アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(302)森本公誠「東大寺のなりたち」

華厳宗大本山東大寺は聖武天皇の発願(ほつがん)に始まる寺院である。東大寺といえば、大仏殿に鎮座する盧舎那仏(るしゃなぶつ)が何よりも想起されるに違いない。岩波新書の赤、森本公誠「東大寺のなりたち」(2018年)にも書かれてある通り、東大寺の歴史の隆盛は天平勝宝四年(752)に盛大に行われた大仏開眼供養会(かいげんくようえ)にあった。そこで「東大寺」と「盧舎那仏」について、岩波新書「東大寺のなりたち」にも書かれていない事項も含めて最低限の基本の知識をまず確認しておくと、

東大寺─華厳宗の大本山。総国分寺とも称され、仏教の鎮護国家の思想を具現。伽藍(がらん)は大仏鋳造後、造東大寺司によって789年までにほぼ完成。天下三戒壇の一つ。1180年と1567年の2回兵火で焼失。現在の大仏殿は江戸時代の再建である。

盧舎那仏─「盧舎那」とは光明遍照(こうみょうへんじょう)の意。華厳経の思想に基づき743年、聖武天皇の命(大仏造立の詔)により紫香楽宮で鋳造を開始。のち747年平城京で再開し、大仏師の国中公麻呂らの技術で完成。752年、開眼供養をした。16・1メートル。台座蓮弁の一部は当時のもの。

岩波新書「東大寺のなりたち」というタイトルからして、また著者の森本公誠は東大寺第218世別当・華厳宗管長を務めた東大寺長老であり、本書執筆時には東大寺に入寺して約70年を迎えることから、本新書は、奈良の東大寺を訪れた観光客に観光ガイドが時に自慢げに解説するような東大寺の前史と成立と発展の歴史の顕彰的褒(ほ)め称(たた)え蘊蓄(うんちく)の内容かと思い、そこまで期待せずに読み始めたのだが、これが当初の予想に反してなかなか面白い。東大寺の事績にのみ拘泥(こうでい)することなく、飢饉(ききん)の発生や疫病の流行や天災の続発による律令国家体制崩壊期の受難の中での人心の荒廃、奈良時代の中央政局の争い、例えば東大寺と藤原仲麻呂との間の政争、道鏡の一連の事件を背景にした政権中枢からの仏教勢力の排除を受けての当時の僧侶と寺社勢力の衝撃など、奈良時代から平安時代にかけての時代の様相を「東大寺のなりたち」の歴史に重ねて幅広く書いている。

大仏造立の詔を出した聖武天皇は701年の生まれである。のち724年の天皇即位であり、聖武天皇の在位は724年から749年に及ぶ。聖武生誕の701年といえば、大宝律令が制定された大宝元年に当たる。思えば聖武天皇は奈良時代の律令国家と共に歩んだ天皇であった。しかしながら、律令国家の「公地公民」理念を否定する、私有の土地支配を公的に認めた三世一身法(723年)と墾田永年私財法(743年)の相次ぐ施行により、大宝律令の制定からわずか40年余りの聖武天皇の治世にて、律令体制は早くも行き詰まりを見せる。律令的人民支配のあり方が戸籍を元にした厳格で直接的な「公地公民」の人頭支配の体制から、土地を媒介にしたなし崩しで間接的な負田体制への変質・移行を余儀なくされる律令体制の内部崩壊ぶりであったのだ。

またそうした律令体制の崩壊に加えて、藤原四子による長屋王排斥の長屋王の変(729年)の後に主な治世をなした聖武天皇は、藤原不比等の娘であった光明子を皇后に迎えていることからも明白なように、藤原氏の後ろ楯により支えられた典型的な「藤原系の天皇」であった。事実、長屋王を自害に追い込み政権中枢の座についた藤原四子は、長屋王の変の直後、自分らの兄弟である光明子を人臣初の皇后として聖武天皇につけ光明皇后にした(729年)。ところが、当時流行の天然痘により藤原氏の4兄弟は相次いであっけなく病死してしまう。その後、光明皇后の異父兄にあたる橘諸兄が政権担当する(737年)。そうして橘諸兄が重用した玄昉と吉備真備の排斥を求め、藤原四子の式家の宇合の子、藤原広嗣が九州で挙兵(藤原広嗣の乱、740年)。後に鎮圧される。

