アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(318)清水幾太郎「オーギュスト・コント」

岩波新書の黄、清水幾太郎「オーギュスト・コント」(1978年)のタイトルになっているコントその人について、まずは確認しておこう。

「オーギュスト・コント(1798─1857年)。フランスの哲学者。実証主義を創始し、知識の発展を神学的・形而上学的・実証的の三段階に分けた。コントにより体系化された哲学理論は実証主義哲学と呼ばれ、仮説を排して経験によって確かめられた事柄にのみ知識の源泉を見出だそうとする立場である。コントは、歴史的問題や社会的事象もみな自然現象の一側面と見て、科学的法則で説明することが可能であるとした。もともとコントはフランス革命後には空想的社会主義者のサン=シモンの弟子であったが、その後、師のサン=シモンと袂(たもと)を分かち、自宅で講義を行いながら『実証哲学講義』(1830─42年)を12年かけて書き上げて社会学を創始し、『社会学の祖』としての地位を確立した。しかし晩年には、ある夫人との交際とその死別を経て神秘主義的になり、人類教の宗教を提唱するようになった」

「三段階の法則」の思想にまで至るコントの生涯については、岩波新書「オーギュスト・コント」での「Ⅱ・フランス革命の廃墟に立って」「Ⅲ・王政復古のパリに学ぶ」「Ⅳ・啓蒙思想よ、さらば」の清水幾太郎による各章記述が詳しい。また晩年の、ある夫人との交際と死別を経てコントが神秘的なものへの傾斜を深め、人類教なる普遍宗教を提唱するに至る過程遍歴は、同様に本書「Ⅶ・女神と人類教への道」の章にての記述が詳細である。

岩波新書の清水幾太郎「オーギュスト・コント」は、コントその人の生涯評伝ならびにコントの社会学についての解説記述と、コントを自身の大学の卒業論文テーマに選んで、しかしコント研究をすでにやって清水に卒論指導するような教授も先輩も誰一人いない厳しい環境の中で、コントを読むためにフランス語を一から学び卒論執筆をした著者・清水幾太郎の学生時代の苦労の回顧談と、本新書の執筆に際し事前にフランスへ行きコントの生家跡やコントが住んでいたアパートを清水が実際に訪ねる、コントゆかりの地の訪問記の時制が異なる3つの記述を一読、無秩序にバラバラで無造作に混ぜているように思えて、しかし実は全体の構成や読み手に与える効果を事前によくよく周到に考え、非常に精密に清水幾太郎が一気に書き抜いている。岩波新書「オーギュスト・コント」は様々な時の位相の言説が複雑に多面的に入り交じり、読んで書き手の清水幾太郎の手並みの鮮(あざ)やかさに感嘆させられる。本書は数ある岩波新書の中の評伝で、否(いな)、現在までの歴代の日本の評伝文学の仕事にて、かなりの上位に位置する相当に優れたものである。

清水「オーギュスト・コント」には書かれていない事柄も含め、コントの思想的評価については以下のように導ける。前述のように、コントの社会学は実証主義であり、(1)神学的精神が支配する軍国的段階、(2)形而上学的法律的段階、(3)実証的精神が支配する産業的段階という人間知識の三段階発展説に基づいていた。コントによると、数学、天文学、物理学、化学、生物学と進んだ精神の歴史は社会学で完結していく。何となればコントは「社会」を最も高級な有機体と考えていたからである。ゆえにコントは「社会学の祖」であり「社会学の父」なのであった。このように社会学を創始して「社会学の祖」や「社会学の父」と呼ばれたコントであったが、しかし彼に対する世間の評価はコントの生前の同時代人からも、コント没後の後世の研究者らからしても実のところ、そこまで高くはない。先の清水幾太郎の回想によれば、清水がコントを卒業論文テーマに選んだ際、当時はヘーゲルやマルクス、ジンメルやヴェーバが人気でよく読まれ、清水の周囲ではコントは「嘲笑の的(まと)」であった。「コントを一頁も読んだことのない人々も、また、ドイツ社会学の文献に全く通じない人々も、声を揃(そろ)えて、コントを嘲笑していた」という。

