アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(162)ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」

(今回は、ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」についての書評を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、ノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」は岩波新書には入っていません。)

私は昔から格別に悔しがったり、何かに対し激怒したり嫉妬したりするような負の感情を持つことはほとんどないのだが、それでもごく希(まれ)にそうした感情を抱いてしまうことはあった。それは以前に初めてノーマ・フィールド「天皇の逝く国で」(1994年)を読んだ時のことだ。本書の初読は私は20代のときで、もう時代は「昭和」から「平成」になっていたが、この時ばかりは「しまった!ノーマ・フィールドの『天皇の逝く国で』は昭和天皇の逝去の折、『昭和』が終わる時に直近で、もっと早くに読むべきだった」と非常に悔しい思いをしたのであった。もっとも「天皇の逝く国で」は海外で1992年初版、日本語翻訳が出されたのはさらに遅れて1994年だから、本書内容の昭和天皇逝去の1989年からは相当に年月が経っているのだけれど。

時代が「昭和から平成へ」変わり行くとき、私は10代の高校生だった。その時に私は、もちろんノーマ・フィールドを知らなくて彼女の書籍も読んでいなくて、ゆえに本書にて述べられているような「昭和天皇逝去に伴う自粛ムード」の無言の社会的専制圧力や昭和天皇その人の戦争責任や、いわゆる「元号」論争を通じての日本の元号慣習の是非の問題を、あまり深く考えていなかった。「昭和から平成へ」変わり行く当時の、そうした自身の無関心の無知が痛切に後悔され、「しまった!ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』は、もっと早くに読んでおくべきだった」の悔恨の思いが後々まで自分の中に強くあったのだ。そのため、「将来『平成』が終わる際には、そのタイミングの時代の雰囲気の中でノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』を再読してみたい。そして、そこに書かれてある日本社会の問題(「天皇制社会の支配原理」の伝統的問題)を再考してみたい」の思いに私は駆られていた。

本書は、日本社会における社会的専制を告発するルポである。主に三人の人物が登場する。彼らは「体制順応という日本社会の常識」の同調圧力に自身の信念から逆らった「反国家的な」人達である。国旗掲揚に反対し沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉教自衛隊員の夫の護国神社合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された長崎市長の本島等である。いずれも国の意向や体制への同調に反した人達であった。彼らは、匿名の中傷手紙や昼夜を問わずの無言・罵倒の嫌がらせ電話、住宅・店舗への投石と放火、右翼による狙撃の暴力にさらされて過酷なまでに追い込まれていく。

国家の意向に反したために、国家(政府や軍隊や警察)そのものから直接に垂直方向に個人が抑圧されるのではなく、国家以外の社会にいる不特定多数の匿名の市民から抑圧され疎外される社会の不寛容、いわゆる水平方向の社会的専制の問題を本書は扱っている。

戦前の天皇制国家は、国家主義に反した反体制的な言動をとると国から直に逮捕弾圧されたが、戦後の日本、まさに「天皇の逝く国」では戦後四十年近くが過ぎても、国家主義に反した反体制的な人々は変わらず抑圧・排除される。国旗掲揚に反対したり、靖国合祀に異議を唱えたり、天皇の戦争責任を追及したりする思想・良心・言論の自由は認められていないのだ。しかも、戦後にも依然としてある日本の天皇制社会にて国により「上から」直に逮捕弾圧されない代わりに、なぜか社会の匿名市民たちが「横から」嫌がらせや暴力の抑圧を国の代行で進んで精力的にやるのであった。ルポの書き手たるノーマ・フィールドの文章から、「これが『戦後』の日本社会か。戦前と何ら変わらない。むしろ陰湿により酷(ひど)くなっている」の言外の嘆きの告発を私達は真摯(しんし)に読み取るべきだろう。

最後に、本書の概要を記しておく。

「ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。高校を出てアメリカへ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文化を講じる気鋭の学者である。彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々と報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そこにさまざまな形で顕在化した、あまたの問題に想いを巡らせた。登場人物は『体制順応という常識』に逆らったために、ある日突然『ふつうの人』でなくなったしまった三人、沖縄国体で『日の丸』を焼いた知花昌一、殉教自衛隊員の夫の護国神社合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長とその家族である。かれらの市民生活にそって、問題は具体的に考えられる。基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない『戦後』を生き、いまも太平洋の上空に宙づりの状態にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語」(裏表紙解説)