キリスト教史の面白さは、その逆説性にある。例えば、宗教的信仰とは本来あくまでも個人の心情の内面的なものであり、世俗的な権力闘争とは無縁な非政治的なものだ。しかし、そうした個人の内面信仰の純粋さゆえに世俗の政治権力に対して、「宗教的寛容」たる個人の内面の信仰の自由を強く求めた結果、本来は内向的で非政治的な個人の信仰が、宗教戦争や宗教改革を介し、むしろ逆に外部の世俗の世界にて異常なまでの政治性を発揮してしまう逆説がある。
こうした逆説はキリスト教史において常に付きまとう。キリスト教制度の修道院の存在、歴史的意義に関してもそうだ。修道院制度の歴史的意義について、試しにいま手元にある福田歓一「政治学史」(1985年)から該当の記述を引こう。
「教会が制度化されることは、たしかに宗教の立場を非常に強くしたが、しかしそこに世俗化が働いたことは否定することができない。それに対して、キリスト教が生み出したもうひとつの天才的な組織が修道制度である。…修道制度の起こりは禁欲の問題とかかわっている。信仰が直ちに生活における禁欲につながるという考え方は、キリスト教のはじめからあった。…神に身を捧げた人間が極度に禁欲的な生活をする場所として修道院が制度化されると、ここでは宗教におけるエリートが養成され、彼らのエネルギーは信仰に集中する。やがてこの修道院からゲルマン世界に向って伝道に出て行く人間がつぎつぎに現れる。…修道院にはいる人間は、宗教にすべてを捧げている人間、純粋に宗教のために生きる人間である。ところが教会のもとにあるふつうの信徒は、みな世俗のなかで生きているわけである。世俗のなかで生きており、宗教の教えを守り切れるわけではない。…これに対して、修道院制度は宗教に献身する人間の凄まじいエネルギーが蓄積される。宗教の絶対的な要求に答え、イエスの倫理を純粋に生きようとする者のために、特別の制度を認め、それを教会の統制の下において内部化したのは、実に巧妙な処理であったのである」
キリスト教教会は、内面信仰を表する宗教団体でありながらヨーロッパの古代・中世社会にて、やがては帝国ないしは封建勢力の、いち世俗権力へと堕していく。そこで教会は「神に身を捧げた人間が極度に禁欲的な生活をする場所」としての修道院を制度化し、みずからの組織に包容する。「ここでは宗教におけるエリートが養成され、彼らのエネルギーは信仰に集中する」。それが世俗権力となった教会にて純粋な宗教エネルギーの蓄積をなし、修道院制度が世俗の各勢力に対し優越する教会の信仰の正統性根拠となる。そうして修道院制度によって保たれた宗教エネルギーの優越性は、修道士を介する異邦人伝道ないしは教会支配下にある一般信徒に対して遺憾なく威力を発揮し、実質は世俗的な権力団体へと堕した教会に人々をいまだ引き付ける巧妙な装置となるのであった。
修道院制度の歴史的意義にても、教会本体が果てしなく世俗化していくなかで、だからこそ逆に教会内部に極めて厳格な、神に全てを捧げた人間が極度に禁欲的な生活をして宗教エリートが養成される、世俗の倫理とはかけ離れた修道院制度が内包されるという「逆説」を指摘できる。こうした理論を「修道院」に関する書籍にて私達は(少なくとも私は)読みたいのである。
ところが岩波新書の黄、今野國雄「修道院」(1981年)では、このような世俗化した教会内部における反世俗で宗教的純粋さを部分的・例外的に保ち続ける修道制度の逆説を指摘した記述は残念ながら、ない。それはなぜなのか。そうした考察が深まらない、議論が掘り下げられない理由として、本新書にての著者による以下のような文章は注目に値する。
「修道院の歴史を語る時、人はしばしば修道院がヨーロッパの芸文の保存、学問の育成、芸術の伝承の場として果してきた役割に言及する。…しかし修道院側から見れば、これらの社会的・文化的貢献は修道士の祈り、禁欲、労働という本源的な理念と行為から派生したものである。しかもそれが共同体として実践されたところに修道院のもう一つの特徴がある。…キリスト教は原始教会以来信者の精神的な一体性を強調してきたし、修道院は使徒的共同生活の再現でもあったから、この共同体的性格の変遷から修道院の歴史を見ることも欠くことのできない視点である。本文で修道のための組織や使徒的生活に触れたのはそのためである」(「はしがき」)
著者は修道院制度の歴史的意義について、表面的な「修道院がヨーロッパの芸文の保存、学問の育成、芸術の伝承の場として果してきた役割」を見出す議論を排して、より本源的な「修道士の祈り、禁欲、労働という本源的な理念と行為」を理解すべきとする。事実、岩波新書「修道院」のサブタイトルは「祈り・禁欲・労働の源流」なのであった。古代・中世の修道院の共同的な使徒的リゴリズムの集団生活にて、「祈り・禁欲・労働」の観念を通して後の近代思想に連なる時間厳守の習慣や勤勉美徳の意識が生成準備されたことを指摘することは、おそらくは多くの人が普通に思い至ることであって比較的容易だ。そうした修道院の歴史における「祈り・禁欲・労働の源流」の指摘だけではなく、さらに修道院制度が教会組織内部にてはらむ、前述のような教会の世俗化ゆえに修道制度にて純粋な宗教エネルギーの正統性保持の「逆説」を明らかにすることまで著者は行うべきではなかったか。
それがなし得ないのは、「修道院がヨーロッパの芸文の保存、学問の育成、芸術の伝承の場として果してきた役割」強調の俗説に対し、「修道士の祈り、禁欲、労働という本源的な理念と行為」発見の論説を対置させて、それこそを修道制度から読み取るべきと反駁(はんばく)する本書を執筆するに当たって著者が設定して自身に課した考察目標の壁(ハードル)が、そもそも異常に低いから(「修道院がヨーロッパの芸文の保存、学問の育成、芸術の伝承の場として果してきた役割」強調の俗説否定にのみ傾注しているため)に他ならない。「修道院の歴史から修道士の祈り、禁欲、労働という本源的な理念と行為を読み取る視点が不可欠」の主張だけで終わってしまうのは物足りない、少し残念な思いが私には残る。
しかしながら、岩波新書の黄、今野國雄「修道院」は史料に即した実証的な修道制度の子細な紹介が優れている。本書を読んで托鉢修道会の改革と、ルターの宗教改革を経た後の修道院の自己変革の歴史過程の二点は読み逃せない要点であり、非常に面白いと感じられた。
「夜明け前に起き、質素な食事をとり、定められた労働に従い、厳しい戒律を守って神への祈りに一生を捧げる修道士たち。本書はエジプト、パレスチナに始まりヨーロッパで確立し、全世界に広がった修道院、修道会の歴史をたどり、みずから改革しつつ再生してきた修道のための組織と使徒的生活の意味を史料に即して明らかにする」(表紙カバー裏解説)