アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(296)佐久間充「ああダンプ街道」

岩波新書の黄、佐久間充「ああダンプ街道」(1984年)の概要はこうだ。

「建築資材や埋立てに使われる山砂の主産地、千葉県君津市ではこの二十年、丘陵が次々に削られ、一日に四千台も通るダンプカーが沿道住民に騒音、振動、交通災害や粉じんによる健康破壊をひき起こしている。その実態を精力的な調査によって初めて明らかにするとともに、合計千キロ以上の同乗によって聞き出した運転手たちのホンネを伝える」(表紙カバー裏解説)

より詳細に言って、本新書刊行時の1980年代から高層ビル建設や道路敷設の大土木工事増加のコンクリート使用にともない、多量に必要とされるのが「砂」である。コンクリートの成分をみると65から70パーセントは砂、砂利、または砕石の、いわゆる「骨材」と呼ばれるものである。したがって首都圏においても膨大な量の砂が必要とされてきた。そうして砂の大半を供給してきたのは、千葉県君津市を中心とする一帯であった。この地方では山砂の採掘により丘陵が次々に姿を消した。

問題は、その山砂の輸送の仕方である。馬車が通っていた狭い砂利道にダンプカーが走り出した頃、住民は物珍しさも手伝って見守っていたが、いつのまにか交通量は1日4000台にもなっていた。沿道の所々には民家や商店が密集している。ダンプカーが巻き上げる砂ほこりで民家もダンプカーも見えなくなり、日中でもダンプはライトをつけ住民は戸を閉めて電灯をともす日々が続いた。後に道路はようやく舗装されたが、今度はダンプカーの荷台からこぼれ落ち、そのタイヤで細かく摩(す)りつぶされた山砂の粉じんや排気ガスによる黒い粉じんが、ダンプ通過の激しい風圧をともなって沿道を覆うという状態が続いている。アルミサッシ戸が役に立たず粉じんは屋内に入り、ついにはタンスの中まで汚れる家もあるという。

そこで著者は現地の実態調査(全世帯訪問調査)に乗り出し報告をまとめている。その内容は、「二・ダンプ公害を検証する」「四・舞う粉じん、住民の肺へ」「五・深刻な被害が浮き彫りに」の各章にてダンプ公害による住民被害として詳しく紹介されている。騒音、振動、粉じん、泥はね、じん肺(粉じんを吸入することで肺に生じる繊維増殖性変化を主体とする疾病)、交通事故(家屋破壊、負傷、れき死)などである。それら環境・健康被害が「ダンプ街道」沿道にて日常的にある。本新書には文章だけでなく写真掲載もある。未読な方に「ダンプに飛び込まれた佐宗商店」(131ページ)や「狭い道路をわがもの顔で走るダンプにおびえる子ども」(191ページ)の実態被害の写真を、ぜひ本書を手に取って見てもらいたい。

加えて本書の出色(しゅっしょく)は、そうした街道住民の被害以外にもダンプカー運転手らの言い分に触れているところだ。「三・『ダンプ野郎』たちの言い分」の章がそれに当たる。著者は合計1000キロ以上、複数のダンプカーに同乗し運転手たちから彼らの言い分も聞き出してルポに収めていく。「ダンプ野郎」について、ある山砂の採取業者が言う、「ダンプの運転手というのは、タクシーも、平ボテつまり普通の大型トラックもつとまらない者が多い。計算がにが手で、月々の売上げも満足に把握していない者もいる。そのうえ過当競争で、自分のことばかり考えるから買いたたかれてしまう」。

ダンプカー運転手には採取場から港まで1日に何度も往復輸送する「船積み」と、時に過積載の違反承知で積めるだけ積んで東京方面に遠乗りし1日「一発」(一往復)で稼ぐ「一発屋」があるという。これら「船積み」も「一発屋」も出稼ぎダンプの車体持ち込みの個人事業主が主で、白ダンプの無許可事業者の新規参入も多い。ダンプ運転手の労働組合も大して機能せず、どんどん安値で輸送を受け過当なダンピング(安値)競争となり結果、業界運転手の皆が貧しくなってしまう。安価な輸送運賃では燃料費やトラック車体購入のローン返済もできないから、「船積み」では、より安価な発注を受け入れて往復輸送の量をこなさなければならなくなる。早朝から夕方まで、確実な安全輸送よりも出来るだけ多くの回数をこなすために、沿道で交通事故の危険を伴う高速運転を強いられての採取場と現場の往復である。そして深夜には東京方面への「一発屋」もやる。こうした過当競争と低賃金と長時間労働。それによるダンプ運転手を取り巻く安月給、借金体質、超過勤務、健康被害、危険運転。取材を受けたダンプ運転手いわく、「もうからないどころか、赤字にしないだけで精一杯だ」。

見えてくるのは、「ダンプ野郎」の彼らも現場での末端の労働者であるということだ。「ダンプ街道」にて確かに被害者は沿道住民であり、住民は日々昼夜を問わず騒音、振動、交通災害や粉じんによる健康被害に悩まされ苦しめられている。だが、他方で現場の加害者であるダンプ運転手らも沿道住民への公害を気にするどころか、皆が赤字の脅威におびえ借金で破産寸前、身体を壊しながら日々稼働する苦境の中にあった。

「路面での取締りも不可欠であろう。しかし、問題の根源は山砂の生産、輸送、消費のしくみそのものにあり、ダンプ公害もそこから副産物として発生している。したがって問題を本質的に解決するためには、山砂の需要供給体制についての全般的な再検討が必要なのである」(「山砂の需給体制にメスを」)

このような著者による問題提起が本書の中で再三に渡り繰り返し述べられている。路上現場でのダンプのスピード規制や過積載の取り締まり、公害防止協定の法規制の場当たり的な対応以外のこと。すなわち、無理な開発計画、低予算での施工、早計な工事日程、それによる末端現場のダンプカー運転手らの苦境と疲弊。そうして副次的にそこから発生する「ダンプ街道」住民のダンプ公害の全体構造が、本書では明らかにされている。本新書刊行時の1980年代には、羽田空港拡張埋め立て工事や東京湾横断道路計画や横浜「みなとみらい」計画ら、大量のコンクリートを必要とする数多くの都市開発プロジェクトが目白押しであった。

また著者は、千葉県君津市にて「山砂採取業者と国会議員、県会議員、市会議員との関係は密接である」という。君津の市会議員には山砂採取会社の経営者や役員が多くいて、議会における山砂関係の勢力は強い。他地域と異なり、千葉の自治体がダンプ公害に対し、過度で低予算で早急な無理筋の「開発そのものの是非」や「ダンプ輸送の根本的あり方」にメスを入れず本腰を上げずに、その場しのぎの場当たり的対応で済ましている現状に、「山砂採取業者と国会議員、県会議員、市会議員との関係は密接である」とする癒着(ゆちゃく)の構図を指摘した最終章での「業者と政治家と住民と」の記述が、岩波新書の黄、佐久間充「ああダンプ街道」は公害問題告発のルポとして特に優れている。