アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(221)市井三郎「歴史の進歩とはなにか」

岩波新書の青、市井三郎「歴史の進歩とはなにか」(1971年)の大まかな話はこうだ。

人間にとっての「歴史の進歩とはなにか」形式的な理屈をいえば、「進歩」とは時間と共に変わる変わり方が価値的によい方向へと向かうことである。ところが、本書にも書かれてあるが、現代の人類の歴史の「進歩」は、例えば科学技術が発展し確かに私達の生活は昔よりも安楽に便利になったけれども、その反面で科学技術の「進歩」により核兵器の大量殺戮兵器の開発・使用をもたらしたり、公害による健康被害が発生したりした。また私達の便利で快適な生活といっても、それは南北(格差)問題に象徴されるように、先進国の一部の少数の人達だけの安楽や快適さのために発展途上国の大多数の人々の抑圧支配や貧困や安全犠牲の、いわゆる「人間の疎外」状況の上に成り立つ非常に偏(かたよ)った、いびつな世界の発展であり「歴史の進歩」とも言える。ここに一見、繁栄を極め謳歌(おうか)する人間社会の「人間史の進歩のパラドックス(逆説)」があると著者はいう。

よって科学や社会の発展という楽観的な進歩史観に対する「バラ色の尺度への懐疑」が生じ、「いったい人間史の進歩とは何なのか。…人間史の未来の状態とは、いったいどのような価値規準によってよりよい状態なのであるか」(97ページ)という疑問が出てくる。この問題提起を受けて著者の市井三郎は、「歴史の進歩とはなにか」に関する「ある価値尺度の提案」を本書にてなす。すなわち、

「ここでわたしなりに、その試みをやってみることにしよう。…規範倫理学とは、個々の人間の主観的な心地『よさ』=『善』を論ずるものではない。その主観的『よさ』=『善』なるものが、どのようにして相互主観的(つまり社会的)な『よさ』=『善』となりうるか、という問題を解こうとするものなのである。…ある社会の多数の成員の心地よさ=満足=幸福=『善』なるものを間断なく増大させようとすれば、何人かの当の社会の成員は、少なからぬ苦痛をともなう努力をあえてひき受けねばならなくなる。だから問題を解こうとする方向をいわば一八0度転換した方がよいのではないか。人間の歴史的・社会的生活において、より普遍的に経験されているのは、『苦』の方であって『快』ではない。したがって人間社会の規範倫理学は、『快』の総量をふやすことを指向するよりはむしろ、それぞれの時代に特有な典型的『苦』(痛)の量をへらす、という方向へ視座を逆転すべきではないのだろうか」(「第六章・進歩の規準(2)」138・139ページ)

ゆえに「歴史の進歩とはなにか」における、「こうなれば歴史は前進して進歩した」といえる「歴史進歩の価値規準」とは、著者の市井三郎において以下のようになるのであった。

「(人間史全体の進歩を測る尺度としての新しい価値規準とは)不条理な苦痛、つまり各人が、自分の責任を問われる必要のないことから負わされる苦痛を減らさねばならない、という価値理念である」(「第九章・結論」207・208ページ)

これらの論述が本書の要点であり肝(きも)だ。読んでみて、「何をもって歴史の進歩と見なすのか」についての「進歩の価値規準」がよくよく周到に考えられている。つまりは人間社会の歴史の進歩を多くの人々にとっての「善」=よさ、例えば社会の繁栄の心地よさや快適さや利便性の「満足」「幸福」の増進に主眼を置くと、人間社会の仕組みからして、それら「満足」や「幸福」の間断なき果てしない成果を享受する人々と、他方それら人々の「満足」や「幸福」のために奉仕し、疎外され不均衡に不当な苦しみをひき受けざるを得ない不幸な人達が必ず存在するので、まさに「一八0度視座を転換し発想を逆転」させて、各人が自分の責任を問われる必要のない不条理な苦痛を減らしていくことこそが、人間史全体の進歩を測る尺度としての価値規準であると定義する。

これは人間の幸福や繁栄や快適さの追求が「歴史の進歩」とする理念価値が一見が見栄(みば)えよく響きのよいスローガン(標語)のように思えて、その実、それら幸福や繁栄や快適さを享受できる人達がいる一方、それ以外の人々は世界全体や他者の幸福や繁栄や快適さの「満足」のために犠牲になり、抑圧疎外される人間社会の歴史の不均衡的発展の欺瞞(ぎまん)を見事に押さえている。

例えば、今日の資本主義社会の見かけの「華やかな繁栄」の陰には、労使関係にて低賃金・長時間の過酷な職場環境下で労働従事する多数の貧困に苦しむ人達がいて、初めて一握りの富裕層の資本家は「幸福に」存在できる。例えば、先進国の人達の「快適な」日常生活は、発展途上国の人達の日々の過酷な労働や資源・商品の不当で安価な買い叩(たた)きの上に実は成り立っている。例えば、独裁や戦争遂行にて権力を恣(ほしいまま)に行使する絶頂で「幸福な」政治支配者の下には、抑圧され圧政に苦しむ多くの不幸な人民が必ずいる。

人類の一部の人達の幸福・繁栄・快適さの増進の「快」の総量を増やすのではなく、人類すべての人々に対し、各人が自分の責任を問われる必要のない不条理な苦痛を減らしていく「苦」の総量を減らすことこそが、人間史全体の進歩を測る尺度たる価値規準である。「各人が自分の責任を問われる必要のない不条理な苦痛を減らす」とは、生まれながらの貧困や階級差別、非人道的な不当な扱い、圧政と戦災による恐怖や十分な教育を受けられないことからくる「職業選択の自由」が保障されない問題などを改善し取り除くことだ。

市井三郎「歴史の進歩とはなにか」が出版されたのは1971年であるが、2000年代以降の今読み返してみて「現在の日本社会を含む人類の歴史は果たして前より進歩したといえるのか!?」の疑問は起こる。

特に2000年代以降、日本を含め急速に各国地域へ広まっていった新自由主義(ネオリベラリズム)のグローバル経済の世界の中で人々の貧富の格差は広がり、一握り少数の富裕層と圧倒的大多数の貧困層との二極化が着実に進行していった。この世界にて「人類の一部の人達の幸福・繁栄・快適さの増進の『快』の総量を増やすのではなく、人類すべての人々にとっての、各人が自分の責任を問われる必要のない不条理な苦痛を減らしていく『苦』の総量を減らすことこそが、人間史全体の進歩」とする本書にての議論を今一度噛(か)みしめ、現在の人類の歴史の進行の妥当性を再考してみたいと強く思わせる、岩波新書の青、市井三郎「歴史の進歩とはなにか」読後の感想である。