アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(102)丸山眞男「『文明論之概略』を読む」

岩波新書の黄、丸山眞男「『文明論之概略』を読む」全三巻(1986年)は、古典観賞の手引きのような講義録の新書だ。「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」その要訣を教えてくれる。

本書は大学ゼミの講読講義の体裁である。福沢諭吉「文明論之概略」(1875年)をテキストにまず原文を朗読し、丸山眞男が時代背景や読み所を順次解説していく。話し言葉で記述された講義録のようであり、精読史料の福沢「文明論之概略」の原典本文が、あらかじめ新書内に親切に抜粋掲載されてある。各自別個に福沢「文明論之概略」を用意して、丸山の本新書といちいち引き比べて読まなくても済む。誠に親切編集の岩波新書「『文明論之概略』を読む」である。

主に本書にて展開される丸山眞男の福沢諭吉論に対し、昔からの強い批判がある。丸山福沢論批判の中で近年、特に厳しい痛烈なものといえば、安川寿之輔「福沢諭吉と丸山眞男・『丸山諭吉』神話を解体する」(2003年)と、子安宣邦「福沢諭吉『文明論之概略』精読」(2005年)になるのだろうか。

今更こうしたことをクドクドと述べるのは馬鹿らしい不毛な気がするから最低限の簡潔記述で済ませたいが、「丸山眞男の福沢諭吉への読みが恣意的で福沢を理想化し過ぎている。福沢に対する評価が甘すぎる。丸山が強調する福沢は実物の福沢諭吉ではない、福沢の虚像である」旨の痛烈批判、丸山福沢論批判は昔からあるが(安川寿之輔「日本近代教育の思想構造・増補版」1979年など)、そうした言辞に私はあまり感心しないし正直、共感できない。丸山の福沢論は厳密実証的な歴史研究というよりは、どちらかといえば古典観賞に近い。「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」の古典を通じての教養教授のジャンルである。

古典とは昔の書物であるから現代の私達からみて当然、時代的制約の遅れや限界はある。しかし、そうした古典の遅れや限界を超越批判せず、あえて一度括弧(かっこ)に入れて「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」謙虚に自己を古典に傾注すべきだ。そのことは、他ならぬ丸山眞男が「『文明論之概略』を読む」の中の「序・古典からどう学ぶか」にて、「私は自身の福沢惚(ぼ)れを自認している。なぜなら初めから超越的な批判の眼差しで判断する者には、ついに到達できない真実というものがあるから」という趣旨の彼の「古典との対話」の主張の内に見事に言い尽くされている。私には安川「福沢諭吉と丸山眞男」や子安「福沢諭吉『文明論之概略』精読」は、どうも硬直した直情的実証主義な立場よりする思想史研究や歴史研究からの小児病的批判に思えてしまう。

さて、丸山「『文明論之概略』を読む」全三巻は、古典観賞の読み物として大変よく出来ている。まず読み込まれる対象原典の福沢諭吉「文明論之概略」が名著の古典である。その名著たる古典を読み込む読解主体の丸山眞男の読みの手際(てぎわ)と力量も非常に優れている。 よく出来た古典観賞とは、第一に対象たる古典そのものが優れており、第二に優れた古典を読み込む観賞主体も優れていて、古典原書の書き手と古典観賞の読み手兼解説者の二人の相互の作用が増幅され、より素晴らしいものとなる。

岩波新書「『文明論之概略』を読む」の読み所の良さをここで逐一述べるとキリがないから最低限、以下3点だけ最良の読み所と思える主要の部分を示しておこう。

(1)第一章「議論の本位を定る事」は、福沢の「文明論之概略」にて、文字通り「議論の本位を定る」の「議論の前提」をなす出発の部分であり重要な箇所だ。時事的な政治や教育への処方箋(しょほうせん)的提言である「時事論」の執筆が多い福沢にあって、「文明論之概略」は抽象体系的な福沢の思考の「原理論」を示す貴重な史料である。特に第一章は、福沢の原理的思考方法を述べた最たるものであるから注目に値する。福沢の「文明論之概略」の第一章「議論の本位を定る事」を解説した丸山「『文明論之概略』を読む」の「第二講・何のために論ずるのか」は、以前の丸山の福沢論文「福沢諭吉の哲学」(1947年、丸山「福沢諭吉の哲学・他六篇」2001年に所収)と内容が重複している。本書の「第二講・何のために論ずるのか」と併せて「福沢諭吉の哲学」論文も精読すると、丸山福沢論の力点と面白さがより深く分かるはずだ。

(2)福沢の「文明論之概略」の中で第九章「日本文明の由来」は圧巻である。この章の「日本文明の由来」の文明史記述を読むだけでも、福沢諭吉が同時代の知識人より頭ひとつ抜けていたことが分かる。「日本文明の由来」に「権力の偏重(へんちょう)」の病根を見出し摘出して、日本人の精神的病理の解明に福沢が当たる。もちろん、現代の私達の日本社会にも「権力の偏重」の病は至る所の人間関係にて確認され、いまだ人々は伝染してあるのであった。その事を福沢の「文明論之概略」の「日本文明の由来」の章の古典を読み、現代の私達は改めて古典から学んで知るのである。もとの「権力の偏重」に関する福沢の考察が良いので、それを読んで解説する第十六講から第十八講の丸山の語りも当然のごとく良い。

(3)福沢「文明論之概略」の最終章たる第十章「自国の独立を論ず」は、第一章「議論の本位を定る事」と見事に対応している。最初の「議論の本位を定る事」が抽象的な「文明論之概略」を貫く福沢の考え方を説明する骨組みの「原理論」であるのに対し、最後の「自国の独立を論ず」では再度「議論の本位を定る事」の思考原理が繰り返される。しかし、今度は抽象原理のみではなくて、第二章以降の各章の「文明論之概略」の考察議論を経た上で、具体的な時事的議論(「文明の本旨」と「自国の独立」)を肉付けし加えた「時事論」となっている。「文章論之概略」は冒頭の第一章「議論の本位を定る事」と巻末の第十章「自国の独立を論ず」が同じ内容ではあるが、最初は原理のみ、最後はその原理に具体的事柄を乗せ肉付けした時事というように抽象度を落として具体化を増す反復一貫的な書き方を福沢諭吉は、わざとしている。

「『文明論之概略』を読む」の著者の丸山眞男も、当然そのことを押さえて読んで解説している。そもそも福沢の「文明論之概略」を読む際、第一章と第十章の内容が同一の反復であることを見切り、かつ両章の抽象具体の濃淡相違を押さえて読めている人が、どれほどいるだろうか。そうしたこなれた古典観賞の読みの味わい方を岩波新書の黄、丸山眞男「『文明論之概略』を読む」全三巻は現代の私達に真摯(しんし)に教えてくれる。

このブログ全体のための最初のノート

今回から新しく始める「アメジローの岩波新書の書評」(※これまでに書き溜めてきた書評記事の厳選集成であり、以前に別の場所でやっていたブログをそのまま移動しているため全く同じ文章があります。しかし、それは赤の他人の第三者によるコピーとか盗作・剽窃(ひょうせつ)ではありません。当ブログを書いているのは前のブログ主と同一人物です)

本ブログ「岩波新書の書評」は全7カテゴリーよりなります。「政治・法律」「経済・社会」「哲学・思想・心理」「世界史・日本史」「文学・芸術」「記録・随筆」「理・医・科学」です。

