アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(412)小林秀雄「無常という事」(その2)

前回からの続きで、小林秀雄「無常という事」の読み解きをやっている。今回は最終段落を読み切って、いよいよ読解を完成させよう。

「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」

この最後の段落ではタイトルである「無常という事」と「常なるもの」、それぞれの意味内容を理解することが大切だ。ここで小林は、「この世の無常」は「人間の置かれる一種の動物的状態である」と述べている。この「一種の動物的状態」から、前に小林が川端康成に喋った「生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物」という指摘を思い起こそう。さらに「生きている人間」から、冒頭の「一言芳談抄」の短文にて小林が感受した、「美学の萌芽」は「自分が生きている証拠だけが充満・充ち足りた生の時間」であることを押さえよう。

この場合、なぜ「生きている人間」が「美学の萌芽」なのかというと、「生きている人間」は生の現在進行で「動物的状態」で完結していないから、「まさに今、生の美が芽吹いて伸びつつある状態」だから「美学の萌芽」になる。ついで話を先取りしていうと、次に「死んでしまった人間」についての記述が来たときには、死んだ人間はもはや「歴史」で生が完結し終了しているから、「美学の萌芽」とは反対の、すでに完成して「動じない歴史の美しさ」になるであろうことを今の時点で予測ができる。

小林秀雄にとって「生きている人間」も「死んでしまった人間」も「美」であることに相違ないが、生の現在進行か完結かで、美の状態を「萌芽」と「動じない」で対比させ、あらかじめ計算して書き分けている。この小林秀雄の文筆嗅覚の細やかさ、「やはり、この人はプロで一流の書き手だな」の感慨を私は率直に持つ。

さて、「無常」の対義語は当然「常なるもの」だ。先に明らかにしたように「この世の無常」が「動物的状態」の「生きている人間」であり、「美学の萌芽」は「人間の生の充満」であるなら、「常なるもの」は、そのまま反対の対立する内容である。つまりは「常なるもの」とは、小林と川端のお喋りでの「まさに人間の形をしている」「死んでしまった人間」である。この「死んでしまった人間」は、もはや「歴史」であるから、前述予告の通り「解釈を拒絶して動じない歴史の美しさ」とは「歴史の中の人間が、自分が生きている証拠となる充ち足りた時間を過ごし、生の充足持って生きていたこと」となる。これらが「常なるもの」の意味内容になる。以上の点を対立構造の図式にて、まとめて書き出すと、

「無常という事」=「一種の動物的状態・生きている人間・美学の萌芽=現代の人間が現在、生きている証拠の充満、充ち足りた生の時間」
「常なるもの」=「まさに人間の形・死んでしまった人間・解釈を拒絶して動じない歴史の美しさ=歴史の中の人間が、かつて生きていた証拠の充満、充ち足りていた生の時間」

この対立図式での「無常という事」と「常なるもの」の具体的な意味内容を、小林の主張である最後の文「現代人には…」に、それぞれ繰り込んで代入し言葉を補って読む。つまりは、

「現代人には…無常という事がわかっていない」=「現代人は、一種の動物的な生きている人間として、充ち足りた生の時間を過ごしていない。自分が生きている証拠を充満させるような、人間の美学の萌芽を享受する生き方をしていない」。また「常なるものを見失った」=「歴史の中の人間に対して、実際に彼らが生きていた証拠となる、生の充満を感じとることができないため、解釈を拒絶して動じない歴史の美しさを見失った」─(B)

この最後の主張の文を(B)とする。これに前回まとめた主張の(A)を冒頭に置き、かつ小林の「無常という事」における結語の文章を利用して、「現代人は『無常という事』がわかっていないので(原因)、そのために『常なるもの』を見失った(結果)。だから『常なるもの』を見失わないためには、現代の人々は『無常という事』を深く理解し実践するべきだ(強い主張)」という因果関係と強い主張文の文要素の骨格構造にて要旨をまとめる。

いよいよ以下が小林秀雄「無常という事」の要旨である。

「私たちは、歴史に対し、現代の立場から新しい見方や解釈を加えず、当時の人々が生きていた証拠、充ち足りた時間を過ごした生の充満という人間の美しさを心虚しくして無心になって歴史の中から感じとるべきだ。そこに後の時代の人からの解釈を拒絶して、動じない歴史の美しさがある。しかしながら、現代人は一種の動物的な生きている人間として、充ち足りた生の時間を過ごしていない。そのように自分が生きている証拠を充満させるような、人間の美学の萌芽を享受する生き方をしていないので、現代の私たちが歴史に対し、新しい見方や解釈を加えるばかりで、歴史の中の人間が実際に生きていた証拠となる彼らの生の充満の美を感じとることができず、そのために解釈を拒絶して動じない歴史の美しさを見失ってしまった。だから現代の私たちが、歴史の中の人間が実際に生きていた証拠となる、彼らの生の充満の美を感じとって、解釈を拒絶して動じない歴史の美しさを見失わないためには、現代人は、一種の動物的な生きている人間として充ち足りた生の時間を過ごすような、自分が生きている証拠を充満させるような、人間の美学の萌芽を享受する生き方をするべきである」

「無常という事」は一読、文章は抽象思弁的で難しいように思えるが、内容を分かりやすく平たく要約していえば、「現代人のお前らは、新しい歴史の解釈やら理論にばかり夢中になって、かつて懸命に生きて自らの生を充実させてた歴史の中の人間の美しさを何ら分かってやしない。それは、お前たちが今、充実した人生の時間を過ごし懸命に生きていないからだ。美の萌芽を自身の中に育てていない証拠だ。無心に懸命に生きず、自分の内に美の萌芽を育てていないからだ。美しくない現代のお前らに歴史の中の人間の美しさや歴史そのものの美なんて、分かってたまるか!解釈や理論を捨てて、もっと虚心に歴史の魂の美に向き合えよ」といった当時の日本人に対する小林秀雄の嘆きに他ならない。歴史認識の歴史観と、人としての生き方の人生観についての。

最後に念を押し釘を刺しておくが、小林秀雄「無常ということ」だからタイトルの「無常」から仏教の「諸行無常」を勝手に連想して、「人間の生や歴史は無常で移り変わってはかないことを小林秀雄は述べている」などの静寂主義や虚無のニヒリズムを安易に読み込むことは慎むべきだ。世の中に流布している小林秀雄「無常ということ」解釈にて、そこから人生の虚無を強調する勝手な読み込みをやる人が昔から少なからずいるが、小林の文章を正確に読み論旨を厳密に追うなら、小林秀雄の立場は、そうした諦念のニヒリズムとはむしろ真逆で、「無常ということ」を通して「人間の生と歴史の美を積極的に感受すべき」とする前向きの肯定的な主張であることが分かるだろう。

そういったわけで小林の他の作品も読んで、すでに小林秀雄を知っている人にとって「無常という事」は、結局は「何だ、いかにも小林秀雄らしい。まさに小林秀雄的な、小林秀雄の思想が満載だ。いつも通りの相変わらずの小林節が全開だな」と思うだけである。

(この記事は次回へ続く)