アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(384)佐々木毅「政治の精神」

岩波新書の赤、佐々木毅「政治の精神」(2009年)を手にしてまず思うのは、著者の佐々木毅が政治学者の福田歓一の弟子であり、また佐々木は東京大学総長(第27代)を務めた人でもあるから、2009年出版の本新書にて当時の日本の政治状況に絡(から)めて、どれほどのことを「政治の精神」として語ってくれるのかということだ。

佐々木毅は東京大学法学部出身の政治学者であり、同東京大学の政治学者の福田歓一の弟子であって、その福田の師は法学部の政治学者で東大総長(第15代)を務めた南原繁であるので、佐々木毅は南原繁の孫弟子に当たり、しかも南原と同じく法学部出身の政治学者として東大総長の重責を務めた人なのであるから、この人は出自と実績ともに相当に期待できるのである。事実、本書「政治の精神」を始めとして、同じく岩波新書「近代政治思想の誕生」(1981年)ら佐々木の著作を読むと非常に優れている。この人は政治学者として極めて優秀である。

佐々木毅の書籍を読んで、今回の「政治の精神」は特にそうだが、内容は言わずもがな、まず文章が良いと思う。社会科学の日本語の書き言葉として無駄に硬く窮屈でなく、また妙にラフで軽くもない。著者の思考や考察を読み手に過不足なく誤解なく精密に伝えるのに社会科学の論述文章として適切であると思う。そこがまずは岩波新書「政治の精神」の読みどころの良さだ。

本書は文章だけでなく、もちろん内容も良い。一般に社会科学は「理論、歴史、政策」の3つの分野からなるとされる。これは大学の専門課程に設置の講義一覧を見るとよく分かると思うが、例えば政治学なら、理論(例えば主権や国民国家や政党らの定義と考察)と歴史(例えばホッブズやロックの政治思想、19世紀イギリスの政治など)と政策(例えば現代日本の外交政策、憲法改正論議、選挙法改正など)の3つの分野に分けて一般に政治学は研究される。岩波新書「政治の精神」は、この3つの分野のうち「理論と歴史」に重きを置いたものだ。政治学における基本概念の「理論」(「政治権力」や「政党政治」ら)を具体的な個々の「歴史」的人物(マキアヴェッリやヴェーバーや丸山眞男ら)の政治に関する言説を適時参照することを通して、著者の佐々木毅は「政治の精神とは何であるか!?」その根本を本質的に明らかにしようとする。そして、その際には現在施策されている日本の現代政治に対してへの直接の批判や提言である「政策」の論述は本書にはない。このことは著者の佐々木が本書の「はじめに」にて直に述べている。以下に引用する「はじめに」の記述の内の「本書は…個々の政策等について論ずることは初めから断念している」の著者の文章をして改めて確認されたい。

「本書は政治を支える精神的基盤・素地と政治的統合というテーマに焦点を当てて政治を論んじたものである。個々の政策等について論ずることは初めから断念している。あまり類書がないこともあって、私自身、どう紹介してよいか自信がない。大学での政治学入門もののように行儀の良いものではないし(型にはまったものではないし)、相当にトゲがある。政治については行方の定めぬ議論がはびこっているが、強いて言えば、本書は政治という硬いようで柔らかい、得体の知れない現実を噛み砕く手助けを志向したものである。噛み砕くのはあくまでも読者であり、出来合いの回答を示すことが私の関心ではない。その意味で本書は大人の読み物である」(「はじめに」)

著者の佐々木毅は、本書にて「個々の政策等について論ずることは初めから断念している」という。かつ「出来合いの回答を示すことが私の関心ではない。その意味で本書は大人の読み物である」。本新書は2009年発行であり、佐々木の本論記述によれば前年の2008年時点までの第1次安倍内閣(2006─07年)、それに続く福田内閣(2007年)、そして麻生内閣(2008年)の自公保守政権を意識しながら「政治の精神」を論じたという。だが、それら2000年代の当時の内閣に対する政権批判や苦言・注文の直接の記述は本書にはない。ただ、そうした日本の現実政治への具体的な「政策」観点からの言説はなくても、「政治の精神」の「理論と歴史」を語ることで、日本の現実政治への批判・注文の「政策」に関する著者の主張が結果として暗に示され読み手に伝わる仕組みになっている。より正確に言って、現政権による与党や内閣や首相個人が独走の強権政治に対する著者の危機意識や、マニフェストを介した今日の政党政治論への提言は、本論全体の趣旨や行間から読み取ることができるのである。

また他方「理論と歴史」の観点についても、先の引用にあるように、本書で中心的に論じられている「政治の精神」とは「政治を支える精神的基盤・素地と政治的統合」であるので、これら二つのものを、政治の「理論」の原理的な掘り下げとマキアヴェッリやヴェーバーや丸山眞男ら「歴史」的人物の政治への言説に依拠し明らかにしている。