コントの社会学といえば、例えば「体系性」であり、近代諸学を「社会学」の名の下に一つにまとめ上げる総合科学として構想されていた。「体系的な社会科学としての社会学」とは、学問領域の専門分化を廃した「普遍性」への志向のようで一見よくは見えるが、当時のイギリスにて哲学・政治学でホッブズやロック、経済学でスミスを既に輩出し、各分野の専門科学にて時代の先端を走っていた英国の知識人らからして、コントの社会学での学問総合化の試みは、社会科学一般に対する後進国・フランスゆえの各領域学問の隙間(すきま)を無理に埋めるような学術の形式的総合化であり、逆にフランスの思想的後進性を示すものに同時代のヨーロッパ人には(そして現代の私達にも)見えた。

またコントが説いた実証社会学の「普遍性」も、晩年に傾倒した神秘的な人類教のある種の理性宗教への傾斜も、いかにもなフランスの伝統的な大陸合理論の古い宗教哲学の焼き直し(リバイバル)に思われた。コントが生きた時代とその没後のヨーロッパの世界史はフランス革命の経験後であって、理念的な人類教の「普遍性」の希求よりも、革命を経てのフランスの国民国家成立の民衆らのナショナリズムの高揚から、より現実的な自国・フランスの発展利益、同様にイギリスもプロイセン(ドイツ)もオーストリアもロシアも各地域に根差した自分たち各国の特殊性の利益の追求に奔走した。コントが唱える時代の普遍宗教の思想など、自国の発展や覇権の特殊利益を第一とした同時代のヨーロッパ人には、そこまで魅力でなく、むしろ逆に「今さら」の時代遅れな感が少なからずあった。だから、コントの社会学は当時からあまり跳(は)ねなかった。

加えて、コントの社会学に致命的であったのは、彼は歴史の三段階発展法則を主張しはするけれども、各段階への移行が何によるものか、それは人間の精神により規定されるという漠然としたものでしか説明できなかったことにある。ここに至って同時代のへーゲルやマルクスら物事の生成変化を厳格に見極めるドイツ観念論の哲学から、コントの実証社会学は明らかに遅れをとっていた。

確かに、コントの社会学は数学や物理学ら来(きた)るべき社会学による完結以前にあった諸学の科学体系に裏打ちされて「実証哲学(社会物理学)」の全体系を集約する学的領域として「実証的に」位置づけられてはいた。コントは市民社会の危機を克服する政治・経済の学問的知識を含めて、これからの社会の姿を予見し、これを予知し、諸現象を実証する「社会動学」と、現在の社会を分析するための「社会静学」とを社会学の構成要素として提示し、双方からのアプローチを研究の基礎に置いていた。それらコントの実証社会学における「社会静学と社会動学」は、俗にいう「社会の秩序と進歩」と換言してもよい。そして、コントはその社会動学において、必ずしも直線調和的ではない、時に激しい矛盾や対立をはらみながらジグザグに複雑に展開推移していく、人間社会が動く根本の動因を厳しく見定めることができなかった。ヘーゲルにおける「絶対精神の体現による世界史における理性の狡知」とか、マルクスにての「生産様式の矛盾止揚による発展段階説」のような分析提示ができなかった。コントにおける社会の段階変化は、人間の精神により規定されるという極めて漠然とした、しかも矛盾なく理性で進む単純単線的なものであった。コントのこの弱点をして、「マルクスとコントの比較」として従来よく指摘される、「マルクスは歴史社会の発展進歩の動態を重視しているのに対し、コントは市民社会の安定調和の静態に重きを置く」旨の対照評価がしばしば下される所以(ゆえん)である。

こうした秩序の安定を重視するコントの実証社会学の志向(嗜好!)は、本当は生き生きとした人間主体の働きかけを経ての激しい動態変化に満ちた現実の人間世界の社会であるはずなのに、にもかかわらず社会に関するあらゆる事象を漏(も)らすことなく網羅し、あえて標本的に世界を捉え整序し平板記述にて世界を百科事典的に説明し尽くそうとする静的志向(嗜好)、フランスの百科全書派の悪しき伝統を思い起こさせる。かつてのディドロやダランベールら百科全書派の、フランス革命前後の時代にかけてヨーロッパでは明らかに思想的に遅れた後進国であった「祖国フランスの伝統の負の遺産」を後のコントも正統に、順当なまでに愚直に継承したと言うべきか。同時代のヘーゲルやマルクス、後の時代のヴェーバーら他国人の社会思想と読み比べて「残念なことにオーギュスト・コントの社会学は劣る」の、私の結論である。

(※岩波新書の黄、清水幾太郎「オーギュスト・コント」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1995年)が復刻・復刊されています。)