お探しの記事やお目当ての新書・著者は、本ブログ内の検索にて入力でサーチをかけて頂くと出てきます。

最後に。大江健三郎による1960年代の最初の全エッセイ集「厳粛な綱渡り」(1965年)初版の単行本は二段組で全500ページほど。大江の1960年代の思想と文学と行動と生活がこの一冊にびっしり細かに丁寧に書き込まれている。評論・書評・ルポルタージュ、講演・インタビュー、広告文・コラム、日記・雑記…内容は多彩である。「何でもあり」なバラエティブックの様相である。書籍自体も辞書のようで非常に厚くて重い。私は本書を日々携帯し繰り返しよく読んでいたのだが、本書の書き出しは「この本全体のための最初のノート」であった。全六部を経ての巻末は、もちろん「この本全体のための最後のノート」である。大江健三郎「厳粛な綱渡り」全エッセイ集は私にとって昔から非常に感じのよい、もはや手離すことの出来ない極上書籍で愛読の内の一冊だ。大江健三郎には全くもって及ばないが、私も「このブログ全体のための最後のノート」記事をいつの日か書くだろうか。

岩波新書に愛を込めて。(2021・4・1記)

いちばんはじめの書評をめぐるコラム

私は若い頃から「図書新聞」をよく購読し、昔から書評やブックレビューの読みものを楽しんで読んでいた。私は自分で書評ブログを始める際、これまで他人の書評を日常的に読み、かつ研究した結果、自身に課したことがいくつかあった。

(1)自分の身辺雑記や個人情報は書き込まず、最初から書籍の話題にすぐに入り、できるだけ書籍のことについてだけ書く。(2)後々まで読まれることを想定して、時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにする。(3)書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく、「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような、横着な読者に便宜を供する都合のよい「書評もどき」の記事は書かない。(4)書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよい。点数をつけて採点したり、毎回、必ず評価を確定させなくてもよい。ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」掘り下げて説明するようにする。

(1)に関しては、最近はインターネット環境の普及で皆が「書評ブログ」をよく書くようになった。書き出しから書評本と自身の出会いのエピソード紹介(「本当はその分野の本には全く興味がなかったのに学生時代、恩師に薦められてつい」)とか、その書物をどういう状況で読んだか(「帰宅途中の電車で読んでいたら面白すぎて没頭してしまい、降りる駅をやり過ごして終点駅まで行ってしまった」)だとかの身辺雑記や個人情報を「枕の文章」として最初に熱心に長々と語る人がいるけれど、そうして「自分語り」だけ熱くやって書物のことにあまり触れないで、そのまま終わる「自分大好き」な困った人が時にいるけれども(笑)、そういうのは必要のない余計な情報だ。

普遍的な人生の真理として、「私が自分の生活や人生に関心があり大切に思っているほどには、実は他人は私の生活や人生に関心や興味はない。皆が自分のことだけ大事で案外、他人のことには無関心でどうでもよいと思っている」。だから、世間の皆がその人の私的なことまで知りたいと思っている芸能人や著名人ら余程の人気者とか有名人でない限り、一般の人は自身の身辺雑記や個人情報は語らずに最初から「即(すぐ)」でスムーズに書籍の内容記述に入って、書評の内容だけで終わらせるのがよい。

(2)については、例えば1990年代当時に「オウム真理教」の話題が世間を騒がせ人々の耳目を集めたが、時事論やニュース解説の文章でない場合に、あえて例えの説明に「オウム事件」云々を書き入れてしまうと、当時は時宜を得て(タイムリーで)新鮮でよいけれど、後に時間が経って2020年代に読むと、その書籍にはいかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。だから、自分の文章が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく書き入れないようにした方がよい。

(3)の、書籍の目次を最初に示して各章ごとに記述内容を要約紹介していく「書評」は今日、ネット上で確かに人気がある。おそらく、そうした方が確実にアクセス数も増えるに違いない。しかし、それは「本を読んでもいないのに書評を一読しただけで一冊すべてを実際に読んだ気にさせる」ような(昨今は、こうしたことを期待する怠け者の横柄な人が本当に多い)横着な読者に便宜を供する都合のよい記事で、読み手を甘やかす堕落の「書評もどき」なので私は感心しない。

(4)のように、書評にて必ずしも書籍に対し明確な評価を下す必要はなく、時に表面的な印象批評で終わってもよいけれど、ただし良い本と誉(ほ)めると決めた場合には「具体的にどこの何が良いのか」、同様に感心しない本とする場合は「どこの何が悪くて、なぜそのような残念な書籍になってしまったのか」を掘り下げて説明するようにしたほうがよい。ただ単に「これは絶対に読むべき名著だ」と激賞したり、逆に「この本は読むだけ時間の無駄」と酷評して採点するだけの、そのまま言いたい放題の放り投げで終わる短文書評を特に「アマゾン(Amazon)」のブックレビューでよく見かけるが、毎度読んで「あれは良くない」の悪印象が私には残る。

岩波新書の書評(526)西林克彦「わかったつもり」

(今回は、光文社新書の西林克彦「わかったつもり・読解力がつかない本当の原因」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、西林克彦「わかったつもり」は光文社新書で、岩波新書ではありません。)

私は今ではあまり人の来ない、つまらない書評ブログを細々とやっているが(笑)、書評文を書く際には、それなりに書評俎上(そじょう)に載せる本を読み込んで、「内容はだいたいわかった。自分としてはこの本は読み切れた」の確信を持ってから書く。ところが、文章を完成させ投稿した後で、たまたま他の方が同一の書籍について書いている書評ブログやブックレビューを読んでみると、時に私が気付かないような事にも触れ、私とは別な視点から深く広く読んだ上で書かれていることに驚かされ、自身の読みの浅さを痛感させられることが多々あった。

そういった思いに日々苛(さいな)まれていたところ、先日、西林克彦「わかったつもり」(2005年)を目にしたので購入して読んでみた。私には、まさに「わかったつもり」の弊害が自分のこととして痛く思い当たるフシがあったのである。

西林克彦「わかったつもり」のサブタイトルは「読解力がつかない本当の原因」である。著者によれば、読んだ際には「わかった」が、後から自身で考えて、また他者から指摘されて実は不充分であったというわかり方を「わかったつもり」と呼ぶことにするという。本書を通して「読解力がつかない本当の原因」を解明し理解することを通して、その原因の弊害を取り除き改善して結果、「わかったつもり」の状態から深い読みの「わかる」「よりわかる」に到達できるという、本書は極めて実用的な書籍なのである。著者の西林克彦は本書執筆時は宮城教育大学教育学部教授であり、認知心理学の観点から「わかったつもり」の弊害とそこから脱するための「わかる」「よりわかる」へ移行の方法・ヒントを述べている。

西林「わかったつもり」は、案外内容が細かい長い文章(長沢和俊「正倉院とシルクロード」など)を掲載し、それを実際に読者に読ませて後に文章内容に関する設問(「読めているかどうかの質問」)に答えさせた上で、実はこの設問は、全世代の中で比較的読みに習熟していると思われる現役大学生であっても、正答率が2割以下であるという、多くの人が一読して容易に正確に内容把握できない、いわゆる「わかったつもり」で済ましている文章読解の実際を読み手に認識させ、その「わかったつもり」の読者の不手際を著者が時に厳しく責めるような書きぶりで(笑)、本論は進む。そのため著者の指示に従って、本文中にあるいくつかの「読み」の問題をこなしながら、本書は決して読み飛ばすことなく最初から最後まで丁寧に精読したほうがよい。

よって本書の概要や要旨を、あらかじめここに詳しく書くのは適切でないと思われる。著者がいう「読解力がつかない本当の原因」には、例えば「『文脈』がわからず、『スキーマ』の発動のしようがなく、スキーマが『活性化』せず文章の処理に当たれていない」「文章における『全体の雰囲気』という魔力(読み違えの誘発など)」「間違った読み・不充分な読み(読み飛ばし)」「文脈の魔力から来るミスリード(「結果から」「最初から」の先入観・類推・早とちり)」「『いろいろ(ある)』 というわかったつもり(それ以上に読みが深まらない停滞)」「ステレオタイプのスキーマ(「善きもの」への安易な「当てはめ」、「当たり障りのない」「無難」という魔力で常識的理解に流される)」「読みの解釈にて他の部分との、より緊密な関連・整合性の欠如(スキーマ・文脈の非活性)」などがある。これらの内容は実際に本書を各自手に取り精読して頂きたい。