ここで著者の佐々木がいう「政治の精神とは何か!?」を一言で簡潔にまとめることは出来ないが、よってそれを把握するために各自本書を熟読してもらうしかないけれども、その根本の柱の一つに、近代政治において個としての存在こそ人間の原点であり、人間個人の政治の思想や立場は多様であって、各人が異なって当たり前であるにもかかわらず、時に政治がそれらを国家政策とか民意の名の下に政治的決断として、人々を疎外し抑圧して無理矢理に統合してしまうような政治の暴力性と不条理さ。だが人間は一定の政治状況下にあって、必ず何らかの意見集約や集団的決定をしなければならないのだから、その政治的決断として時に無理矢理に人間の個を統合してしまう「政治の精神」についての認識の共有を人々の間に促すことが本書の主旨の一つにある。例えば以下のように。

「かくしてまさに政治的統合は意見の相違を前提にして成り立つ概念であるという指摘が如何に自然であるかが理解できよう。従って問題は、先に挙げた試みのようにこうした意見の相違という人間的・社会的現実をなくすことではなく、それを如何に取り扱うか、そのためにどのような工夫をするかに移ってくる。他方から言えば、雑然とさまざまな意見が流通するだけでは、政治的統合に無縁な無秩序に陥りかねず、それを防止することも念頭に上がらざるを得ない。政治的統合はいわば対立なき統一、統一なき対立、この二つの狭間に位置していることになる」(「人間の条件と政治的統合」17ページ)

ここに「政治を支える精神的基盤・素地と政治的統合というテーマ」を内実とする「政治の精神」の根本的矛盾の難題(アポリア)がある。人間個人の政治の思想や立場は多様であって、本当は各人が異なって当たり前であるにもかかわらず、時に政治はそれらを国家政策とか民意の名の下に政治的決断として人々を無理矢理に統合してしまう。これは明らかに政治における「根本的矛盾」であり、その時に強引な政治的統合のあり方は明白に「難題」であるのだ。そうして、この政治的統合を実現させるための現実的な実行力としての政治権力が欠かせないものとして出現してきて、特に民主主義を志向する近代政治においては、そのような強制の要素を持つ政治権力の暴走や腐敗を防ぐために人々は政治権力の制御、それに対する絶えざる批判意識の保持までを射程に入れた「政治と権力の問題」について議論し、「政治の精神」として考えなければならなくなる。すなわち、

「こうした政治的統合が机上の決定に止まるのでは意味がない。それは実行され、更にはそれなりの結果を出さなければならない。従って、その決定に集団のメンバーを協力させ、必要に応じてそれに従わせる権力が欠かせないものとなる(強制の要素)。政治活動が結果との関連で考察されなければならないということから、およそ政治といえば権力と切っても切れない関係にあるという議論が出てくる」(「権力とその制度化」19ページ)

このペースで「政治の精神とは何か!?」についての本書の内容を順次紹介していくと相当に長くなるので(笑)。続きは岩波新書「政治の精神」を各自、読んで確かめていただきたい。

岩波新書の赤、佐々木毅「政治の精神」は、近年の岩波新書でいえば同赤版の杉田敦「政治的思考」(2013年)に内容も読み味も似ている。佐々木の「政治の精神」も杉田の「政治的思考」も相当に読みごたえのある力作の良著であるが、「まぁ両書とも一般受けしてベストセラー人気で売れることはないだろうな」とは私は思う(笑)。

あと佐々木毅は、政治学者の福田歓一の弟子であり、福田は東大法学部の政治学者の南原繁の弟子であって、その南原の弟子には政治学者の丸山眞男がおり、福田と丸山は二人とも南原繁の兄弟弟子であった。佐々木の「政治の精神」は冒頭の第一章より丸山眞男の論文からの引用がなされ、本新書には丸山の言説が頻繁に引用紹介されている。私は政治学者の福田歓一のファンで、誰もが丸山眞男に言及しまくる昨今の丸山眞男論ブームにいい加減うんざりしていたので、「おい佐々木(怒)、お前は福田の弟子なんだから丸山眞男の著作ではなくて、師の福田歓一の書籍から引用し話を広げて岩波新書『政治の精神』を執筆しろよ」と正直、思わないこともなかった。

「複合的な危機のなか、政治が融解している。問題の核心は何か。政治を支える精神的な素地をどこに求めたらよいのか。マキアヴェッリやトクヴィル、ウェーバー、丸山眞男らの思索を手がかりに、政治という営みの本質について、原点に立ち返って吟味。政治家のみならず、政治を取り囲む人々の精神、さらには政党政治の条件について考察する」(表紙カバー裏解説)