アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(22)中村明「日本の一文 30選」

岩波新書の赤、中村明「日本の一文・30選」(2016年)は、日本の近代文学から主な一文の名文を30選の厳選にて取り上げ紹介鑑賞しようという趣向の新書だ。表紙カバー裏解説は次のような、ややカジュアルなものとなっている。

「プロの作家が生みだす名表現の数々。たったひと言、意表をつく比喩で、見事な構成で、読み手を唸(うな)らせる。だが感動するばかりでは勿体ない。そこにはどんなテクニックがあるのか?夏目漱石や志賀直哉から現代の藤沢周平、村上春樹まで。読みたい人も書きたい人も、日本語の名案内人の導きで、その技を学んでみよう!」

せっかく「夏目漱石や志賀直哉から」とあるので、ここで試しに「日本の一文・30選」に入っている夏目漱石の名文の一文と著者による名文解説の核心部分をともにを挙げてみる。

「現在連れ添う細君ですら、あまり珍重(ちんちょう)して居らん様だから、其他は推(お)して知るべしと云っても大した間違はなかろう」(夏目漱石「吾輩は猫である」)

「この冒頭に一文を掲げた『吾輩は猫である』からの引用は、…『吾輩』と名のる猫の語り手が、ことばの無駄づかいを楽しんでいる余裕の語り口がおかしみをかもしだす。…まず『現在連れ添う細君ですら、あまり珍重して居らん』と、家族にさえもてない現実を述べ、そのぐらいだから『其他は推して知るべし』と記して、まして他人にもてるはずはない、という意味を感じとらせる。ここで文を切ったとしても十分に婉曲(えんきょく)であり、ことばで細部まで表現せずに、読者が想像で補う余地を残している。ところが、この老成した語り手の猫は、この程度の間接性格では満足がいかないらしく、そのあと、さらに『と云っても大した間違はなかろう』というところまで、表現をもうひとまわりくねらせるのだ。ことばの迂回路をたどる、こういうもってまわった言いまわしが、いかにも尊大な語り口を印象づける。そういう偉そうな主体と、人間が日ごろ小馬鹿にしている『猫』という軽い存在とのあまりの落差、小説の内容とは別に、それが皮相なおかしみとなって広がり、読者を表現の魔術で楽しませるのである」(中村明「日本の一文・30選」)

漱石の一文がなぜ名文の名表現なのか、読み手に説得力をもって伝えるためには、あの一文に対し、これだけの文字と文章を用いて構造分析的に詳細に解説しなければならないとは、名文鑑賞というものは解説する書く方も、軽い気持ちで本書を開いた私を含め読む方にも「誠に酷なものだ」の率直な感慨を持つ。

中村明「日本の一文・30選」に関し面白い所は、本新書を一読のため手に取った読者も、本書を編集販売の岩波新書編集部も、実は本書を執筆の著者も「日本の一文(を)30選」といいながら、「テクニックを会得して作家が生み出すような数々の名文・美文を自分で書いてみたい、ないしはテクニックを伝授して、その種の名文・美文を他人に書かせたい」とする案外下世話な思いを少なからず皆が共有していることだ。名文テクニック伝授を本書のウリにして多くの読者を得たい岩波新書編集部の思いは、例えば帯に記載のコピー「読者をうならせるプロの表現テクニック、感動するにはワケがある!読みたい人も、書きたい人も必読!」の書きぶりから明瞭であるし、同様に著者も本書以外に岩波新書にて「語感トレーニング・日本語のセンスをみがく55題」(2011年)といった日本語トレーニング書籍を出しており、能力開発の「自己啓発文学本」(?)の執筆に前から熱心な方である。

何よりも本書を購読のかなりの読者が、名文の秘密を知って文章の書き方向上に生かす文章講座たる「文章読本」の期待を持って、この書を手にしていると思われ、編集者と著者と読者の意向が案外に下世話な思いで一致し共犯している所が爆笑を誘うし、自身のことに引き付け苦笑もする。そうした文章の書き方の技術能力向上のための元ネタとして、「日本の一文」の名文・美文・名表現サンプルたる「文章読本」という実用的用途で本書に向き合うと、先に挙げた夏目漱石の名文解説を読むにつけ、私は早くも軽く絶望する。というのも、私はこれまでに漱石の「吾輩は猫である」(1907年)を何度も繰り返し読んだけれど、著者が「日本の一文」として引用紹介している文を一度も「名文」と思ったことがなかったので。本該当文の「皮相なおかしみ」名文の「表現の魔術」を発見できず、毎回見過ごし軽く読み流していたから(笑)。

名文や美文が書けるための条件は、常日頃から読み流している雑多な文章群から「どれが名文であり美文であるか」を発見・認知でき、「それがなぜ読み手の心に染み、時に人を感動させる名文の美文たりうるのか」精査分析でき、しかもそれを理論的に筋道立てて説明できて(まさに本書の著者・中村明がやったように)、ゆえに自身が文筆の際には、その名文の美文の仕組みの雛型(ひながた)を遺憾なく活用できるの手順をとる。「何となく読後感がよいので名文」や「それとなく名文と感ぜられる」では全く話にならないのであって、「それがなぜ名文であるのか」を必ず説明できなければならない。そして、夏目漱石の「吾輩は猫である」の「日本の一文」引用の事例から察せられるように(少なくとも私に関しては)、名文・美文の発見認知と精査分析をともに遂行できて一般の人が独力で自在に書いて名文や美文を生み出すことはなかなか困難ではないか。本書を読了後、より一層強くそういった感想を持った。

中村明「日本の一文・30選」には、先の漱石の名文事例のように誰が語り手であるかを踏まえ、しかも「笑い」が一般常識からのズレにより生じる仕組みまで押さえた上で、人間が日ごろ小馬鹿にしてる軽い存在な「猫」が高踏余裕の尊大な口調で長く語りまくることで滑稽のおかしみを生み出すとする内在分析の深いタイプの名文もある。しかし他方で「僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている」(芥川龍之介「久米正雄宛書簡」)といった文を名文とするような、つまりは対立して全く親和性がない、本来は繋(つな)がるはずのない言葉をわざと無理に接続させて、「不幸な幸福の中に」を「たった一言の威力」で「思わす唸る名表現」とする、「結局のところ、名文の名表現を作るにはわざと狙って不親和な言葉同士を意表をついて無理矢理に強引に結びつければ良いのか。『思いやりのある殺意』とか『仲良く喧嘩した』のごとく」などと安易に合点され流用されかねない非常に怪しい表面的な「名文作成実用テクニック(もどき)」が、実際この「日本の一文・30選」の中にいくつかあることも確かだ。著者による名文や美文の分析タイプの内実が玉石混淆(ぎょくせきこんこう)である印象は正直、否(いな)めない。

岩波新書の赤、中村明「日本の一文・30選」を名文・美文・名表現の元ネタサンプル集の「文章読本」として読むにつけ、この新書に続けて改めて谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫らの「文章読本」や本多勝一「日本語の作文技術」(1976年)の文章講座な書籍を今さらながら読み返したい衝動に私は駆られていた。「名表現が満載の名文の美文をスラスラ書けるように文章が上手になりたいなぁ」(笑)。