以下では西林克彦「わかったつもり」の中で「第1章・『読み』が深まらないのはなぜか?」にて主に述べられている、また本論全体に通底してある基本の考え方である「わかったつもり」=「読解力がつかない本当の原因」の心理的機制の精神面からの指摘(アドバイス)についてのみ書いてみる。

なぜ人は自身で後に考えて、もしくは他者から指摘されて実は不充分であったという「わかったつもり」の事態になってしまうのか。それには何よりも読む本人の意識の問題であるという。人は往々にして自分の読む行為に関し、一読して「わかった」とする感触や判断を安直に下しがちである。しかしながら、「わかった」という安易な感触・判断の意識こそが「わかったつもり」の何よりの原因であって弊害であるのだ。文章を読んで「わかった」と即に合点(がてん)してはいけない。この「わかった」という状態は、本当は不充分な「わかったつもり」の状態に他ならず、安定で、しかし実は停滞の心理状態である。不充分な読みの「わかったつもり」の状態に自分があることを、まずは冷静に認識することから始めるべきである。

「わかった」と即断した時点で人は、それ以上の「わかりたい」「よりわかる」への回路は閉ざされてしまう。「もっとよい読みが存在するはず」「より深く広く本質的にわかりたいと思う」地点にまでたどり着けなくなる。しかも「わかったつもり」の状態に陥ることで、本当は自分は「わかっていない」の現状を認識できなくなってしまう。だから、読みに際して「わかった」と即断せず慢心せずに、「本当に自分はわかっているのか」「今以上のよりよいわかり方があるのでは!?」の模索を絶えず続けるべきである。みずからの読みの解釈の「正しさ」を素直に信じたり、自身の読みの「正しさ」を誇示し強調することは、実は他の読みの解釈の可能性を排除することにもつながる。そのような既に「わかった」の硬直した読みではなくて、読み進める内に自分の中でその文章に対し矛盾や無関連の不明の理解箇所が出てくれば、読みの過程で「もっとよい読みが存在するはず」の立場から、自身の読みを修正しその都度、読みの方針や精度を更新(アップグレード)して柔軟に読み進めていけばよいのである。この意味で、読みの中途における矛盾や無関連の出現は次のよりよくわかるための契機といえる。

文章を読んで「わかった」と即断してはいけない。読みの心構えとして、「わかった」と慢心せずに「本当に自分はわかっているのか。これは『わかったつもり』なのでは!?」「今以上のよりよいわかり方があるのではないか 」と絶えず自分を疑いながら謙虚に読み進めるべきだ。本書にて著者がいうように、まさに「敵は自分である」。

最後に、西林克彦「わかったつもり」の表紙カバー裏に引用されている本文抜粋を載せておく。

「後から考えて不充分だというわかり方を、『わかったつもり』とこれから呼ぶことにします。この『わかったつもり』の状態は、ひとつの『わかった』状態ですから、『わからない部分が見つからない』という意味で安定しているのです。わからない場合には、すぐに探索にかかるのでしょうが、『わからない部分が見つからない』ので、その先を探索しようとしない場合がほとんどです。『わかる』から『よりわかる』に到る過程における『読む』という行為の主たる障害は、『わかったつもり』です。『わかったつもり』が、そこから先の探索活動を妨害するからです」

岩波新書の書評(525)瀬戸賢一「日本語のレトリック」

岩波ジュニア新書の瀬戸賢一「日本語のレトリック」(2002年)は副題が「文章表現の技法」であり、本書は様々な文章表現技法を30の型にまとめたものである。

「『人生は旅だ』『筆をとる』『負けるが勝ち』『一日千秋の思い』…。ちょっとした言い回しやたくみな文章表現で、読む者に強い印象を与えるレトリック。そのなかから隠喩や換喩、パロディーなど30を取り上げる。清少納言、夏目漱石から井上ひさし、宮部みゆきまで、さまざまな小説や随筆、詩を味わいながら、日本語の豊かな文章表現をまなぶ」(裏表紙解説)

著者によれば、「レトリックとは、あらゆる話題に対して魅力的なことばで人を説得する技術体系である」(7ページ)と定義される。

良い文章とは、読み手に対し説得力があることが必須の条件であるから、何よりも記述内容が論理的に破綻しておらず筋道が通っているとか、読み手に共感と好意を抱かせるものであるなど、まず文章の中身の問題がある。その上で、次に文章表現の外形を整えるレトリック(修辞)の問題があるのだ。レトリックとは、文の内容をよりよく説得力を持って効果的に読み手に伝えるための、あくまでも外面的な技術の問題である。そして文章内容の内面の心と、文章修辞の外面のレトリックの技術との双方が上手くかみ合い共に稼働することが望ましい。

岩波ジュニア新書、瀬戸賢一「日本語のレトリック」はそれらの内の、後者の文章修辞の外面レトリックの技術をまとめ、分かりやすく解説している。本書では文章表現技法を30の型にして取り上げている。例えば以下のようなものがある。

☆隠喩(類似性に基づく比喩である。「人生」を「旅」に喩えるように、典型的には抽象的な対象を具体的なものに見立てて表現する。例─「人生は旅だ」「彼女は氷の塊だ」)☆共感覚法(触覚、味覚、嗅覚、視覚、聴覚の五感の間で表現をやりとりする表現法。表現を貸す側と借りる側との間で、一定の組み合わせがある。例─「深い味」「大きな音」「暖かい色」)☆くびき法(一本のくびきを二頭の牛が引くように、ひとつの表現を二つの意味で使う表現法。多義語の異なった意義を利用する。例─「バッターも痛いがピッチャーも痛かった」)☆撞着法(正反対の意味を組み合わせて、なおかつ矛盾に陥らずに意味をなす表現法。「反対物の一致」を体現する。例─「公然の秘密」「暗黒の輝き」「無知の知」)☆対句法(同じ構文形式のなかで意味的なコントラストを際立たせる表現法。対象的な意味が互いを照らしだす。例─「春は曙。冬はつとめて」)

本論に引用紹介されてあるように、これらのレトリックは昔からある定番のもので、古典の名作や落語・漫談の話芸にて従来使われてきたものである。一読して、私が既知で無意識に日常会話や普段よりの記述にてすでに使っているものもあるし、また今回本書を読み初めて知り感心して、いつか使ってみたいと思える文章表現技法(レトリック)も多々あった。

岩波ジュニア新書の瀬戸賢一「日本語のレトリック」は、10代の中高生向け読み物のジュヴナイルであるから、本書は中高生がこれらレトリックを作文・小論文に使って、文章上達を促す程度のものである。ゆえに大人の読者が本気を出して読んで「内容が薄い」などと酷評してはいけない。それはさすがに大人気ない(苦笑)。しかし、大人の読者が読んでもためになるのは確かで、普段よりの書類作成やレポート報告にこれら「日本語のレトリック」は十分に使えるし、また詩作などの特殊な文章創作の際にも本書は有用である。

巻末に「レトリック三0早見表」がある。本論で紹介されている30の型の文章表現技法(「日本語のレトリック」)が、表まとめの一目で即に確認できて便利である。

岩波新書の書評(524)富岡儀八「塩の道を探る」

岩波新書の黄、富岡儀八「塩の道を探る」(1983年)のタイトルにある「塩の道」の概要はこうだ。

「塩の道とは、塩を内陸に運ぶのに使われた道のこと。また反対に内陸からは、山の幸(食料や木材や鉱物)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり専売法による規制がかけられる以前は、海辺の塩田に頼っていたことから日本の各地で海と山を結ぶ形で、塩の道は数多くあった。塩の道は日本全国にいくつもあり、内陸地へは場所によって様々なルートで運ばれてきた。特に雪深い内陸地域に住む住人にとって冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないものであることから、重要な生活路であった。また近世に入ると宿場町やその周辺は藩によって重点的な開発が行われた。これらの街道沿いには、宿場町、城下町、神社・寺院がある場合が多い。日本各地で盛んだった塩の道での往来は、後の鉄道建設に反映され、1960年代以降に道路が整備されて現在も物流の主要なルートとして残っている。

