アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(392)江口圭一「1941年12月8日 アジア太平洋戦争はなぜ起こったか」(その1)

1941年12月8日の日本のアメリカ・ハワイへの真珠湾攻撃に始まる日米間での太平洋戦争は、なぜ起こったのか。太平洋戦争(1941─45年)に至るまでの直近の歴史射程でいえば、開戦前年の日本の日独伊三国軍事同盟(1940年)の締結が、後に開催される日米交渉(1941年4月─11月)を進めるに当たり、日本とアメリカの両国にとって非常に大きな障壁となった。

「日独伊三国軍事同盟」とは、日本とドイツとイタリアの三国が欧亜(ヨーロッパとアジア)における指導的地位を確認するもので、第三国からの攻撃に対しては日独伊が相互に援助するという自動参戦条項がこの同盟には定められていた。「日米交渉」とは、太平洋戦争開戦前夜の日米開戦の回避を目指した日本とアメリカとの国交調整のことである。日独伊三国軍事は、日本が独伊の枢軸国側に付き、ドイツ・イタリアと対立している連合国側のイギリス・フランス・アメリカと敵対することを意味した。例えばヨーロッパ戦線にて、仮にドイツがアメリカから攻撃を受けた場合、この三国軍事同盟に基づき日本がアジア・太平洋地域の後方よりアメリカに攻撃を加えてドイツを援助することもあり得るわけである。そのため、もともと英仏の連合国側にあって、後に対ドイツで第二次世界大戦に正式参戦を果たすアメリカからすれば、日米交渉にて日本と外交交渉を持って戦争回避の議論を詰めながらも、しかし前年に締結された日独伊三国軍事同盟により中途で日本が交渉を放棄して日米開戦の決断をするのでは、ないしは日米交渉自体が対アメリカの開戦準備をひそかに進める日本による時間稼ぎのカモフラージュなのでは、の対日警戒感を絶えず抱きながらの日本との協議となった。

現代の日本人には、太平洋戦争前夜のアメリカは、大統領のフランクリン・ルーズベルトを始めとして当時のほとんどのアメリカ人が、欧米の白人至上主義の考えからアジアの日本人を嫌悪し最初から敵対心を燃やして、アメリカが日本を戦争挑発し日本を一方的に追い込んで、あたかも日本の側から進んで戦争決断するよう巧妙に仕組んだように頑(かたく)なに思い込んでいる人が多いけれども、それは歴史的に見て正確ではない。日米開戦時のアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトは、駐米大使となり日米交渉を担当した野村吉三郎とは旧知の間柄であり、親日派の面もあった(だから日米交渉の担当はルーズベルトと交流のあった野村吉三郎がなった)。また日米開戦時の駐日アメリカ大使で、首相の近衛文麿や外交官時代の吉田茂らと親交を深めた大の親日家で知られたジョセフ・グルーは、日本の日独三国軍事同盟締結の一報を聞いた際には「絶望」の口吻(こうふん)を洩(も)らすほどであった。

太平洋戦争開戦前夜の状況にて、当時のアメリカ人は実は、そこまでステレオタイプ(紋切りイメージ)で欧米人の白人至上の立場からアジアの日本人を見下すことはなかったし、最初からアメリカが日本に対し、あからさまな敵意や好戦衝動を有して戦争を仕掛けたがっていたわけでもない。むしろ、日米交渉前の日独伊三国軍事同盟(1940年9月)により日本がナチス・ドイツの枢軸国のファシズム陣営に加わったことで、すでに孤立主義から脱し「反ファシズム=民主主義の擁護」を標榜して、もともと英仏の連合国側にあった、後に武器貸与法(1941年3月)にて対ドイツで第二次世界大戦に実質的参戦を果たすアメリカは、日独伊三国軍事同盟の自動参戦条項に依拠した形での日本からの対アメリカ宣戦布告を絶えず警戒して疑心暗鬼にならざるを得なかった。このことから両国間で協議を重ね事前に太平洋戦争の日米開戦を回避しようとする旨の日米交渉は、その開催前から決裂の可能性が極めて高い、日本とアメリカの同意が相当に困難な非常に難しい外交交渉であったのだ。

以下、太平洋戦争の日米開戦に至るまでの直近の過程を簡略な年表にて確認しておこう。

1940年9月・日本軍の北部仏印進駐
1940年9月・日独伊三国軍事同盟(※これに対しアメリカは航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の措置)
1941年2月・ABCDライン(包囲網)の強化
1941年4月・日米交渉の開始(41年11月まで)
1941年7月・日本軍の南部仏印進駐(※これに対しアメリカは在留日本人の資産凍結、石油対日輸出禁止の措置)
1941年10月・東条内閣組閣
1941年11月・アメリカの「ハル・ノート」提示
1941年12月・日本軍のアメリカのハワイ・真珠湾攻撃により日米開戦、太平洋戦争(1941─45年)

