アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(476)原武史「『昭和天皇実録』を読む」(その2)

近代日本における「昭和」は、大正天皇の死去(崩御)を受けて、昭和天皇が践祚(せんそ・天皇の位を受け継ぐこと)した1926年に始まる。この時、昭和天皇(天皇裕仁)は弱冠25歳。以後、昭和の時代の日本は急激に戦争にのめり込んで行く。1931年の満州事変を契機に日本の大陸侵出はより本格化し、1937年には中国との日中戦争に突入して、さらには1941年に対米英戦である太平洋戦争も同時にやり、果てしなく戦線は拡大して大日本帝国は戦禍の泥沼に自ら深くはまり込んでいった。そうして遂にはアメリカによる本土爆撃、二度の原子爆弾投下を受けて、1945年の日本の敗戦に至る。

この状況には、昭和の時代に入って以降の帝国陸海軍の軍部の政治的拡大があった点が前よりよく指摘される所である。すなわち、昭和の以前は「政治と軍事」は内閣と陸海軍の間で互いに独立不干渉であり、その原則が守られていた。それまでの帝国陸海軍は、軍事専門の基本的には国政には不介入の立場を取る非政治的な組織であったのだ。しかし昭和の時代に入ると、軍部が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝(どうかつ)をやり、時に二・二六事件のような軍事クーデターまで起こし倒閣して軍みずからが政治を動かし、軍本体が組織として急速に政治化していった。

確かに、昭和期以前の明治・大正の時代から「統帥権の独立」があり、帷幄上奏(いあくじょうそう)にて軍が倒閣をなしたことはあった。しかし明治・大正の陸海軍は、あくまでも陸軍大臣と海軍大臣が参加の内閣の傘下にあって、軍は天皇や元老・重臣、政治家や文民の制御(コントロール)支配下にあったのである。そうした「軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないこと」の原則が初めて破られたのが、昭和の時代に入ってからであった。ゆえに極度に政治化した軍部の国策としての戦争衝動の軍事的暴走を、天皇を始めとして元老・重臣も政治家も外交官ら官僚も結局は誰も止めることが出来ず、前述のように、昭和の時代の日本は日中戦争や太平洋戦争の開戦を次々となし、さらには果てしなく戦線拡大して戦禍の泥沼に自ら深くはまり込んで、やがて大日本帝国は敗戦の自滅に至るのだった。

そして、このように軍が急速に政治化して、陸軍大臣と海軍大臣は時の内閣に所属の一員であるにもかかわらず、軍への天皇や元老・重臣、内閣や官僚ら文民の制御(コントロール)支配が効かなくなった最初の重大な転換の契機が、張作霖爆殺事件の現地での陸軍の首謀者の処罰問題、すなわち、内地の陸軍参謀本部を始めとして内閣も、軍隊の統帥権を有する「大元帥」である天皇ですら、軍紀(軍人の紀律)維持の下、現地での軍事工作に独断専行した関東軍の現場責任者に対する処罰を誰もなし得なかった事案にある、と私には強く思えるわけである。

確かに、この張作霖爆殺事件後の現地の陸軍への処罰問題対応の曖昧(あいまい)さを以て、これ以降、軍部は目に見えて増長した。以後、「軍は軍事に関連すること以外は政治に介入しないこと」の従来原則は破棄され、陸海軍が組織として国政に積極的に介入し、現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝を繰り返して軍みずからが政治を動かすようになっていった。この昭和史の大きな節目の転換契機である張作霖爆殺事件が起こったのは1928年、昭和天皇の践祚からわずか二年後の間もない頃であり、当時の天皇裕仁はまだ27歳の若い君主であった。

張作霖爆殺事件とは、北京から汽車で奉天に引き揚げてきた北方軍閥の指導者、張作霖が日本の関東軍により爆殺された事件である(1928年)。張作霖は「満州軍閥」「奉天軍閥」ともいわれる北方軍閥の巨頭であり、日本の支援により満州を統一。後に北京政界に進出するも、蒋介石の北伐軍に圧迫され、北京から敗走の中途で日本の関東軍の謀略により列車とともに爆殺されたのだった。関東軍は、日本と親密な張作霖の爆殺を蒋介石の国民革命軍の仕業によるものと見せかけ、それを口実に南満州に侵進し占領しようとしていた。そのため、張作霖の暗殺は日本軍の仕業であることは絶対に知られてはならず、首謀者の関東軍参謀の河本大作大佐らへの処分は大してなされなかった。当時、張作霖爆殺事件の真相は隠され「満州某重大事件」とされた。張作霖の爆殺は、内地の内閣と陸軍参謀本部からの決定・司令はなく、現地の関東軍の独断専行による計画・決行の明らかな軍事的暴走であった。このことを受け、張作霖爆殺事件に際して首相の田中義一は、諸外国からの日本への国際的信用を保つためと「軍紀維持」のため、河本ら事件容疑者を軍法会議にかけ厳罰に処するべきとして、その旨を天皇に上奏した。だが結局は陸軍の強い反発に遭(あ)い事件関係者を処罰できず、事後の対応は実質は処罰なしに等しい放置のままに終わったのである。