塩の道は各地に存在しているが、日本の塩街道は特に中部地方(北陸道─東山道─東海道)の連絡線に多く、日本海側からは、例えば姫川沿いの千国街道が代表的な塩の道である。日本海側の越後国と信濃国を結ぶ千国街道(糸魚川 ─塩尻)は、塩の運搬に関する遺構も比較的残されていて、よく知られている。地名になっている『塩尻』とは『塩の道の尻』で、海で採れた塩運搬路の終着点の意味である」

もともと遠隔地の街と街とを結ぶ街道は、目的用途のはっきりした合理的なものである。そうした合理的な目的用途の確固としたものがなければ道は新たに切り拓(ひら)かれないし、後々まで長く存続しない。また街道があるためには、常に人や馬や車の一定の交通量があって道の整備保全が定期的になされなければならない。そうでなければ、やがて街道は廃れてしまう。それゆえ、街道(整備の行き届いた交通路)とは目的用途が明確にあって継続的に整備保全がなされる極めて合理的で人為的なものである。

日本の街道といえば、古代の律令国家体制、近世の江戸幕府下における各地の伝令統治や租税徴収や参勤交代らを円滑に行うための政権所在地につながる政治的道路や、軍事の兵站(へいたん・兵の移動や物資の輸送)のための軍用路、参拝・参詣のために寺社に連なる宗教的な道(熊野古道や伊勢街道が有名)など、様々な街道がある。それらの中で「塩の道」は各地域同士の物資の交易のためにある産業幹線道路の典型であった。

さて一般に塩に関して、普段から自身で調理したり、家人や外食先で出される食事を無自覚に食べている限りでは、あまり気づかないけれど、塩というのは人間の生存にとって極めて大切で必要不可欠なものである。例えば「敵に塩を送る」という故事成語がある。この語は「敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救う」、さらには「争いの本質ではない所で、相手に援助を与える公正(フェアプレイ)精神の発露」といった意味である。これは戦国時代の武将同士の戦いで、武田信玄が敵側から塩の供給経路を断たれ、塩が入手できない兵糧攻めの塩不足で苦しんでいた時に、別の敵方の上杉謙信が「武士道に反する」として敵対する武田側にあえて塩を送ったという逸話が元になっている。

このように塩の供給を一時的に断たれただけで、人は生きていけない。それほどまでに塩とは人間の生存にとって欠くことのできない重要なものであるのだ。そして日本では、塩は海辺の塩田にて主に生産されていたため、海から遠い内陸地へ生活に必要不可欠な塩を供給し運ぶために全国各地で海と山を結ぶ形での、いわゆる「塩の道」が様々なルートにて昔から数多くあったのである。

ところで、「塩の道」といえば今や有名で定番の話題(トピック)であり、日本経済史や産業交通史や特定地域の郷土史にて頻繁に言及される人気のテーマである。今日のように「塩の道」の話題がここまで注目され、人々の耳目を広く集めて知られるようになった契機は一体何であったか、以前に私は調べてみたことがあった。「塩の道」という語やそれについての歴史研究は昔からあったが、それが人々に一気に拡散したのは、どうやら民俗学者の宮本常一が晩年にやった「塩の道」の講演(宮本「塩の道」の初出は「日本の海洋民」1974年)が書籍となり、これが広く読まれての影響であるらしい。「なるほど宮本常一の影響か!」と私はその時に痛く納得した次第である。宮本常一という人は地道で膨大な現地調査(フィールドワーク)に裏打ちさせて、学術的で本格的な民俗学をやる人であったけれど、他方でこの人は大学や専門学会の「象牙の塔」にこもらず、なぜか不思議と専門の学者・研究者以外の一般の人に人気のある民俗学者であった。宮本常一の著作は一般読者に支えられた人気の裾野が幅広くあって、宮本民俗学のファンは昔から多くいたのだった。

岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」も、「塩の道」の定番人気のテーマに即した一冊である。本書は古代よりあった「塩の道」に関して、あえて近世江戸の日本各地の塩街道に内容を絞り論じている。すなわち、近世江戸以降、「日本の塩」は以下の七つの変革期を経て今日に至ったとされるのであった。

「(1)塩業地の基礎作り(第一変革期、正保三─五年)。(2)商品経済への発展(第二変革期、寛文年間─元禄年間)。(3)生産の合理化(第三変革期、文政六年ごろ)。(4)国家専売制の実施(第四変革期、明治三八年)。(5)工場生産の開始(第五・六変革期、昭和一三年─二八年)。(6)化学製塩への大転換と塩田の廃田化(第七変革期、昭和四二年─四七年)」

本書で扱われているのは、(1)(2)(3)の三つの変革期の「日本の塩」および「塩の道」である。この時期の「塩の道」について、地図や図表や写真を掲載して北は北海道・東北から南は四国・九州までの日本各地の塩街道の詳細をそれぞれ具体的に、非常に細かく記述している。

私が「塩の道」関連の書籍を重ねて読んで昔から強く思うのは、塩は実は人々の日々の生活に欠かせないものであって、沿岸部の塩田生産に主に依拠していた日本の製塩事情から特に内陸山間部に暮らす人々に塩は大変に貴重なもので、その流通経路として日本には昔から「塩の道」が数多く存在した、と単にするような表面的な常識的理解にとどまってはいけないということである。海と山とを結ぶ形での生活基幹物資である塩の輸送路たる「塩の道」を介して、沿岸部からの行商人による塩の振り売り、ないしは山間部住民の塩の買い出しの双方向からの交易にて、沿岸から内陸に塩が運ばれた「塩の道」は、同時に内陸から沿岸に山の食料や木材や鉱物が運ばれた「山の道」でもあった。また「塩の道」にて人や牛や馬の背に乗せて塩が日常的に運ばれ人々が頻繁に往来することで人と物が自然に集まり、その街道沿いには市場や商店、宿場町や城下町、神社・寺院ができて地域として栄えた事例も多い。

この道を往来した人々は塩を主とする物資の交易を媒介に、単なる物の売買交換の商売だけでなく、食べ物の味つけの食文化に関しての生活嗜好や地域特有の伝統習俗や特徴的な物の考え方らが共通の一大地域文化圏に属し、そうした地域文化圏形成に、かの「塩の道」は強く影響を及ぼしていた。こういった点にまで留意して深く丁寧に、「塩の道」関連の書籍は読まれるべきであると思う。

最後に、岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」の概要を記しておく。

「塩は、日々の生活に欠かせない必需品であり、むかしから、どんな山奥へも万難を排して運びこまれた。そのルートは、同時に、さまざまな生活物資を運ぶ道となり、人と人とをつなぐ道ともなった。日本列島全域におよぶ調査研究をもとに、塩の生産と流通がどのようにおこなわれ、それが地域の生活や文化とどうかかわってきたかを探る」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(523)北山茂夫「藤原道長」