さらに、日米開戦の回避を目指した日本とアメリカとの日米交渉が不和に終わり、太平洋戦争が勃発した主要な理由を以下に挙げてみる。

(1)「日米交渉以前に日本が日独伊三国軍事同盟を結びドイツの枢軸国側に付いたため、連合国側にあったアメリカから絶えず対日警戒され、アメリカの異常な対日不信感の中での戦争回避を目指す異様な雰囲気下での日米交渉の開催・継続となった」

前述のように、日米交渉(1941年4月─11月)より前の、日独伊三国軍事同盟(1940年9月)にて日本がナチス・ドイツの枢軸国のファシズム陣営に加わったことで、「反ファシズム=民主主義の擁護」を標榜して、もともと英仏の連合国側にあった、後に武器貸与法(1941年3月)にて対ドイツで第二次世界大戦に実質的参戦を果たすアメリカは、日独伊三国軍事同盟の自動参戦条項に依拠した形での日本からの対アメリカ宣戦布告を絶えず警戒して疑心暗鬼にならざるを得なかった。そして日独伊三国軍事同盟に日本が調印したのは、そもそも日本と中国との間での日中戦争(1937─45年)の長期化の泥沼にその一端は由来している。

盧溝橋事件(1937年)を発端とし、宣戦布告のないまま「事変」という形で日本は中国との全面戦争に突入した。この日中戦争にて日本軍は上海戦で中国軍を撃破した後、中華民国の首都・南京を占領したが、国民政府の蔣介石は重慶に拠点を移しての徹底抗戦の構えであった。「南京を陥落したら戦争は日本の勝利で終わる」当初の日本側の見通しは外れ、日中戦争はなかなか終結せず長期化を強いられた。この時、イギリスやアメリカが蒋介石を軍事援助するために、物資輸送路としてインド・東南アジアから中国へ延びる「援蔣ルート」があった。蒋介石の国民政府の戦争継続の原動力である英米からの援助物資の輸送路たる援蔣ルートの遮断と日本の南進を目的に、1940年9月に日本軍は北部仏印進駐(北部フランス領インドシナ半島のハノイへの進軍・進駐)を行う。そして、この4日後、日本は日独伊三国軍事同盟の締結に至る。それは第二次世界大戦のヨーロッパ戦線にて、ドイツ軍のフランス侵攻がナチス・ドイツの圧倒的勝利に終わりパリが陥落して、ドイツとフランスの間で独仏休戦協定(1940年6月)が結ばれた、このフランスのドイツへの敗北を北部仏印進駐の南進の好機と日本が見たからだった。1940年の時点の第二次世界大戦の初戦のヨーロッパ戦線ではドイツが対英仏で戦勝を重ね、断然ドイツに有利な戦況にあって、同盟国の日本はそうしたドイツ快進撃の「勝ち馬」にアジアの後方から乗る形であった。

太平洋戦争終結直後の東久邇(ひがしくにのみや)内閣にて外相を務め、日本代表の全権として降伏文書に調印した重光葵は、戦時より駐英大使の任にあって、重光は日英関係が悪化する中での関係好転や英国に対し蒋介石政権への援助中止要請に尽力する一方、ヨーロッパ情勢に関して多くの報告を現地から本国に送っており、彼の情報は非常に正確なものであったという。その重光が、圧倒的国力差から日本は軍事衝突を伴う英米との対決は絶対に回避するべきであり、日本は協調外交(強硬外交に対立する外交立場で、日本の大陸進出に際し英米との武力的対立を避け、中国に対しては内政不干渉方針をとる外交政策をさす。その上で経済的には中国市場の拡大と満州の特殊利益の維持をはかる政策立場のこと)に徹して、「欧州戦争に日本は絶対に介入してはならない」と再三、ヨーロッパ現地から東京に打電していた。にもかかわらず、日本本国の軍部と政府は北部仏印進駐を果たし、その4日後には日独伊三国軍事同盟に調印してナチス・ドイツの枢軸国側に付く外交に出てヨーロッパ戦線に介入し、日本は連合国側のアメリカ・イギリスとの対決姿勢を鮮明にしてしまう。日本の日独伊三国軍事同盟締結(1940年9月)に対抗して、アメリカは航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の措置(1940年9月)に出た。さらにはABCDライン(包囲網)の強化(1941年2月)を行い、アメリカとイギリスと中国とオランダの4か国による対日包囲網を形成した、

(2)「日米交渉の最中、日本軍が南部仏印に進駐しても、アメリカからの石油対日輸出禁止の対日強硬措置や対日参戦の表明はないと日本の軍関係者が根拠なく思い込み、日本にとってのみ誠に都合が良い情勢判断にて、日本軍の南部仏印進駐が対米時局に与える影響を日本が相当に軽く、完全に甘く見積もっていた」