これらの事柄はすべて聖武天皇の在位時(724─49年)に起きたことであった。藤原不比等の娘であり藤原四子の兄弟である光明子を皇后に迎え、「藤原系の天皇」として在位した聖武天皇の、藤原四子の相次ぐ不幸な病死、続く橘諸兄と藤原広嗣の「反藤原氏と藤原氏との政争」を目の当たりにした当時の聖武天皇の精神的不安がいくばくのものであったかは計り知れない。そうした「公地公民」理念放棄の律令体制の早々の内的崩壊と、「藤原氏と反藤原氏」とのジグザグの政権担当の政局に翻弄(ほんろう)される聖武天皇自身の権力基盤のゆらぎの私的不安、さらには飢饉の発生と疫病の流行と度重なる天災(地震、津波、噴火、干ばつ)による当時の社会の公的問題から聖武天皇は大仏造立を宣言し、また平城京を離れて恭仁京(740年)、難波宮(744年)、紫香楽宮(744年)への遷都を経て結局は平城京に戻る(745年)という短期の間に異常なまでに頻繁な遷都を繰り返した。これら東大寺の大仏造立や短期間での頻繁異常な遷都が当時の人民に与えた物心両面での負担の犠牲は非常に大きいものがあった。

東大寺の大仏鋳造に際し、「(聖武)天皇がすべての民に参加を呼び掛けた理由」を著者は次のように解説している。

「造立事業にはいわば物心両面のもう一つの側面の解決策も加味されていた。つまり大仏造立にはとてつもない人手がいるが、その意味で造立は墾田永年私財法に続く浮浪人対策でもあったと見なされる。五十一万数千人という大仏造立に参加した役夫の人数がそれを物語っている」(72ページ)

東大寺の大仏造立には「仏教思想による民心の救い」の思想の面からの「仁政」以外にも、現実の浮浪人対策の公共事業としての物理的側面の「善政」も強調する著者である。しかし他方で、困窮の社会的不安の情勢の中で大仏造立のために各地から調達資材の献上を命ぜられたり、役夫として各地から動員させられる人民の物心両面での相当な負担と疲弊も同時に考慮されるべきと思うのだが。

岩波新書「東大寺のなりたち」の著者・森本公誠は東大寺長老の寺院関係者であるためか、大仏造立や聖武天皇の施策全般について、やはり顕彰的褒め称えの論調に偏して不自然なまでに異常に良く書きすぎる。聖武天皇の「大仏発願の動機」に関しても、「責めは予一人にあり」の聖武の言葉を頻繁に引用して、飢饉の発生と疫病の流行と天変地異の続発による人民の困窮と人心の荒廃の当時の社会情勢不安に、天皇ひとりが痛切に責任を感じて施策する「仏教思想による民の救い」たる「安民仁政」の徳治政治の「善政」の面だけを著者は、やたら強調したがる(笑)。奈良時代の歴史の史実に即してみれば、東大寺の大仏造立に関して、飢饉の発生と疫病の流行と天変地異の続発による人民の困窮と人心の荒廃に処する公的仁政の側面だけでなく、天皇個人の権力基盤の不安定さへの私的不安や律令国家体制崩壊に対する為政者の嘆きに由来する大仏造立の意図も、読者は各自補い読み込んで正当に本書の議論に当たるべきであろう。

岩波新書「東大寺のなりたち」を著すに当たり、著者は本書執筆の意図を「東大寺の現代社会にての存在意義」に結びつけ、冒頭で次のように書いている。

「筆者の脳裏に常にあったのは、東大寺は現代社会においてどのような存在意義があるのかという問いかけであった。むろん未来への志向が前提となる。この点、ここしばらくのところ、東大寺のなりたちを知ることにこそ答えの一端があるのではという思いが強くなった」(「はじめに」ivページ)