近年、放映のNHK大河ドラマに「光る君へ」(2024年)があった。本作は、平安時代の摂関政治期が舞台であり、紫式部が主役、藤原道長が相手役の準主役となっている。紫式部、藤原道長ともにこの時代の代表的人物として有名だが、実のところその全貌にはいまだ不明なことが多い。残された同時代の本人自筆(とされる)史料(「紫式部日記」「御堂関白記」)を最大限駆使しても、紫式部と藤原道長のことははっきりしないのである。また彼らの没後に記されたもの(「栄華物語」「大鏡」など)には、人々の耳目を無駄に引こうとする歴史物語的な面白さの語り記述に流されやすい脚色・虚構があって、史料批判を介して慎重に読まれなければならず、書かれてある事をそのまま素朴に信じるわけにはいかない。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の脚本担当である大石静は、制作発表会見で次のような旨を述べたという。「藤原氏が摂関家として権力を誇った平安王朝というのは、山崎豊子『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような権力闘争の面白い話がいっぱいある。…平安王朝の権力闘争といった『セックス・アンド・バイオレンス』を描きたい」と。

言い得て妙である。確かに、平安王朝の摂関政治全盛期は「性と暴力」が満載だ(笑)。自身の娘を天皇に入内(皇后・中宮になる人が宮中に入ること)させ皇子の誕生を望み、外祖父(母方の祖父)の立場から天皇の外戚として摂政・関白の高位高官を独占し国政を左右した藤原氏の摂関政治には、藤原一族による他氏排斥に加えて、藤原氏内部における「氏の長者」をめぐる一族内での熾烈(しれつ)な争いがあった。父子、兄弟、伯父・叔父と甥らの間での過酷な権力闘争である。藤原氏の摂関政治での藤原北家(「一の家」)の官位独占下にて、さらに一族の首長である「氏の長者」が摂関を兼ねる慣例になっていた。そのため摂政・関白に補任される(「一の人」になる)には、何よりも藤原氏の中で他の兄弟や伯父・叔父や甥ら肉親を抑えて自身が「氏の長者」の頂点に立つ必要があったのである。

藤原道長が藤原家の中で甥の藤原伊周(道長の兄・道隆の子)と争い伊周を失脚させ、やがて一族の長となり、さらには娘を天皇の后妃に入れて自らは外祖父となる、いわゆる「血縁の正統性」に依拠する形で天皇の後見役として君臨する生涯出世の過程は、なるほど、山崎豊子「華麗なる一族」(1970年)での血のつながりがある親密であるはずの家族なのに、万俵(まんぴょう)家という銀行頭取一族内での父子間の憎悪の誤解や、正妻と愛人執事との対決での、「跡継ぎの子の有無」をめぐっての権力の正統性誇示の一連のやりとり(「あなたも子供を作っておけばよかったのに」のセリフなど)を思い起こさせる。また道長の上には父・兼家の後継と目され摂政・関白を歴任した長兄・道隆と三兄・道兼の有力な兄が二人いた。ところが二人の兄は相次いで突然早くに亡くなってしまう。それで最後は道長が父の藤原兼家の跡を継いて「氏の長者」となるわけだが、この話の筋は映画「ゴッドファーザー」(1972年)とほぼ同じである。あの映画でも劇中、長兄や次兄ではなく三男のアル・パチーノが、最初はコルレオーネ家のイタリア系マフィア一家を継ぐつもりなど全くなかったのに、抗争の過程で一族内での愛憎を経て最後は父のマーロン・ブランドの後継者としてファミリーのドン(首領)になり、一家を束ねていた。

確かに大河ドラマ「光る君へ」は、「小説『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような」見心地がする。本ドラマでは、他氏排斥ならびに一族内での対立の藤原氏の権力闘争で歴史的に明らかになっている事柄はよく描かれている(例えば、花山天皇が兼家の藤原一家にだまされて出家し退位する「寛和の変」の顛末など)。だが、紫式部と藤原道長の私的なことは文献史料が少なく不明であるため、かなり大胆な脚色がなされている。下級貴族の紫式部は摂関家の藤原道長に召出され、中宮である道長の娘・彰子に仕える以前に、実は幼少の頃から道長と知り合いで二人は以前に恋仲であったとか(笑)。比較的信頼できる史料、紫式部自筆の「紫式部日記」を読んでも幼少時から紫式部と藤原道長が知り合いであったとか、二人が密かに相思相愛であった可能性は低い。しかも紫式部の早世した母親が道長の、冷酷な兄・道兼に通りすがりの辻斬りで無残に殺されて、紫式部にとって愛する藤原道長は母の敵(かたき)の憎むべき因縁人物の弟だったなど、どう考えても史実として到底ありえない現代的な相当に俗っぽい話になっている。ただ軽い気持ちで日曜の夜にツッコミを入れながら冷やかし半分で視聴して、それなりに面白いけれど。

さて、大河ドラマ「光る君へ」で主役の紫式部と共に主要人物になっている藤原道長に関しては、昔の岩波新書に青版の北山茂夫「藤原道長」(1970年)があった。本書はフィクションの歴史小説ではなく、学術的な人物評伝であるため、道長について歴史的に明らかになっている確定的なことしか書かれていない。不明なことは、はっきりその旨を記しており、著者による推測や仮説の記述はほとんどない。書き出しから結語まで「藤原道長には不明なところが多い」「道長という政治家の正体は茫漠(ぼうばく)としてとらえにくい」など、結局のところ藤原道長その人に関してはよくわからないとする一貫した立場からの慎重な書きぶりである。そのため、(かの大河ドラマとは異なり)内容は地味で一読して即座に面白みを感じる要素に乏しいが、その反面、慎重で堅実な評伝記述にて、序章に「ある日の道長」の人生の一場面を置き、その上で誕生から死去までを時系列で読んで藤原道長という人が、それなりにジワジワと分かってくるといった所である。

藤原道長には国政や外交における公的な改革政治よりも、手近な私的権力闘争の政争の方がよく似合う。道長と伊周の抗争、道長と三条天皇の確執など。よく指摘されるように、藤原道長の存命時(966─1027年)は律令国家のいよいよの崩壊時期であるにもかわらず、以前の平将門と藤原純友による東西での地方反乱(承平・天慶の乱、939年)や道長没直後の東国での平忠常の乱(1028年)などの目立った地方反乱は不思議と起こらなかった。政権担当時に、こうした大きな内乱勃発に遭遇しなかった点でも藤原道長の生涯は誠に運が良かったといえる。

藤原道長が晩年、莫大な財と多数の人手の手間をかけて造宮したのが法成寺であった。晩年には浄土信仰に傾倒し、つらい病に長く苦しんだことから出家した道長が阿弥陀堂を建立し、無量寿院と名付けたのが始まりとされる。後に法成寺に改名された。法成寺は「御堂」とも呼ばれ、法成寺は藤原道長のニックネーム「御堂関白」の由来になった。法成寺は道長の子・頼道が後に開いた平等院の範となった寺院で一望の様子は平等院に似ており、造宮規模は平安当時の寺院としては最大級、内部の伽藍は壮麗を極めたという。しかし、法成寺は後の時代の度重なる出火により焼失し現存していない。藤原道長に関する事柄で法成寺が現代に残っていないのを、いつも私は残念に思う。

岩波新書「藤原道長」には「道長の生き方は、白河・後白河らの法皇たちの原型である」(216ページ)とあって、著者の北山茂夫が、摂関政治全盛の藤原道長の政治を後の時代の「院政の原型」と見ている点が興味深い。だが、本書を通じての著者による道長評価は、「マナリズム(マンネリズム。慣例の形式的踏襲に終始して新鮮味がないこと)の政治家」と厳しく断じて全体に低調である。例えば以下のように。

「藤原道長は、古代史のどこにいかなる位置を占めたのか。その家系からいえば、鎌足の後裔の一人である。かれは、古代国家がいちじるしく衰頽(すいたい)した一0世紀の終末に権力の座につき、以後三0年にわたって、政界を支配した政治家である。衰頽期もこの時代までさがると、中央政府による政治指導は活気を失ってマナリズムにおちいりがちで、政治家のタイプも、がらりと変わってくる。道長は、そうした時代の大権勢家であった。道長は、そのマナリズムに抵抗することなく生きた政治家である。かれには、これといった国策上の事績はみられない。積極的な政策をもたぬ大権勢家とは、まことに奇妙な存在である」(2ページ)