1941年4月より日米開戦の回避を目指す日米交渉は開始されていた。この日米交渉の最中、1941年7月に日本軍は南部仏印進駐を果たす。日本の南部仏印進駐は、石油やアルミ資源ら戦略物資の調達のための南部仏印(ベトナム南部)への日本軍の進軍・進駐であり、これは1940年9月の北部仏印進駐に続く日本の南進政策であった。この南部仏印進駐は「東南アジア一帯を支配しようとする日本の計画的進出の第一歩」とアメリカから懸念され、アジア・太平洋地域の安全保障に関し欧米各国には植民地地図を塗り替える軍事的脅威と見なされた。以前の北部仏印進駐と今回の南部仏印進駐とでは軍事的意味合いが明らかに異なる。これは当時の東南アジアの勢力分布を実際に地図上で確認してもらえば分かる。北部仏印とは違い、南部仏印にまで日本が進軍し進駐してフランスに取って代われば、英領インドと英・オランダ支配のマライ・スマトラとアメリカ統治のフィリピンに日本が進出のベトナム南部が地形上、直に接していることから、第二次大戦下での連合国の英米蘭と枢軸国の日本が対峙することとなり、両陣営のアジア・太平洋地域での緊張・衝突は免れ得ないからだ。

1941年7月の日本軍の南部仏印進駐の時点で、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線にてアメリカは対ドイツで連合国の一員として実質的に既に参戦していたが、他方で太平洋戦線に当たる日米間の太平洋戦争はアジア・太平洋地域では、まだ始まっていなかった。日本は南進政策を進めるに当たり、アメリカの対日参戦を誘発しない「南進の限界」を定めていた。それが「南部仏印まで」であった。なぜか「アメリカの対日参戦を誘発しない南進のギリギリの限界ラインは南部仏印まで」と南部仏印進駐を果たした当時の日本の軍関係者には根拠なく広く信じ込まれていた。例えば以下は、南方進出を強く主張した当時、海軍省軍務局第1課長であり、帝国海軍にて対米強硬派の一人であった高田利種の「日本の南部仏印進駐の軍事的判断」についての戦後の音声インタビューでの率直な語りの一部である。

「南部仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったんです。わたくしも南部仏印までは良い、良かろうと思っていた。根拠のない確信でした。わたしも誰も外務省の意見を聞いたわけでもないが、何となく皆そう思っていた。南部仏印くらいまでは良かろうと。これは申し訳ない、本当に申し訳なかったです」

この回想発言は軍事の専門家として非常にお粗末だと思う。「南部仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったんです。わたくしも南部仏印までは良い、良かろうと思っていた。…何となく皆そう思っていた」。戦争回避のための日米交渉の最中、日本軍が南部仏印に進駐をしても、アメリカからの対日強硬措置や対日参戦の表明はないと日本の軍関係者が根拠なく思い込み、日本にとってのみ誠に都合が良い安易な情勢判断にて南部仏印進駐を行い、日本軍の南部仏印進駐が対米時局に与える影響を日本は相当に軽く、完全に甘く見積もっていた。軍事地理学上の観点から見て日本の南部仏印進駐での南ベトナム進出は、日本と米英蘭のアジア・太平洋地域での接点対立を強めるのに十分であった。事実、日本の南部仏印進駐はアメリカの対日姿勢を硬化させ、この日本の南部仏印進駐に対しアメリカは在留日本人の資産凍結(1941年7月)と石油対日輸出禁止(1941年8月)の強硬措置に出る。

1941年8月までの日本軍の作戦方針は「南北併進」であった。帝国海軍が主に南方進出の南進政策を、帝国陸軍が北方進出の北進政策をそれぞれ担っていたのである。特に北進に関して、満州・シベリアへの更なる進出は帝国陸軍にとっての日露戦争以来の念願であり、陸軍は関東軍特種演習(1941年7月、対ソ戦に備え満州に70万人の兵力を結集。軍が対ソ武力行使を計画し大動員した作戦準備)を行い、対ソ連の開戦準備を進めていた。ところが、日本の南部仏印進駐が対米時局に与える影響を日本が完全に読み違えて、アメリカからの石油対日輸出禁止の強硬措置を招いたことから、これを境に帝国陸軍内部では北進よりも南進政策が重視されるようになる。やがて陸軍は対ソ戦から対米英戦の方針へ転ずる。

当時、日本は石油の75パーセントをアメリカから輸入しており、日中戦争ら各戦線はアメリカの資源に頼って戦争遂行していた。日本の南部仏印進駐に対抗する、アメリカによる石油供給停止の経済圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。1941年8月からのアメリカの石油輸出全面禁止で日本国内での石油備蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になり自滅すると陸軍を中心に対米強硬論が台頭し始める。この帝国陸軍内部での対ソ連の北進論から対米英の南進論への転回に感化されて、日本の南部仏印進駐が招いたアメリカからの石油対日輸出禁止を恨(うら)みに思う日本国内世論の高まりもあって、対米開戦の決意も辞さない好戦的雰囲気が、日米交渉継続下にもかかわらず、日本の方から日に日に激しくなっていった。

(この記事は次回へ続く)