アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(117)浅野順一「モーセ」

旧約聖書学者の浅野順一の書籍は面白い。氏による岩波新書ならば「ヨブ記」(1968年)や「詩篇」(1972年)だ。概してキリスト者の聖書学者の方は親切である。「聖書入門」や「聖書講話」の書籍にて当方が、あらかじめ聖書を全く読んでいなくても聖書記事の話のあらすじ説明のゼロから始めて話の子細を紹介した上で最後に、その具体的事柄の歴史的意義や宗教的意味まで教えてくれる。

岩波新書の黄、浅野順一「モーセ」(1977年)にても、聖書記事の話のあらすじ説明から始めて歴史的背景を解説し最後に、その具体的事柄の歴史的意義や宗教的意味まで親切に教えてくれる。よって、内容の記述はモーセをめぐる主に旧約の「出エジプト記」を中心にしたイスラエル人の出エジプトの詳細や中途でのシナイ山の「十戒」授与の聖書記載の具体的説明と、それらを元に出エジプトの人間の苦難の宗教的意味、十戒に代表される旧約聖書における律法の宗教的意義をまとめる抽象的考察との二つの記述から成り立っていることをまずは大枠で押さえてから本書に当たるのが適当だ。

本書の章立てで言えば、前者の聖書記載事柄の具体的説明は「Ⅳ・イスラエルのエジプト脱出」や「Ⅴ・シナイと十戒」の各章にて主に述べられ、後者の宗教的意味や意義は「Ⅵ・十戒、その聖書的意義」や「Ⅷモーセの晩年、『選民』の意義」や「Ⅸ・律法と愛」の章が各々その内容に該当する。

詳しくは浅野順一「モーセ」を熟読してもらうしかないが、あえてここで著者による「出エジプト」の宗教的意義の概要をまとめるとすればこうだ。古代エジプトから脱出し確かにエジプトでの奴隷の屈辱の生活から解放されたが、約束の地・カナンへ向けたイスラエルの民の旅は砂漠の熱さと渇(かわ)きと飢えの荒野での苦難の過酷な旅であった。だが、この出エジプトはイスラエルの民に対する神(ヤハウェ)よりの試練である。神はイスラエルという価値なき民を選んだのは、それは神が彼らを愛したからである。そうしてイスラエルの民は神の愛、その真実に添う民となるためには神による教育ないしは訓練を必要としたのだった。神からの「選民」による苦難や試練を通して人間の信仰は鍛えられる。それこそが「出エジプト」の宗教的意義である。

さらにモーセその人の信仰の孤独があった。神からの試練を受けて砂漠の荒野の道程で、同行の人々は「あーやっぱりエジプトにとどまっておればよかったなあ。奴隷でも何でも屈辱であっても粗末であっても、エジプトでの生活は食べ物に困ることはなかったし寝る所もあった」などと不平をいう者も出てくる。当時のエジプトは古代世界の中で最先端を誇る文化地域であったのだ。抑圧され虐(しいた)げられている奴隷でもエジプトに留まっている限り最底辺ではあるが、そこそこの生活はできた。そこで同胞救済と解放の原理に動かされるモーセは、彼らを時に叱(しか)りまた励(はげ)まして、なだめたりすかしたり。出エジプトの決断に付きまとうのは、パンと肉の安楽な生活か、人間の尊厳の誇りのどちらを取るかの二者択一である。当然、モーセは苦しくとも後者の人間の尊厳の誇りの方を取る。厳しい試練をモーセらに与えた神も、それを望んでおられる。しかし、イスラエルの同胞の中には人間の尊厳の誇りよりは、もう奴隷でもよいから安楽な生活の確保をと願う者たちもいたのだ。信仰を貫くモーセは皆の中で孤独である。

モーセはイスラエル人であったが、エジプトの宮廷にて高等教育を受けた学ある人である。彼はエジプト社会にて粗野で野卑な下層の奴隷生活を強いられているイスラエルの同胞たちとは人間的に合わない。だが、同胞救済の意識から時に彼らを叱り励まし、人的共同体の人間関係の中でモーセは、ひたすら忍耐である。そうして出エジプトの一団を統率するモーセは神との一対一の関係において、つまりは個人の内面の信仰では、ひたすら敬虔である。総じてモーセは内外の苦難にひたすら耐えて忍耐強く敬虔な人であった。それゆえ彼は孤独である。否(いな)、そうであるように神から強いられていた。これが「出エジプト」を始めとしてモーセを通して語られるキリスト者の本来あるべき信仰の内実であった。

信仰とは、もともと孤独なものだ。周囲の家族や友人らが何と言おうとも、時にどうしても譲れない神と自身との関係を貫き通さなければいけないことがある。世俗の打算を信仰ゆえに廃棄しなければならない時もある。人は信仰によって孤独である。その時に彼は信仰を介して、ある種の宗教的実存を味わう境地にまで昇華し精神的に達せられている。

最後に、岩波新書「モーセ」の著者である浅野順一について書いておこう。キリスト者であり旧約聖書学者である浅野の良さは以下の二つであると私には思われる。

まず氏の良さは、語学ができて旧約の聖書を原語で直接に読めることだ。浅野順一の著書を読んでいると、旧約のヘブライ語ないしはアラム語について訳す上での細かなニュアンス解釈を伝える解説記述が目立つ。一読、これらは面倒で煩瑣(はんさ)な解説にも思えるが、聖書記述の内容を正確に把握するためには、やはり重要だ。新約聖書学者の田川建三もそうだが、語学ができて原語で聖書を読める人のキリスト教研究は信頼できる。逆に原語の訳出の際の話が皆無な聖書学者の研究や聖書解説は、確かに煩瑣な訳出上の言葉の問題の説明なく一読、楽に読めるが、おそらく彼は英訳か日本語訳の聖書に依拠して研究解説しているのであり、その聖書読解は案外あやしいのではないだろうか。

次に浅野順一の良さは氏が聖書講話をやる際に全く説教臭くない所にある。「聖書入門」や「聖書講話」の書籍を連続して読んでいると聖書解説をやるにつれ、人によってはキリスト教倫理の観点から現代社会の人倫関係の乱れ(家族や友人や地域や職場の人的関係のあり様)を批判して説教しだす人は少なからずいるものだ。そういうキリスト者は、新約の「福音書」ヨハネの「姦通の女」(8の2─11)、「あなた方の中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」云々の話を知らない人だ。いわゆる「聖書読みの聖書知らず」なキリスト者である。人の世の人間の発言には発言内容の正しさの正当性以外にも、果たしてその人が「正しい」には相違ないが、その発言をあたかも「鬼の首を取った」ごとく、自分だけが善の倫理価値を勝手に独占し善倫理の遂行者として他者や人間社会を高圧的に一方的に裁いて批判してよいのかの問題は残る。

岩波新書「モーセ」を始めとして氏による「ヨブ記」の他書も連続して読んでいると浅野順一は、その辺りの「時にキリスト者が聖書知識を多少知っただけで、すぐに現代社会の人間倫理を高圧的に批判し説教臭くなってしまう悪癖」をよくわきまえて、うまく回避しているように思える。これもキリスト者であり旧約聖書学者たる浅野順一の良さであって、今日の私達が浅野の著作を読んで無心に学ぶべき点といえる。