(※岩波新書の青、北山茂夫「藤原道長」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1995年)が復刻・復刊されています。)

岩波新書の書評(522)岡本隆司「李鴻章」

近年、岩波新書の新赤版にて、中国近代史専攻の岡本隆司による「評伝三部作」とでもいうべき近代中国の人物に関する新書が出ている。「李鴻章・東アジアの近代」(2011年)と「袁世凱・現代中国の出発」(2015年)と「曾国藩・『英雄』と中国史」(2022年)である。扱われる人物評価を含めて中国近代史に関する書籍は、だいたい誰の何を読んでも面白いというのが私の率直な感想だ。

以下では、李鴻章について書いてみたい。

「李鴻章(1823─1901年)は中国清代の官僚・政治家。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)として調印を行った」

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考えると、いつも私は大変に気の毒な思いになる。李鴻章については「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感慨である。

「老舗企業(清朝中国)に入社試験(科挙)を経て成績優秀で入り、実績を積んで昇進を重ねるが、創業者一族(清朝)の正統家系ではないため(漢族出身)、雇われ幹部(漢人官僚)として期待混じりの重用で社長(西太后)から直々にこき使われることとなる。本社勤務の楽な『名ばかり』名誉職の閑職ではなくて、本社から出向派遣の現場周りで、会社からすれば実に『使い勝手のよい』役回りである。社内では社員による労働運動の嵐(太平天国の乱、義和団事件)が各部署にて吹き荒れ、その都度、問題発生の現場に自身が直接に出向いて過激労組への対応に日々追われる。その労働運動抑え込み功績(太平天国の乱平定、捻軍鎮圧)の社内貢献により、後に晴れて大幹部(直隷総督・北洋大臣)への出世となるが。また社内改革(中国近代化)推進のメンバーに選ばれ、改革プロジェクト(洋務運動)に積極的に携わり責任重大であるが、創業者一族(清朝守旧派)の妨害もあって改革は順調というわけでもない。特に悩ましいのは自身が専門担当の社外交渉(国防外交)で、同業他社(日本)よりの、昔からの子会社(朝鮮)横取りの圧力の嫌がらせが相次ぎ、険悪な敵対関係(日清戦争)で負けが重なり会社はボロボロ。老舗の看板名声は一気に急落。しかし、それでも最前線の現場に立って会社建て直しのための実務を続けなければならない。退職の引退はなく、亡くなる直前まで会社(清朝中国)に奉職の激務である」

私から見て、そんな「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感がある、いかにも気の毒な李鴻章の生涯である。

李鴻章、この人は元々かなり優秀な人である。幼少時から勉学に励み見事、科挙に合格。同時期の官僚・政治家である曾国藩に師事して師弟関係を結び、科挙エリートとして実績を積んで昇進を重ねる。そして李鴻章が29歳の時に太平天国の乱が勃発。清朝政府の命令を受け、師である曾国藩が湘軍を組織し太平天国の制圧に主力として当たり、曾国藩の湘軍に倣(なら)って、後に李鴻章も淮軍を創設する。この淮軍を率いて太平天国滅亡に大きく貢献し、続く捻軍鎮圧でも功績を上げた李鴻章は、師の曾国藩の後を継いで後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼任した。ここに至って李鴻章は、清朝の重臣筆頭として西太后(清末期の権力者。清の咸豊帝の側室で、同治帝の母)の厚い信任を得る。

太平天国の乱(1951─64年)は、人々が「太平天国」という理想国家の樹立をめざして清朝に抗した、清末期に起こった中国近代史上最大の民衆の乱である。捻軍の乱(1953─68年)は、太平天国に呼応して挙兵した「捻軍」(「捻」は「一本一本の糸をひねり、よりあげる」で人々の集まり・仲間の意味)という農民軍の蜂起である。これら地方での中央政府に対する相次ぐ乱に対し、清朝皇帝の正規軍である八旗・綠営では鎮圧できないほどに清の正式軍隊は弱体化していた。そこで正規軍たる八旗・綠営の戦力低下を補う目的で「郷勇」(地方の漢人官僚らが組織した義勇軍)が組織され、この郷勇が太平天国の乱ら後の内乱制圧の主力となっていくのである。そのいくつかある地方で組織された郷勇の内、曾国藩が創設したのが湘軍であり、李鴻章が創設したのが淮軍である。特に李鴻章の淮軍は太平天国と捻軍の制圧にて活躍めざましく戦果を上げて、淮軍はその後も李鴻章の権力基盤となった。

(※中央政府の正規軍である八旗・綠営の弱体化で太平天国の乱を鎮圧できず、そのために各地方で組織された義勇軍である郷勇の相次ぐ創設は、やがて中央政府による公的政治の制御(コントロール)が効(き)かない、地方分権の独自の私的裁量統治の軍閥の乱立を招いて、複数の地方権力が各地に並立して国内で対立し合う群雄割拠の不安定な情勢を引き起こした。こうした太平天国の乱勃発由来の、地方での軍閥乱立という国内分裂の混迷は、第二次世界大戦終結時まで続き、例えば「北伐(1920年代、中国国民党が北方の諸軍閥を打倒し、中国統一のために行った戦い)」や「国共内戦(1920年代から1945年まで何度も繰り返された中国国民党と中国共産党の戦い)」など、中国中央の支配者と中国の民衆を後々まで長く悩ませることになる)

李鴻章の生涯を後に振り返ると、やはり李鴻章が科挙エリートとして勤めていた若き日の20代に、中国近代史上最大の民衆の乱である太平天国の乱という同時代の一大事件に出くわしたことの意味は極めて大きい。李鴻章は、師事していた曾国藩の湘軍と一時期、行動を共にしていたため、後にみずからも淮軍を組織し率いて太平天国の乱への鎮圧対処で頭角を現し、清朝の信任を得てやがては最高実力者の地位にまで上り詰める。この太平天国の乱に処するの時点で、李鴻章の将来の進む道はほぼ決まったといえる。李鴻章は科挙を優秀な成績で合格しエリート官僚の道を進んだが、彼はいわゆる「文民(軍人でない者)」ではない。清朝に仕える官僚とはいっても、中央で詔勅起草の政策立案をしたり、中央から地方へ文書で命令を出すような文事に携わる文臣の役職ではなかった。太平天国の乱の制圧に大きく貢献して功績を上げた李鴻章は、後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼務したというように、地方の現場にその都度出向いては内乱を鎮める実務の地方官筆頭だった。彼は血統・出自に由来する中央にての「権力の源泉」ではなく、地方の現場への奔走実務で有能であったがゆえに後に権力を付与されて、その「後付けの権力」の行使をして、さらに自身に荷重に課せられた職責に邁進する役人であった。 

事実、太平天国の乱鎮圧の後、李鴻章は直隷総督(地方長官の最高位)、北洋通商大臣(外交・海防)として外国人とのトラブルまがいの外交交渉や諸外国との戦争、そしてその戦争事後の後始末ら相当に困難な重大職務を一手に任され、それら重責を背負わせられることとなる。また洋務運動にて、北洋艦隊の設立(1988年に李鴻章が創設した清国海軍の艦隊。1988年の設立で比較的早く、創設当初は日本の帝国海軍を凌ぐ「東洋一の艦隊」と称された)に加えて、科挙の改革を李鴻章は進言するも(新たな人材育成のために科挙の科目に西洋の科学・工学ら実学を盛り込むことを提言。だが儒教を重んじる守旧派の抵抗で却下されている)、清朝政府はそれら西洋化には内心乗り気でなく、洋務運動の近代化改革は「中体西用」(伝統中国の文化・制度を本体として、西洋の機械文明の利用を目指す)といった外面的なものに終始し、改革は困難を極めた。