軍法会議によって容疑者を厳罰に処すると前に主張していたにもかかわらず、首相の田中義一は、関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇に再度上奏したため、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問し、「田中の言うことはちっとも判らぬ。再び話を聞くことはない」旨を述べた。これを侍従長を通して聞いた首相の田中は涙を流して恐懼(きょうく)し、田中義一内閣は、張作霖爆殺事件の事後処理に失敗して事態の混乱を招き、昭和天皇の信任を失って総辞職した。

この時の昭和天皇の首相・田中義一への詰問と激怒の様子を、関係者である岡田啓介の回想から引こう。岡田啓介は田中内閣に入閣して当時、海軍大臣だった人である。後に首相在任中に二・二六事件で岡田は陸軍青年将校らに襲撃されるも、間一髪で難を逃れた人でもあった。

「陛下は、田中が読み上げる上奏文をお聞きになっているうちに、みるみるお顔の色がお変わりになり、読み終わるや否や『この前の言葉と矛盾するではないか』とおっしゃった。田中は、恐れいって『そのことについては、いろいろ御説明申し上げます』と申し上げると御立腹の陛下は、『説明は聞く必要がない』と奥へおはいりになったそうだ。田中はうちしおれて帰ってきて、閣議でこのことを話しすると、…はじめから真相をただすというきっぱりした態度でやればよかったんだ。そういうことをしないでおいて、今さら騒いでもしかたがない。しかし田中は、政友会の連中に励まされて、あくまで御説明申し上げようと参内、ふたたび拝謁を願いでると、そのときの侍従長は鈴木貫太郎だったが、気の毒そうに、『お取りつぎはしますが、おそらくむだでしょう』といった。こうなってはもはや陛下の御信任を失った、と思わざるを得ない。田中は辞職を決意してすごすごと引きさがった」(「岡田啓介回顧録」1950年)

実のところ、首相の田中に対する昭和天皇の詰問、叱責の発言は史料によりそれぞれに違っている。ここで引用した「岡田啓介回顧録」では、「この前の言葉と矛盾するではないか。説明は聞く必要がない」となっているが、他の回想録らの史料では、例えば原田熊雄「西園寺公と政局」(1950年)は、昭和天皇は田中に対し「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と言ってに奥に入り、そして侍従長の鈴木貫太郎に向かって「田中総理の言うことはちっとも判らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ」と言われた、となっている。また細川隆元「田中義一」(1958年)では天皇が田中に「政治上の責任はいったいどうするのか」と叱(しか)ったという話もある、と書かれており、保阪正康「昭和天皇」(2005年)には「初めに言ったことと違うのではないか。それで軍紀は維持できるのか。もう田中の言うことは聞きたくない」と激しく叱責した、となっている。田中義一に対する昭和天皇の具体的な発言はそれぞれに多少異なっているのである。これは「岡田啓介回顧録」が「…だったそうだ」という伝聞記述になっていることからも明白だが、いずれも各人が田中が参内して天皇に上奏する場に侍立していない、つまりは誰もその場に実は居合わせていない、そのことから「昭和天皇は田中にこう述べたらしい」の伝聞憶測の各人記述になったと考えられる。

しかし、近年「昭和天皇独白録」が公開され、実際に昭和天皇が田中義一に何と言ったか、その発言内容は当事者の昭和天皇の「独白」回想により明らかとなった。「昭和天皇独白録」とは、昭和天皇が戦前と戦中の出来事に関し敗戦後の1946年に側近に対して語った談話をまとめた記録である。この「独白録」が作成されたのは敗戦間もない1946年であったが、それが公開されたのは昭和天皇没後の1990年であった。これは発言者の昭和天皇みずからが述べているのであるから、その場に居合わせていない周囲の者による伝聞や憶測ではなく、当事者本人による極めて信頼性ある証言といえる。以下、昭和天皇の首相・田中義一への詰問と激怒の様子を当事者である昭和天皇自身の「独白」回想から同様に引こう。先に引用の「岡田啓介回顧録」のそれと読み比べて頂きたい。同じ上奏の場面であるので大体は同じであるが、田中へ向けての昭和天皇の発言内容が岡田らの回想の他史料とは微妙に異なっている。

