アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(14)久野収 鶴見俊輔「現代日本の思想」

岩波新書の青、久野収・鶴見俊輔「現代日本の思想」(1956年)は、副題に「その五つの渦」とあるように、日本の思想の集団やグループ、思想流派系統から主に五つのものを取り上げ、それぞれの思想について出自の時代状況や思想の担い手、思想そのものの良さや限界を久野と鶴見が(おそらくは)事前に討論し、縦横無尽に自在に語って斬って斬って斬りまくり後にそれを文章化して一冊にまとめた、なかなか痛快な新書だ。

冒頭の「まえがき」にて直裁(ちょくせつ)に述べられているように、「本書は、日本の代表的思想流派を正面からあつかった思想入門である」。そして本書にて扱われる「現代日本の思想」の「その五つの渦」とは、すなわち(1)日本の観念論・白樺派、(2)日本の唯物論・日本共産党の思想、(3)日本のプラグマティズム・生活綴り方運動、(4)日本の超国家主義・昭和維新の思想、(5)日本の実存主義・戦後の世相となる。

実は「現代日本の思想」には「戦後日本の思想」(1959年)という姉妹本があり、取り扱う思想は違えど、その著作にて全く同じことをやっている。「戦後日本の思想」は久野と鶴見に加え藤田省三が参加しており、取り上げる思想グループについて毎回誰か一人がレジュメを事前に作成し報告して、その報告を受け久野、鶴見、藤田の三者が質疑討論の座談形式で「戦後日本の思想」を自在に語るという思想史研究会での実際の段取りを忠実に再現した書籍になっている。この「戦後日本の思想」におけるレジュメ報告、そして、その報告を受けての座談討論という手順からして岩波新書「現代日本の思想」も書き言葉にて硬質に記述されてはいるが同様に、おそらくは久野と鶴見の事前のフランクな討論座談があって、後にそれらを文章化し、各章分担で二人で分筆して新書本の一冊にまとめたものと思われる。

それにしても久野収と鶴見俊輔は懇意で共著をよく出す。「戦後日本の思想」の「あとがき」には、「思想の科学研究会」の運営で事務所移転費捻出のため、久野、鶴見、藤田で出して絶版品切になっていた本書を「天皇制特集」をめぐり以前に藤田君と「思想の科学」本体の間で色々あったにもかかわらず、今回は藤田君の御厚意の御了承を頂いて再版の形で出したという趣旨のことが書かれていた。久野と鶴見が単に懇意だから共著を多く出すというだけではなく、「思想の科学の運営費捻出のため」という案外、差し迫った経済的事情があり、そのため久野と鶴見は頻繁に共著を出版するのだと思われる。鶴見俊輔も単独で座談集の著作をかなり連続して出しているが、あれも「思想の科学」を続けるための予算捻出の一策で、結局のところ、対談や座談は当日しゃべって後は文字起こしするだけで比較的労力が少なく短期間で簡単に著作が連発量産できて安易に印税が稼げるの事情がある。苦労してそれなりの時間を費やし書き上げて一冊の著作を上梓する労力に比べたら明らかに手抜きで横着な本作りであり正直、私は対談や座談の書籍は好きになれないのだけれど。

だが、久野と鶴見の「現代日本の思想」や「戦後日本の思想」は、日本の思想の各々を任意に取り出し、その良さと問題点を二人が自在に語って斬りまくるという企画の当たり具合と、そもそもの久野と鶴見とが持つ思想を論ずる際の力量見識の高さゆえ、即席(インスタント)作りの対談や座談の書籍化であっても、さらには「思想の科学の運営費捻出のため」という案外に俗っぽい経済的事情からの出版動機であっても結果、高水準の良い書籍になっている。

さて「現代日本の思想」の内容について、各思想を論ずる際のアプローチ、方法論、思想そのものへの指摘・評価に私は概(おおむ)ね賛同する。なかでも特に内容が良く必読だと思えるのは第一章「日本の観念論・白樺派」と、第四章「日本の超国家主義・昭和維新の思想」だ。

