アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(472)桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」

(今回は、講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は岩波新書ではありません。)

先日、講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」(1998年)を久しぶりに読んだ。本新書を私は大学時代の1990年代に繰り返しよく読んでいたのだった。本書の著者であり、現代思想のフーコに関する解説書などをよく出していた社会学者の桜井哲夫も、2000年代以降の現在ではあまり名を聞かなくなったが、昔はそれなりに有名で人気があった。ゆえに90年代に発行の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は当時、私の周りではよく読まれていた。

本新書では「自己責任」や「無責任の体系」や「公と私」や「公共性」についての考察が主になされている。私が大学生であった1990年代、20代の頃は、日々の生活、例えば、毎日の食事で何を食べるか・どの飲食店に行くかや、いつも聴くべき・観るべき音楽と映画の選択や、よく乗っているお気に入りのバイクのことや、シーズン毎の新たな洋服の買い物や、知人との交際の成り行きや、時折の遠方へ旅に出る楽しみと同じくらいの割合の重みで、「自己責任論における『責任』とは何か」や「公と私の相違、つまりは『公』という公共性の本来的な意味は何か」などの、現代評論の話題(トピック)が自分の中では常に中心にあったのだった。誠に不思議で奇妙なことに、日々の生活費の金銭のことや、自分が病気になる心配とか己の体力が云々の健康問題については全く何にも考えなかった。そもそも考える必要がなかったし、それら事柄には思考ゼロの皆無であった。これが自分のことながら、人間にとっての輝ける青春の若さの時代の青年期というものか(爆笑)。とにかく、当時20代の私には「自己責任論における『責任』とは何か」とか、「公と私の相違とは何か」といったことが日々の生活の中で、また自身の実人生においても、自分の頭の中で相当な関心・注意を集めるかなりの重要事項であったのである。今にして思えば実に信じられないことであるが(笑)。だから、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」やその周辺の書籍を当時、私はよく読んだ。

桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」の表紙には、「国を挙げての無責任システム、横行する自己責任論。日本社会の病根を根源から問い直す」とある。本新書は以下の2つの議論により構成されている。

(1)「〈自己責任〉とは何か」(昨今の社会的弱者の切り捨てや貧困格差を放置し正当化しようとする「自己責任」という言葉の安易な使われ方の問題。そもそも「責任」とは何か。近代社会組織に横行する個人の「無責任」について)

(2)「『公』と『私』について」(公私の区分とその境界。「公」「公共性」とは何か。中国と日本における『公』、日本における『公』の重層性)

これらのことが、山一証券の廃業問題、住専問題(住宅金融専門会社の損出処理問題)、昨今の恋愛事情、日本の戦争責任、日本の戦後政治体制(「アメリカの影」)、新自由主義改革(規制緩和と行政改革)、ソ連の社会主義、戦時日本の計画経済、阪神・淡路大震災などの時事問題と、林真理子、川島武宜、奥村宏、丸山眞男、岸田秀、溝口雄三、田原嗣郎、柄谷行人、加藤典洋、フーコ、カント、アーレント、ハーバーマス、アダム・スミス、トレルチ、ロールズらの言説の引用紹介を交えて様々に述べられている。その詳細と本書での著者の主張については、実際に各自で本新書を手に取り読んで確認して頂きたい。

ところで、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は、「アマゾン(Amazon)」のブックレビューを参照すると全体に評価はあまり高くない。むしろ、各人ともに評価は低い。昔から私も思っていたが、実は桜井「〈自己責任〉とは何か」には「そこまでよく出来た本ではない」の微妙な評価を抱いていた。考察・論考の内容はそこそこ良いのだが、各文章の書き方や全体的な論述構成や記述の際の段取りが良くない。率直に「著者は本の書き方が下手」と残念に思えるのだった。

後に桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」を読み返す度に、私には、本新書は反面教師な「文章読本」の認識であった。自然と、そのように本書を読んでいたのである。私も当ブログを始めとして日々文章を書くが、私は文章を書くのが下手なので、それなりに上手い文章、読む人の心に残る意味が伝わりやすい簡潔で明解(明快)な文筆とは何か、その方法に思い巡(めぐ)らしていた。自分なりに文筆上達したいと強く思っていたのである。

以下では、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」にて、考察の内容の中身はそこそこ良いのだが、文章記述や論述展開が今ひとつと昔から私には思える本書の残念な点を取り急ぎ5つ挙げてみる。著者の桜井哲夫には誠に失礼で申し訳ないけれども、この逆をやり、それら問題点の失敗を反面教師として各人が生かすことができれば、自然と文筆上達するのでは、また桜井「〈自己責任〉とは何か」の書籍も読み手にとって、もう少し読み味が爽快(そうかい)な評価の高い良著になるのでは、の思いがするからである。

(1)本論が「です・ます」調で書かれているため、幼稚な悪印象を受ける。また「です・ます」調は無駄に字数を使うので文章が長くページ数も多く読ませる割には、中身が薄くなってしまう。一般に評論やレポートら公的な硬い内容の書物では話し言葉の「です・ます」調は避けるべきだ。

