アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(275)務台理作「現代のヒューマニズム」

東映実録のヤクザ映画「仁義なき戦い・代理戦争」(1973年)にて、菅原文太が「仁義のない」ヘタレ極道の室田日出男の親分裏切りの寝返りに激怒し、「おどりゃア男らしくせい!親分がおらんでも最後まで戦うのが極道じゃないんか」と啖呵(たんか)を切る場面がある。哲学者の務台理作を思い出すと、いつも私はこの「仁義なき戦い」劇中での菅原文太の広島ヤクザのセリフが頭の中でこだまする。

務台理作(1890─1974年)というと最近の人は知らないかもしれないが、戦前から戦後にかけて活動した哲学者で、私には非常に懐かしい人である。

務台理作は京都帝国大学文学科哲学科出身であり、在学中から京都学派の哲学者、西田幾多郎の指導を受けた。西田哲学の京都学派はドイツ観念論へ傾倒した日本の哲学学派であるから、務台も戦前はドイツに留学しフッサールに師事して、帰国後はフィヒテ、ヘーゲル、フッサール、ハイデッガーに関する研究論文を執筆した。務台は西田の最後の方の弟子であり、師たる西田からの信頼厚く戦前、西田幾多郎「善の研究」(1911年)の再版時(1921年)の校正は務台が手がけたという。事実、師の西田は弟子の務台の能才を高く買っていた。西田幾多郎は自身の講演旅行に務台を同行させ、就職口も世話した。務台理作の後の回想によれば、「私は先生に割合に信用されていたように思う」(「西田先生と私」)

そもそも京都学派とは何か。今わたしの手元に菅原潤「京都学派」(2018年)なる書籍がある。そこから「京都学派とは何であったか」を引用すると、

「一般的に言って京都学派とは、西田幾多郎が創始し、田辺元がこれを継承して、…西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高といういわゆる京大四天王が展開した西洋哲学研究の学派のことである。ここで挙げた六人はいずれも京都大学を根城にして活動していたので、同大学の所在する土地がグループ名になっている。他方で西田が座禅により思索を深めたこと、また田辺をはじめとする幾人かが仏教に造詣が深かったことと相俟(あいま)って、東西思想の融合が京都学派の課題となった。こうした京都学派の姿勢が太平洋戦争当時の『大東亜共栄圏』のスローガンと結びつき、戦争協力の哲学だと指弾されるようになったわけである」(「なぜ今、京都学派なのか」)

西田幾多郎(1870─1945年)は1945年6月に亡くなった。日本の敗戦のわずか2ヶ月前であった。不遜(ふそん)な言い方ではあるが、西田の死は絶妙なタイミングであった。西田幾多郎は実に無責任で運がよかった。先に引用したように「東西思想の融合が京都学派の課題となった。こうした京都学派の姿勢が太平洋戦争当時の『大東亜共栄圏』のスローガンと結びつき、戦争協力の哲学だと指弾されるようになったわけである」。そうした戦時の京都学派の人達の「知識人の戦争責任」を、戦後まで生き延びずに敗戦のわずか2ヶ月前に絶妙なタイミングで亡くなった京都学派創始の西田幾多郎その人は追及されずに済んだからである。その代わりに敗戦後も生き延びた京都学派の田辺元らが「懺悔道としての哲学」(1948年)など、世論からの強烈な戦争責任の追及と自己反省の強要にさらされ、公職追放されて戦後に隠遁生活を余儀なくされた。

しかし、西田幾多郎の最後の方の直系の弟子たる務台理作は、敗戦を経て京都大学を離れて京都学派から距離をとり、戦後は慶應義塾大学文学部教授に就任したのだった。田辺元や高山岩男らと違って、比較的年少の「若い京都学派」であった務台理作は、師の西田幾多郎の京都学派の哲学は継がず、西田や田辺らの師と先輩の戦争責任の問題を主体的に引き受けずに、さっさと慶應大学に移籍してしまったのである。そうして務台は西田の指導の下、京都学派の伝統であるドイツ観念哲学を戦前にやっていたのに半ばそれを放棄して、戦後はマルクス主義と実存哲学とを折衷した薄味の「ヒューマニズムの思想」に急に転向してしまった。

だから、冒頭のような東映実録のヤクザ映画「仁義なき戦い・代理戦争」での、菅原文太の「おどりゃア男らしくせい!親分がおらんでも最後まで戦うのが極道じゃないんか」の啖呵が、私の中で務台理作に対し常に思い起こされるのだ。務台に関して、いつも私にはこの「仁義なき戦い」劇中での菅原文太の広島ヤクザのセリフが頭の中でこだまする。「こら務台(怒)、おどりゃア親分の西田がいなくなっても親分の跡目の意思を継いで戦後も京都学派として京大に奉職し西田哲学を継承して再建するのが、学者としての仁義の筋道じゃないんか!」の思いである。

そうした思いからして、戦後に京都学派から距離をとり転向して慶應に移った「仁義なき」務台理作よりも、戦後も同志であり師である西田幾多郎の戦争協力の責任を被ったり、西田の意思を継いで京都学派の哲学思索を続けた「仁義ある」田辺元や高山岩男らの方が私は人間的には好きなのである。確かに、戦後の田辺「懺悔道としての哲学」の仕事は全然よいものに思えず、読んで私は少しも感心しないのだけれど。何よりも「田辺元は親鸞を正当に読めていない」の悪印象が私には強く残る。

岩波新書の務台理作といえば、青版の「現代のヒューマニズム」(1961年)があった。戦後の務台の哲学仕事は、戦前の京都学派の西田哲学のドイツ観念論の系譜から、マルクス主義と実存哲学とを折衷した薄味の「ヒューマニズムの思想」に急に転向してしまった感があり、正直読んで私にはそこまで面白くない。務台において、克服されるべきは「人間疎外」の今日的状況であり、それを克服する人間性回復の理念が「ヒューマニズム」の思想に他ならないのであった。務台理作については、岩波新書「現代のヒューマニズム」よりは、一人で西洋哲学の概要を務台が書き抜いた「哲学概論」(1958年)や、自身の学者人生を振り返り、恩師・西田幾多郎の学恩を述べた随筆・講演集の「哲学十話」(1976年)の方が私は好きである。

「ヒューマニズムは、すでに光を失った過去の思想にすぎないのだろうか。破綻したのは個人主義的ヒューマニズムにすぎず、人間疎外が極点に達している現代こそ、人間性回復の転機をふくむものであると著者は主張する。ヒューマニズム思想を歴史的にたどりつつ、現代社会におけるヒューマニズムの意義とあるべき姿を説く」(表紙カバー裏解説)