「この事件の主謀者は河本大作大佐である、田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事で、たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云う事であった。そして田中は牧野(伸顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云ったそうである。然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、…日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終った。そこで田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であった。それでは前言と甚だ相違した事になるから、私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした」(「昭和天皇独白録」1946年)

ここでの「辞表を出してはどうかと強い語気で云った」の田中に対する天皇の叱責は、これまでの側近の回想にはない証言であり、かつ当時の発言当事者の昭和天皇の「独白」回想であるためかなりの信頼性があり、極めて重要である。これは決定的であると思う。昭和天皇は田中義一に対し、「それでは前と話が違うではないか」の詰問に加えて、「辞表を出してはどうか」の内閣退陣まで直々に言及したのであった。昭和天皇が直接に「辞表を出してはどうか」と強くいい、田中義一は恐れ入って内閣総辞職したというのが事実である。

上述のような、田中義一の上奏に際しての一連の天皇発言があって、田中内閣は総辞職した。狭心症の既往があって健康問題にもともと不安があった田中に、張作霖爆殺事件の処理で天皇の不興を買ったことはやはり心身に応(こた)えた。総理退任後の田中は、あまり人前に出ることもなくふさぎがちだったという。そして内閣総辞職から二ヶ月後に田中義一は急性の狭心症により死去した。65歳没(田中の急死には既往の狭心症によるもの以外に、傷心の上での自殺説もある)。

このことを受けて昭和天皇は、自身が田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか田中義一を死に追いやる結果になったかもしれないことを痛感し、(後述のように)以後は内閣の方針に不満があっても口を挟(はさ)まないことを決意したという。

田中義一は、かつて日清・日露戦争に従軍し、特に日露戦争では陸軍屈指のロシア通として頭角を現した。また田中は山口出身だったため同郷の軍閥(長州閥)で元老の山県有朋の後ろ盾もあって、陸軍大将を経て後に政界に進出し立憲政友会総裁となり、昭和初期には内閣総理大臣にまで上り詰めた人物であった。張作霖爆殺事件の事後処理に失敗して事態の混乱を招き、昭和天皇の信任を失って内閣総辞職した時、田中義一は65歳。他方、その田中を厳しく叱責して「辞表を出してはどうか」と田中に退陣を「忠告」した昭和天皇は、践祚してわずか三年目のまだ28歳の青年君主であった。だからこそ、後の昭和天皇の「独白」回想にて、「こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう云い方をした」というような、若い時分の「若気の至り」の自身を責めるやや悔恨の語りになっている。先の「昭和天皇独白録」の続きを引こう。

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っても裁可を与える事に決心した。…田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、 『ベトー』(註─vetoで「君主が大権をもって拒否または拒絶すること」)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云うが『ベトー』は云わぬ事にした」(「昭和天皇独白録」)

張作霖爆殺事件の事後処理に絡(から)む田中義一内閣総辞職の一件を経て、これ以降、昭和天皇は内閣や軍部の決定に「不可」をいわない自身の意見を直接に表明しない沈黙する天皇、イギリス式の「君臨すれども統治せず」の立憲君主を志向するようになっていった。同時に、そこには天皇を始めとして、誰もが表立った意思表示はせず、皆がその時々の日和見主義な無責任で、そのため事態はなし崩しに勝手に進んで行き、ゆえに事後の問題責任も誰も積極的には取ろうとはしない「無責任の体系」たる近代天皇制の精神的病理を社会全体に蔓延させる結果となった。他方、張作霖爆殺事件の事後にて、現場の関東軍に対し実質は処罰なしに等しい大甘の事態収束に終わったため、これ以降、軍部は目に見えて増長した。現場での軍事暴走による事後追認要求や恫喝を繰り返して、軍みずからが政治を動かすようにやがてはなっていった。特に大陸前線の満州では、関東軍は張作霖爆殺事件の「前例」に味をしめて行動をより先悦化させていった。昭和の時代が進んで極度に政治化した軍部の国策としての戦争衝動の軍事的暴走を、天皇を始めとして元老・重臣も政治家も外交官ら官僚も、もはや誰も止めることが出来ない状況に次第になっていったのである。

してみると、このように軍が急速に政治化して、陸軍大臣と海軍大臣は時の内閣に所属の一員であるにもかかわらず、軍への天皇や元老・重臣、内閣や官僚ら文民の制御(コントロール)支配が効かなくなった最初の重大な転換の契機が、張作霖爆殺事件の現地での陸軍の首謀者の処罰問題、すなわち、内地の陸軍参謀本部を始めとして内閣も、軍隊の統帥権を有する「大元帥」である天皇ですら、軍紀維持の下、現地での軍事工作に独断専行した関東軍の現場責任者に対する処罰を誰もなし得なかった事案にあった、とやはり私には強く思えるのである。