(2)「山一証券の廃業問題」や「住専問題(住宅金融専門会社の損出処理問題)」ら執筆当時の1990年代の社会を騒がせた時事問題が本書には、かなりの数、奔放自由に書き込まれている。そのため、後に時間が経って2020年代に読むと、いかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。その書籍が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく制限し厳選し少なくして最低限の書き入れで済ます工夫をしたほうがよい。

(3)著者の見解・主張を傍証する際での、他の人の主張や理論を本論に引き込む際に、そのまま他者の発言や文章を直接引用せず、「私なりに内容を噛み砕いて要約した」式の間接的な引用が本書には多々見られる。このため、どこか著者の主観の独自の解釈が混ざったような不正確な引用にも思えて、本論記述に不審を抱く。引用に際しての著者の文筆に対する信頼度が下がる。他者の発言や文章の引用の際には、「私なりに内容を噛み砕いて要約した」云々の間接引用ではなくて、誤解がないよう直にそのまま原典から引いた方がよい。

(4)多くの話題が盛り込まれており、一つの話題(トピック)から別の話題へと頻繁に話が飛んで次々に話題転換するため、読んで取りとめがなく無駄に議論が拡散し結果、考察が薄められて、読後にも「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味が残る。多くの話題を盛り込み論述展開するのは構わないが、その際には話の変わり目の境(さかい)が読み手に分からないように自然な話の流れを作る工夫や、前に述べた話題や言葉を読み手が忘れた頃に再度出して新たな意味を加えたり、前述内容の意味をあえてズラしたりする「事前に伏線を張って後に回収する」といった、快適に読者に読ませる文筆の技術(テクニック)が本書には欠けている。

(5)いちいち「責任」や「公」の厳密で細かな辞書的意味の引用や、その他、特になくても構わない引用・指摘の解説が論述の中途で雑に多くあるため同様に、無駄に議論が拡散し本書を読んでいて取りとめがなく、「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味が残る。引用や説明の内容を厳選して、より少なく明解に記述する配慮が必要だ。少ない引用と解説の、より簡潔で本質的な本文記述で難なく話が読み手に通じるのであれば、それに越したことはなく、それが最良であり最善である。

そもそも文筆の際には、自分が考えていることを直接的に全て書いてはいけない。全部書かずに、あらかじめ抑(おさ)えて執筆しなければならない。高等余裕で文章を書くのが上手い人は、大概そうする。逆に、低俗で下品な人ほど、自分の考えていることを人前で紙面に全力で全て書きたがる。一般に自身の考えを相手に説得力を持って伝えたい場合、自分が思っていることを全部言葉にして出して言ってしまっては駄目だ。全部言ってしまうと、言外の深まりがなく余裕がなくなって説得力がなくなるから。適度に抑えて、いつも知っていること・考えていること・思っていることの6割くらいしか言わないし書かない、それくらいが説得力の出る、ちょうどよい加減である。しかしながら初心者や低俗・下品な輩(やから)は、クドく全部言って書いて詳しい説明を施さないと相手を説き伏せられない不安に常に苛(さいな)まれるから、全力で知っていること・考えていることを全部明かして自分の手の内を全てさらけ出して、逆に余裕がなく説得力が出ないマイナス印象を相手に与え、勝手に自滅する(笑)。そういう失態を書籍での文筆以外でも、日常的に私はよく目にする。               

講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」も、もう少し議論の話題を整理して、著者が書きたいことをそのまま全部書かずに内容を絞り込んで、より少ない引用と説明の簡潔で本質的な本文記述に徹すれば、読んで「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味の難点は解消されるに違いない。

ただ最後に著者の名誉のために補足しておくと、「〈自己責任〉とは何か」の「あとがき」で著者の桜井哲夫は以下のように書いている。

「この本は、私のいわば義憤から生まれたような本です。言うなれば、現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレットです。そのために、今までの私の著作とは異なった文体を用いました。できるだけ多くの人々に、高校生にも理解できるように書いたつもりです、時事的なパンフレットですから、事実関係に関しては、たくさんの研究者やジャーナリストの方々の仕事に多くを負いました」

なるほど、本書は「私のいわば義憤から生まれたような」「現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレット」であるから、「高校生にも理解できるように」「今までの私の著作とは異なった文体を用い」て「時事的なパンフレットですから、事実関係に関しては、たくさんの研究者やジャーナリストの方々の仕事」を雑多に挙げたのであり、著者としては通常の著作よりも多少は手を抜いて軽い読み物のつもりで「現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレット」程度に書いたという。ゆえに講談社現代新書「〈自己責任〉とは何か」に関し、そこまで真面目に読んで酷評するのは著者の桜井哲夫に対して大人気(おとなげ)ないかもしれない。だが、やはり考察内容の妥当性はともかく、文章記述や構成段取りの面で「もう少し工夫して上手に書けるのでは!? 」の不満の思いが、本新書に対し私は残る。