かに存在する」という前章までの考察に基づくものである。
岩波新書の⾚、⽵内啓「偶然とは何か」は、総じてなかなか味があって⾯⽩い良書といえる。少なくとも私は本書を読んで⼗分に楽しめた。ただ他⽅で「偶然とは何か」の「その積極的意味」について、社会における「多様性」とか、各⼈にとっての「魅惑に満ちた驚異の未来」云々の著者の⼝上が⾮学術的で根拠なしの⻘臭い精神論の⼈⽣訓に思えなくもない所が難点か。