李鴻章、晩年最大の仕事は、朝鮮に対する宗主権をめぐり関係悪化した日本との間での日清戦争(1894年)、そして日本への敗戦を受けての講和条約である下関条約(1895年)に清側の欽差大臣(全権大使)として臨んだ批准(ひじゅん)にあるといえよう。日清戦争にて、清側の主要戦力である自身が作り上げた淮軍と北洋艦隊の練度ならびに清軍兵士の士気は低く、敗戦必至で当初より開戦反対の立場である李鴻章であったが、西太后の甥・光緒帝ら主戦派に押し切られる形で戦端は開かれ、日清戦争の開戦となってしまう。そうして黄海海戦、旅順口の戦いにて清国海軍は連戦連敗を重ね、李鴻章の淮軍と北洋艦隊は壊滅。日清戦争にて清は日本に敗北した。日清戦争敗北の後、講和交渉で全権委任された李鴻章は日本の下関に赴き、下関条約に調印する。この時の日本側全権は日清戦争開戦時の総理大臣である伊藤博文と、外務大臣で伊藤の腹心だった陸奥宗光である。戦争講和の下関条約は、(1)朝鮮の完全「独立」(清の干渉権放棄)、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、(3)日本に対する賠償金2億両(テール)の支払など、戦勝の日本にはかなり有利で敗戦の清には相当に不利な、当時の戦争講和の相場からしても破格の内容であった。

李鴻章という人は非常に優秀な人で、日清戦争後の下関講和以前に諸外国との交渉実務にて豊富な外交経験があった。そのため下関条約調印に際しても、水面下で日本への対抗として欧米列強の内の主にロシアに働きかけ、いわゆる「三国干渉」(ロシアら欧州三国の圧力にて、日本に対する遼東半島の清への返還要求)を画策しながら、同時に日本との宥和(ゆうわ)である、日清間のアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する道も模索していた。そのため中国側が日本に事前に配慮し、戦勝の日本にかなり有利で、逆に敗戦の清には相当に不利な下関条約での破格の合意形成であったともいわれている。事実、日清戦争以前の日本の台湾出兵(1874年)時から李鴻章は大久保利通に、欧米列強に抗するための「アジアの団結」メッセージを送り続けていた。

しかしながら、戦争講和で清の全権大使・李鴻章に接した日本の全権大使・伊藤博文と陸奥宗光、並びに当時の明治国家の指導者たちには、そうした「日清間でのアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する」発想は微塵(みじん)もなかった。ほぼ皆無であった。下関条約締結の講和時、李鴻章は73歳でかなりの高齢である。そのように老齢な李鴻章を全権大使にして派遣してくる清国に対し、日本側全権の伊藤と陸奥は終戦直後の自国の戦勝の高揚もあって、やがては没落する老大国・中国の姿を李鴻章その人に暗に重ねて見ていたのである。さらには李鴻章が下関に滞在時、「李鴻章狙撃事件」(1895年、日清戦争の講和交渉のため来日中の李鴻章が、終戦講和を不服とする日本人の右翼青年に狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件)まで起こってしまう。

日清戦争時を後に回顧する伊藤博文も陸奥宗光も、彼らの回想語りの中での李鴻章への印象・評価は軽蔑混じりで極めて厳しい。後の近代の日本人の基調となった中国や朝鮮を始めとする近隣東アジア蔑視の様子が、この日清戦争の時代より早くも見て取れるのであった。

日清戦争の後、李鴻章は清に敗戦をもたらした「敗軍の将」として詰腹を切らされ、直隷総督・北洋通商大臣を罷免されるも、なぜかこの人は西太后の個人的信任が厚く、すぐに外交と国防の前線現場にまたしても復帰させられてしまう(1896年)。このとき李鴻章は74歳。その後、太平天国の乱以来の大規模な民衆の乱である義和団事件(1900年。欧米ら帝国主義諸国の中国侵出により困窮した民衆の不満を背景に、宗教結社「義和団」による排外運動)などに処し、死のニカ月前まで奔走して、1901年に78歳で死去。李鴻章に引退の隠居なく、亡くなる直前まで清朝中国に尽くした激務の生涯であった。

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考える度に、私は大変に気の毒な思いを禁じ得ない。やはり、李鴻章の生涯は「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」に似た感慨を引き起こさせる。

李鴻章が逝去してまもなく、辛亥革命(1911年)時のジャーナリスト・政治家であった梁啓超(1873─1929年)は李鴻章の評伝を執筆・出版した。その中で彼はいう、

「李鴻章は洋務の存在を知るだけで、国務の存在を知らない。兵事があるのは知りながら、民政があるのを知らない。外交は知っていても、内治を知らない。朝廷の存在は知るが、国民がいるのを知らない」

李鴻章は「洋務」「兵事」「外交」「朝廷」の一方向を知るのみと断じて一刀両断に斬(き)り捨てる、後の時代の梁啓超による李鴻章への誠に手厳しい評伝評価である。私からすれば李鴻章の生涯を振り返れば、科挙エリートとしてあった若年の時代に、太平天国の乱がたまたま勃発したため、それへの制圧の流れで彼は「兵事」専門の軍務に傾注し後に一貫して携わることとなり、その過程で北洋艦隊の創設ら、軍隊の近代化などの「洋務」に着手し有能な官僚となって、さらにはそれら功績により、特に「朝廷」内で西太后からの厚い信任を得て重臣筆頭として「外交」職務に死の直前まで生涯現役で邁進した李鴻章であったのだ。

他方で、中国由来の伝統的な「国務」は西洋近代の「洋務」に当時は圧倒され、相次ぐ民衆反乱の鎮圧のための「兵事」に追われて、民権伸長の「民政」どころではなく、さらには諸外国との「外交」交渉と対外戦争にて、国内の安定平和の「内治」はおざなりにされて中国全土は荒廃し、辛亥革命以前の中国には清朝皇帝の「朝廷」が厳然としてあったため、未だ革命に至らず、中華民国の「国民」は存在していなかった。「民政」の追求や「国民」の創出に必要な外部条件の客観状況が、李鴻章が存命の時代にはまだ整えられていなかっただけのことである。

岩波新書の書評(521)中野敏男「ヴェーバー入門」

(今回は、ちくま新書の中野敏男「ヴェーバー入門」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、中野敏男「ヴェーバー入門」は岩波新書ではありません。)

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。中野敏男「ヴェーバー入門」(2020年)は、そのうちの一冊である。

中野敏男「ヴェーバー入門」は、直裁(ちょくさい)に言ってマックス・ヴェーバー研究ではない。本書はヴェーバーに関連した現代評論の思想的読み物である。ヴェーバーの思想内実を明らかにした厳密な学術研究ではなくて、「私ならヴェーバーをこのように読む。こう読み解いてヴェーバーを現代思想に活かす」程度の話の「ヴェーバー入門」なのであった。

つまりは、著者である中野敏男が「実はヴェーバー社会学には、このような深い考察の広い問題射程まで有するものであるから、そこを押さえてマックス・ヴェーバーは正統には読まれるべき」旨の、没後百年の節目に当たり、2020年の現代に生きる中野自身による個人的な独我的読みの解釈披露たる「ヴェーバー入門」なのであって、マックス・ヴェーバー当人の本意を汲(く)んだ、20世紀初頭のドイツに生きた実際のヴェーバーその人についての厳密なヴェーバー研究ではない。しかも「ヴェーバー入門」といいながら内容はそこそこに複雑高度であり、今回初めてヴェーバーに接する初学者に向けての分かりやすい解説記述に必ずしもなってもいない。そのため、著者の中野敏男をあまり知らない人、これまでの彼の社会学研究の問題関心や政治的立場を共有できていない者、全くのマックス・ヴェーバー初心者には、中野「ヴェーバー入門」は訳が分からず、本新書に関し酷評の低評価も十分にあり得る。

