アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(393)江口圭一「1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか」(その2)

(前回からの続き)1941年12月8日の日本のアメリカ・ハワイへの真珠湾攻撃に始まる日米間での太平洋戦争は、なぜ起こったのか。日米開戦の回避を目指した日本とアメリカとの日米交渉が不和に終わり、太平洋戦争が勃発した主要な理由を以下に挙げてみる。

(3)「日米交渉の最中、対米強硬派で開戦論者の東条英機が首相になり東条内閣が成立したため、日本の対米開戦は確定事項で、日米交渉自体が対アメリカの開戦準備をひそかに進める日本による時間稼ぎのカモフラージュなのでは、の対日不信感を以後アメリカに終始、強く抱かせて日米交渉を形骸化させた」

1941年4月より、日米開戦の回避を目指した二国間の国交調整たる日米交渉は開始されていた。この日米交渉の最中、1941年10月に東条内閣が成立する。東条英機は、対米強硬派で日米開戦を強く主張した帝国陸軍の中心人物である。こうした対米強硬で開戦論者の東条英機が首相になり、東条内閣が組閣されたことは、日米交渉の協議継続中であるにもかかわらず、日本の対米開戦は確定事項で、日米交渉自体が対アメリカの開戦準備をひそかに進める日本による時間稼ぎのカモフラージュなのでは、の対日不信感を以後アメリカに終始、強く抱かせることになった。東条内閣の組閣は「戦争回避に向けた日米間の交渉協議はすでに決裂」の外交メッセージを日本側から暗に発する、日米交渉での明らかな日本の悪手であった。

日米交渉の協議時、日本国内では対米に際し開戦決断の宣戦か外交交渉継続での戦争回避か、つまりは「戦争か平和か」で揺れていた。事前の「対米諜報」にて「日本の国力はアメリカのそれの20分の1」という現地アメリカからの調査報告が日本に届いていた。もしあるとして圧倒的な国力差により、今般のアメリカとの戦争で日本が勝利する見込みは絶望的でほぼ皆無の「日本必敗」であった。日米交渉時に第二次(1940年7月─41年7月)と第三次(1941年7月─10月)の近衛内閣を組閣し、外交対応していた首相の近衛文麿は「米英との戦争は無謀」とみて断然、外交交渉で妥協を重ねての戦争回避の主張であった。他方、第二次と第三次近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機ほか、特に陸軍は「対米英戦怖るるに足らず」の強硬な主戦派だった。

日米開戦の二か月前の1941年10月、近衛の手記に次のような記述がある。対米開戦の決定を強硬に迫る陸相・東条英機との会談にて(より正解には開戦前の日米交渉にて米国との妥協を提案した近衛に対し、東条が強硬に近衛の妥協案を拒否して「国家存亡の場合には目をつぶって飛びおりることもやらねばならぬこともある」と発言したことを指すのだが)、東条が「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と言ったのに対し、首相の近衛は「個人としてはそういう場合も一生に一度や二度はあるかも知れないが、二千六百年の国体と、一億の国民のことを考えるならば責任の地位にあるものとして出来るものではない」と答えたという。日米開戦の政治決定にあたり、「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りる覚悟で」云々の出たとこ勝負の実に無責任極まりない東条英機である(笑)。

近衛文麿という人は、五摂家筆頭の近衛家当主であり、その正統高貴な家柄と貴族のプライドを兼ね備えたエリートで、それゆえ得体の知れぬ世上の大衆人気があった。しかし、当の近衛は八方美人、優柔不断、無責任、中途の投げ出しで政治家としての胆力とリーダーシップが決定的に欠けていた。同時代人からの近衛評価も後の歴史的評価にしても、近衛文麿に対しては「無能で駄目な政治家」という低評価が衆人の世評にて一致する所なのであった。その近衛からさらに冷静に理知的にたしなめられる東条英機である(笑)。日米開戦の決断に際して、「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りる覚悟で」云々の東条英機は、軍人としても政治家としても相当に非常識で狂気な人だと私は思う。

恐ろしくも戦時の日本は、かような東条英機が日米交渉の最中に内閣総理大臣になり組閣してしまうのであった。東条内閣以前の近衛内閣時には、日米交渉をスムーズに進めるため、首相の近衛文麿は第二次近衛内閣の外相の松岡洋右を中途で外すべく一度内閣解散し、わざわざ松岡洋右を外相更迭した上で再度、第三次近衛内閣を組閣し直すほどの慎重さだった。松岡洋右は日本の国連脱退(1933年)時の日本全権代表であり、また後の日独伊三国軍事同盟締結(1940年)時の外相でもあった。アメリカ提案・主導の国際連盟とワシントン体制の集団安全保障体制の日本によるぶち壊し、ならびに日本がドイツの枢軸国側に付いて連合国側のアメリカとの敵対姿勢を鮮明にした数々の対米強硬実績が松岡にはあった。こうした松岡自身の自己についての対米強硬実績の自信から、日米交渉の過程で米国に対し事あるごとに激昂(げきこう)し、閣内にいて暴走状態にあった松岡洋右は、アメリカよりすれば「非常に組みにくい交渉相手」と見なされていたからだ。そのようにアメリカから警戒され、アメリカにとっては要注意人物であった終始一貫して対米強硬な松岡洋右を日米交渉を進めるに当たり中途で更迭する交渉相手国への配慮の余裕が、まだ東条内閣以前の近衛内閣時の日本にはあった。ところが、1941年10月の太平洋戦争開戦の二ヶ月前に日本は対米強硬派で開戦論者の東条英機を前面に出して首相にし、東条内閣を成立させてしまう。

日米交渉下での東条内閣の組閣は、「日本の対米開戦は確定事項で、日米交渉自体が対アメリカの開戦準備をひそかに進める日本による時間稼ぎなのでは」の対日不信感をアメリカに終始、強く抱かせて以後の日米両国の交渉協議を不透明にし形骸化させた。事実、東条内閣組閣直後の1941年11月の時点で早くも日本は内々に日米開戦の決意を固め、11月より帝国陸海軍は戦闘態勢に完全移行して水面下で対アメリカ戦の戦争準備に入っていた。東条内閣成立以降の日米交渉は、開戦準備を進める日本によるカモフラージュの時間稼ぎ、いわゆる「欺騙(ぎへん)外交」であって、何ら実効力のない形式だけの外交交渉でしかなかったのである。

(この記事は次回へ続く)