そうして本書冒頭での、この「未来への志向が前提となる」「東大寺の現代社会にての存在意義」の内容について、著者は「結びにかえて」の本書結語で以下のようにまとめている。

「東大寺の現代、さらには未来における存在意義をその創建期に見出そうと本書を草することを思い至った。そこで改めて『続日本紀』や『東大寺要録』をひもとき、あるいは正倉院文書を閲読して、東大寺を取り巻く奈良時代史の再現を試みたが、…ただ言えるのは、聖武天皇にとって盧舎那大仏の造立はみずからの政治の帰結であること、国分寺建立が仏教による国家の繁栄とそのための人材育成を目指したものであること、『華厳経』を根本経典としながら、大乗も小乗も含め、あらゆる仏教の典籍を研究し尽くして政治に生かすようにと僧侶たちに命じたことである。…われわれはその意義を現代はむろん、未来にまで伝えていかねばならない。そのことを結びの言葉にしたいと思う」(「結びにかえて」217ページ)

著者における「未来への志向が前提となる」「東大寺の現代社会にての存在意義」とは、東大寺の大仏造立や国分寺の建立の聖武天皇の事績を通しての(1)仏教思想による民心の救い、(2)仏教による国家の繁栄祈願、(3)そのための人材育成、(4)『華厳経』を根本経典としながら、あらゆる仏教の典籍を研究し尽くして政治に生かすよう僧侶に厳命することの主に4つの内容になるのであった。

東大寺や仏教思想の「未来的志向を前提にした現代社会にての存在意義」が、そのような民心に向けて安心の救いを提供したり、国家の繁栄を祈願・推進したり、そのための人材育成と人材供出とを積極的になしたり、仏典結集をやって仏典を時代の政治に生かしたりすることに果たしてあるのか。これは日本仏教史を貫く重大な問題の課題(テーマ)である。私の見るところ、インドで仏陀(ブッダ)が覚醒し開いた正統な仏教(思想)は日本仏教史にて、ごく一部の例外を除いて存在しない。世界宗教たる仏教は人間の我執を戒(いまし)め世俗の政治権力(国家)を相対化する「否定の論理」として何よりもあった。個人や共同体の繁栄祈願の人間の欲望充足や祖先崇拝や死者の鎮魂の葬式儀礼をとり行うのは、普遍宗教たる本来の仏教ではない。本来的な仏教は、個人の安心のために祈ったり、現存国家の繁栄を祈願・推進したり、政治参加のための人材育成供給や政治に生かす施策提供などやらない。そのような人間の欲望充足への奉仕や国家繁栄の祈願や世俗政治への参加を積極的にやるのは、祭政一致で呪術的な民族宗教であって、日本の歴史でいえば歴代の神道が伝統的にその役割を担ってきた。しかしながら、日本の仏教は伝統的にそれら個人や共同体の繁栄祈願の人間の欲望充足や祖先崇拝や死者の鎮魂の葬式儀礼の社会的役割を主に遂行して来たのだから、厳密に言って「日本の仏教」は神道化した似非(えせ)仏教であり、「実質的には日本の仏教は仏教ではなくて、もはや神道である」と断じてよい。

以上のような意味で岩波新書の赤、森本公誠「東大寺のなりたち」を貫く、著者により見出された「仏教(東大寺)の現代社会における存在意義」についての主張、すなわち(1)仏教思想による民心の救い、(2)仏教による国家の繁栄祈願、(3)そのための人材育成、(4)『華厳経』を根本経典としながら、あらゆる仏教の典籍を研究し尽くして政治に生かすよう僧侶に厳命することの4つの内容を読むにつけ、「これはもう仏教に関する事柄ではなくて、神道化した似非仏教、実質的には、もはや神道についての現代的意義のトピックなのでは!?」と私は思わずにいられない。