ここで本書の目次を見よう。中野敏男「ヴェーバー入門」は「はじめに」「おわりに」を巻頭巻末に置いて全四章よりなる。

「はじめに・ヴェーバー理解社会学を再発見する、第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生、第2章・理解社会学の最初の実践例・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む、第3章・理解社会学の仕組み・『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む、第4章・理解社会学の展開・『世界宗教の経済倫理』を読む、おわりに・理解社会学における『近代』の問題」 

まず「はじめに」にて、これまでの「ヴェーバー入門」と称する先行書籍がことごとくヴェーバーの理解社会学にほとんど触れていない無理解を批判し、そうして「第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生」でヴェーバーにおける理解社会学の原理的概要を解説し、次の「第2章・理解社会学の最初の実践例」で、先の理解社会学の手法に基づいてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)を実際に読んでみせる。さらに「第3章・理解社会学の仕組み」で、「経済と社会」(1921年)の中の「宗教ゲマインシャフト」の項を読み、そこから社会を「行為と秩序」の二元論的構成でとらえて、それまで社会を漠然とした一元論で単純認識していた、いわゆる「二つの流出論」「自然主義的一元論」に対する批判をヴェーバーの著述から読み取る。また「第4章・理解社会学の展開」では、同様に「世界宗教の経済倫理」(1915年)を読んで、そこからピューリタンを始めとする各種宗教の倫理から「合理主義の系譜」=宗教的担い手における意味への問いの否認(反知性主義)を読み取る。その上で、これまでの本論を踏まえ「おわりに」でヴェーバーの理解社会学により、

(1)社会を「行為と秩序」の、行為者とシステムの二元論の概念構成にて相対的かつ相補的な関係性で理解することを通して、文化領域の社会システムに人間主体が容易に囲い込まれ硬直する(「精神なき専門人、心情なき享楽人」の人間疎外の深刻状況になる)ことを批判的にとらえ、そうした事態にならないよう「人間と社会の脱一体的理解」へと導く。

(2)ある種の宗教倫理から来る、宗教的担い手における意味への問いの否認を、物象化した合理化・専門化である所の反知性主義と否定的に措定して、それへの対抗たる、世界を分裂・矛盾の連続過程として問題的にとらえ人間主体の世界認識である知性の更新を絶えずはかるような「知性主義」を、この反知性主義に対置させる。

こうして(1)(2)により、人間社会への静的理解である「物象化」の弊害を回避し、動態的理解の更新を絶えず重ね続ける脱近代(ポストモダン)な理解社会学を基礎としたヴェーバーの読み解きを行うことこそが、例えば本書にて著者の言う「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」ことの意味であるとする。

しかし、それにしてもヴェーバーの理解社会学から社会の物象化批判とか、宗教倫理を通しての反知性主義への対抗まで勝手に読み込む、中野「ヴェーバー入門」でのポストモダンなヴェーバー像の提示に、さすがに私は度肝を抜かれる。20世紀初頭に生きた社会科学者のマックス・ヴェーバーに、近代社会の物象化批判や脱近代の知性主義を過剰に万能に読み込み過ぎである(笑)。ここまで超人的な洞察でヴェーバーが現代社会の物象化や反知性主義の問題にまで論及できていたとは、にわかに私には信じられない程である。もはや、ここにあるのは現実に生きた歴史上のヴェーバーではない。

私はヴェーバー全集での主要著作もヴェーバー研究も、それなりに読んでいる。私の知る限り、マックス・ヴェーバーという人は、若い頃からドイツの軍隊に何度か志願し入隊して、50歳を過ぎた晩年にも健康が優れない中で第一次世界大戦に従軍し母国ドイツの戦勝を心から願って、だが第一次大戦にてドイツは敗北し、しかも戦時のドイツ革命を経てドイツ帝国の崩壊からドイツ共和国への移行に伴い、合理性の観点から新生ドイツ再建のために政治論文を意欲的に執筆した、彼はせいぜいよく言って近代の健全な国家主義者(ナショナリスト)といった程度である。ヴェーバーは決してポストモダン論者などではなかった。

本書を未読の人は、以下のような妙に力の入った(笑)、著者による並々ならぬヴェーバー読み込みの決意が表れた表紙カバー裏解説文を踏まえた上で実際に本書に当たるとよい。また本書を既読の方には本論内容に照らして以下の、著者のかなり熱い思いが込められた表紙カバー裏解説文を今一度、確認し味わって頂きたい。

「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える。これが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった。だが、奇妙なことに従来の議論では、彼自身のこの問題意識が見落とされている。本書では、ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす。主要著作を丹念に読み込み、それらを貫く論理を解き明かす画期的入門書」(表紙カバー裏解説)

何しろ「理解社会学こそが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった」の強い断定の上で、かのマックス・ヴェーバーに関し「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」の壮大で過剰な読み込みの中野敏男「ヴェーバー入門」であるのだ。ゆえに本書を読んで現実のマックス・ヴェーバー、社会科学者のヴェーバーの実像とは異なるなどと激怒して、安易に批判してはいけない。

私も中野と同様、理解社会学がヴェーバーの社会科学の思想的営みの中心の根底にあったと考える。ただ「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える」理解社会学は何もヴェーバーのみが突出して唱えた彼の専売特許であったわけではない。ヴェーバーが生きた20世紀初頭のドイツでは、ディルタイ(1833─1911年)やジンメル(1858─1918年)ら同時代の他の社会学者にも「生の哲学」として一般的に広く見られた研究手法であり、理解社会学の方法は当時の社会科学での時代の流行(トレンド)だった。ヴェーバーの時代には、社会事象を考察する際に、個人と事柄の外面的な因果関係の説明で無難に済ませることでは不十分で、もはや許されず、社会行為をなす行為者当人にとっての主観的な意味・動機の了解(理解)機成にまで踏み込み、掘り下げなければならない近代社会学の学問になっていたのである。

ヴェーバー読解のヴェーバー把握にて、ヴェーバーの理解社会学の試みを不当に軽く見て看過することは出来ないが、また他方で本書「ヴェーバー入門」での中野敏男のようにヴェーバーの理解社会学の要素を余りにも前のめりで過剰に多く見積もり、そこまで高く持ち上げる必要もないというのが、本書読後の何よりの私の率直な感想である。

最後に。ここまで散々に書いてきて、もう誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こう見えて私は昔から中野敏男のファンである。中野の論文や著作や座談など今まで公的に刊行されたものは全てだいたい読んでいる。中野敏男の仕事にはヴェーバー、丸山眞男、大塚久雄、北原白秋、高村光太郎、近代法システム、戦時動員と戦後啓蒙、日本の戦争責任、沖縄基地問題ら多岐に渡って優れたものが多くある。

なかでもマックス・ヴェーバー関連でいえば、日本人にヴェーバーを大々的に紹介した日本でのヴェーバー研究の第一人者である大塚久雄(1907─96年)に関する中野の研究は特に優れている。中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」(1997年、中野「大塚久雄と丸山眞男」2001年に所収)は、十五年戦争時の戦中の戦時動員から、1945年の敗戦後の戦後啓蒙へと大塚がみずからの思想的立ち位置を大きく変える際に、戦前初出のヴェーバーに関する研究である大塚「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」(初出1943年、改訂1946年)の結語を戦後の改訂版では都合よく、こっそり大塚が書き換えて改変しているという大塚久雄のヴェーバー研究における巧妙な書き換え策術を指摘し明らかにしており、読んで非常に面白い。中野「ヴェーバー入門」に続いて、中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」をまだ未読な方には是非、本論文まで手に取り読んで頂きたい。