第一章の「日本の観念論・白樺派」については、「白樺派的観念論方法の弱さ」として、「白樺派には制度がない」という指摘が実に的(まと)を得た誠に傑作な名文句であると思う。白樺派は制度がなくて実感のみ、制度の不在は規範の欠如であり、ゆえに主観主義、正直主義、告白主義に終始して、白樺派のコスモポリタン的観念に基づく現状批判は常に不徹底に終わる、特に対国家の政治権力に対して。例えば、武者小路実篤「真理先生」(1951年)における馬鹿一の真っ直ぐ直情な正直主義、また武者小路「人生論」(1938年)に見られる誠実実感の主観主義一辺倒で行く明らかな制度規範の欠如、そこに由来する、類のコスモポリタニズムなのに、なぜか種の対国家権力への弱さから来る武者小路自身の個の文学者の戦争責任の重さなど、確かに読んでいて「白樺派はやりきれない」の思いを普段から私は強く抱いていた。本書における「白樺派には制度がない」の指摘は、そういった常日頃からの白樺派に対する読後の私の不満をうまい具合にすくい上げる。

第四章の「日本の超国家主義・昭和維新の思想」に関しては、近代天皇制の超国家主義を国民一般の前では絶対君主のたてまえの「顕密」だが、支配層間では制限君主の申し合わせの「密教」の使い分けの二元論にて論ずる。そして北一輝の国家社会主義と吉野作造の民本主義とを、北が「昭和維新断行」の思想で天皇制権力への集中、かたや吉野は普選運動と貴族院改革を柱の民本主義で天皇制権力の相対化を志向する現象的には一見、全く逆な方向の言説であるにもかかわらず、国民一般に見せる神聖で尊い絶対君主の「顕教」の表看板を下ろさせて実質的な制限君主の機能的一元化の近代天皇制にするという意味にて、両者を「密教による顕教征伐」として無理矢理に同値の等価にまとめ強引に一緒にする。

国民一般に対し「顕教」の一枚看板を一貫して下げきれず、そのくせ舞台裏では露骨に「密教」的な陸軍内部での権力派閥争いに端を発する二・二六事件にて、皇道派の理論的同伴者であった北一輝が「密教の大衆化による顕教征伐」を本当に志向していたのか。果たして北が「密教」の立場にのみ依拠し、国民一般に対し「顕教」の表看板を降ろすことができたのか。「密教」と「顕教」の二元体制を克服する国家社会主義を北は本気で目指していたのか。そもそも明治維新の初めから教化国家たる近代天皇制国家において、国民一般に見せる神聖で尊い絶対君主の「顕教」のたてまえ看板を外すことは原理的に可能であるか。長い間、私は疑問に思っていて果てしなく怪(あや)しく、その所を久野と鶴見の両人に突っ込んで厳しく追及し問いただしたい所ではあるが。何はともあれ、本書での北一輝像については「近代日本思想史講座4」(1959年)に所収の久野収「代表的知性の構造・超国家主義の一原型」という久野による北一輝論があるので、それも併(あわ)せて批判的に読み解く必要があると思う。

岩波新書「現代日本の思想」は、こなれた手つきで日本の思想を斬って斬って斬りまくる久野収と鶴見俊輔の玄人筋な手際(てぎわ)が実に鮮(あざ)やか痛快であり、それが本書の最大の魅力となっている。

(追記─近年、藤田省三による本書の書評「『現代日本の思想』の思想とその書評」(1957年)を読んだ。その中での藤田の本新書に対する「同意と疑問」は、本書にて取り上げられた「現代日本の思想」を内在的に読み解き、それら「現代日本の思想」の思想的伝統から積極的に学んで新たに今日に活かそうとする心持ちが強く、「戦後日本の思想」と同様、もし自分が岩波新書「現代日本の思想」の討論執筆に参加していたら「私ならこう語る」という強い意識が藤田の書評から一貫して感じられて「到底かなわない」。この私の傍観的な書評が無責任で軽薄に思えるほど、この上なく非常に恥ずかしい思いがした。昔の人は「日本現代の思想」から学んで今日状況の中で活かそうとする志向が強い。今の人のように鑑賞や教養のためだけの思想ではないのだ。岩波新書「現代日本の思想」に興味がある方は、是非とも藤田省三「『現代日本の思想』の思想とその書評」(藤田「戦後精神の経験Ⅰ」影書房などに所収)も読んでみて下さい。)