アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(136)小泉信三「読書論」

昔から親や教師や先輩や上司は、若い人に対し「本を読め!読書をしろ!」などと事あるごとに頻繁に言うが、当の若い人にしてみれば何を読んでどう読書をすればよいか分からない。そういったわけで「読書論」という書籍の分野が昔から伝統的にある。例えば、出口一雄「読書論の系譜」(1994年)の書誌研究を読むとわかるが、読書術の書物は実は明治の時代から早くも存在しており、後の大正、昭和を経て現在に至るまで相当数あって、常に幅広く人々に読まれてきた定番の分野であった。

岩波新書の青、小泉信三「読書論」(1950年)は1950年代に刊行の比較的昔の読書術の書籍である。その内容は「読書論の古典」たるに相応(ふさわ)しく、定番で基本の読書の方法論や書物への向き合い方を、大袈裟にいえば読書を介しての人間の(特に若者の)教養人格形成のあり方を述べており、昨今のインスタントでお気軽な速読の読書法伝授の本とは一線を画する非常に重厚で重みのある「読書論」の新書だ。ゆえに本書では「今すぐ早速使えて即効果が出る」ような効率的な読書の方法が書いてあるわけではないのだが、著書の小泉信三が展開する「読書論」の重厚な読み味をまずは噛(か)みしめ味読するというのが、とりあえずの本書の読み方だといえる。

ただ、現在読んでも参考になる「読書論」の方法も本書にて述べられていることは確かであって、その目立ったものを挙げれば次のようになるだろう。

ある程度の多読を重ねた上で「古典」(世間一般から名著として長く読み継がれている書物)を進んで選択して読む(「第一章・何を読むべきか・古典について」)。難解の書に屈することなく、ともかく理解できなくても読み進める。一読で済ますのではなく再読三読する(「第二章・如何に読むべきか」)。外国の書籍を原書で読む。語彙(ごい)を増やし文法規則に従って精読する語学力を養う(「第三章・語学力について」)。読みながら書き入れないしは覚え書きなどしてメモ記述を作成する(「第五章・書き入れ及び読書覚え書き」)。その都度、読みながら観察し後にも読書内容について事あるごとに吟味し思索する(「第六章・読書と観察」「第七章・読書と思索」)。文章を書く際は短く分かりやすく明確に書く(「第八章・文章論」)

読書論を始めとする文章術や勉強法やノート活用法や時間管理術ら、小泉信三「読書論」の昔から、この手の自己啓発書籍は原理的な方法論の提案記述と、その方法がいかに良いもので効果があるか読み手を説得し納得させるための具体的なエピソード記述の二つよりなる。特に後者の具体的エピソード記述において、「その方法がいかに良いもので効果があるか」に書き手の力が入りすぎて必死になると、著書の日常の習慣好みの公開自慢になったり、暗に読者を叱(しか)る説教めいたものになってしまうので読書術など自己啓発書の執筆は難しい。事実、その手の啓発書籍を読んで著書からの自慢や説教に私は、うんざりしてしまうことがよくある。

岩波新書「読書論」を執筆の小泉信三は、福沢諭吉の後継で慶應義塾大学の塾長であった。戦後に当時の皇太子(平成天皇)の教育係まで務めた日本の皇室を支援する熱烈な天皇制支持者の保守であり、同時に「共産主義批判の常識」(1949年)を書いて終生、マルクス主義を徹底的に敵視し続けた強硬な反共論者であった。そのため本書にて望ましい奨励すべき読書術や文章術の具体例は、その多くが小泉が傾倒し心酔してやまない福沢諭吉のエピソードに悉(ことごと)く回収されていく。その他、ゲーテや夏目漱石、森鴎外、志賀直哉も主な手本である。例えば「第八章・文章論」にて、文章作成記述の際の好ましい事例は「短く分かりやすい明確な文章」を常に心がけ実践した福沢諭吉、そうして、その福沢の文章術に対置せられる難解で複雑な好ましくない悪文の事例は共産主義者なのであった。小泉によれば「マルクシストの難文癖」というように。

慶應義塾大学塾長の小泉信三は、どこまでも日本の皇室を支援する熱烈な天皇制支持者の保守であって、同時にマルクス主義を徹底的に敵視し続けた強硬な反共論者だから、本新書は「読書論」がテーマなはずなのに、やはり小泉信三は本論中で他著と同様、またしても執拗に共産主義批判をやっている(笑)。岩波新書の小泉信三「読書論」を読んで、その辺りの「自身の読書法が、いかに良いもので効果があるか」読み手を説得し納得させようと力が入ると、どうしても著者の小泉自身の嗜好や思想の我(が)が強烈に出すぎてしまうのは全編を通しての笑い所か。

だがしかし、本書にて展開されている小泉の「読書論」は理にかなった読書を介しての人間の教養人格形成のあり方を述べており、今読んでも至言である。岩波新書の青、小泉信三「読者論」はまさに「読書論の古典」たるに相応しい。