アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(382)加藤周一「羊の歌」

岩波新書の青、加藤周一「羊の歌」(1968年)に関し、昔から私は思っていたけれど本書は読んで、そこまで面白くはない。今回、本新書についての文章を書くので久しぶりに読み返してみたが、やはり面白くなかった。

加藤周一「羊の歌」は「わが回想」というサブタイトルがあるように、文芸批評家の加藤周一の回想記である。なぜ加藤周一の回想記である「羊の歌」が私には面白くないのかといえば、それは本書の書き方がよくないとか内容がつまらないということでは決してなく、単に私が加藤周一という人に興味がないからだ。私が中高生の頃、ミュージシャンの矢沢永吉の自伝「成りあがり」(1978年)が人気で周りの同級生らは熱心に読んでいたし、私も当時一応は読んだけれど、そんなにつまらないことはなかったが、逆にそこまで面白いとも思えなかった。それは私が矢沢永吉の音楽を聴いていなくて、矢沢のことをあまり知らなかったし、そもそも矢沢永吉という人に興味も関心もなかったから。ここから世に出回る自伝や回想の自分語りの書物について、次のような公理が導ける。

「自伝や回想の自分語りは、そもそも自伝や回想にて語られるその人に興味や関心がない、当人のことをより積極的にもっと知りたいと思わない読者にとっては、どんなに優れた作品であっても良作や名著にはならない。だから自伝や回想の自分語りの書物は、内容の出来はあまり関係なく、どんなに良く書かれていても、それへの高評価には必ずしも直結せず、逆に下手で駄目な文章や内容であったとしても、その語られる自伝・回想の人物に強い興味・関心がある熱心な読者であるなら、もうその人物に関しての文章であるだけで読者にとっては相当な確率で良作や名著になってしまう」

繰り返しになるが、加藤周一「羊の歌」は「わが回想」という副題があるように、文芸批評家の加藤周一(1919─2008年)の回想記である。本書タイトルが「羊の歌」となっているのは、著者の加藤周一が「羊の年に生まれたから」であり、また「(自身の性格が)おだやかな性質の羊に通うところなくもないと思われたからである」らしい。

本新書は「祖父の家」の章の加藤の生まれた家の出自から始まり、「八月一五日」の最終章の日本の敗戦までで終わる加藤の回想である。1945年8月15日の日本の敗戦時、加藤周一は26歳の青年であり、東京帝国大学医学部を卒業の後、東京帝国大学医学部附属医院(現在の東京大学医学部附属病院)に配属された。敗戦直後に加藤は、日米原子爆弾影響合同調査団の一員として被爆の実態調査のために広島に入って原爆被害の実際を見聞したという。

加藤周一という人は、文芸批評を後にやって文学論や日本文化論や近代化論やヨーロッパの芸術や日本の戦争責任や反戦平和の思想や護憲運動らに関心を持って幅広く文筆し発言しているけれど、もともとこの人は医師であり、東京帝国大学医学部を卒業の秀才だから、医師で理系出身ならではの簡潔で分かりやすい文章を加藤周一はいつも書く。私が高校生の時の国語教科書や大学受験の現代文の評論問題に加藤周一はよく採用され、10代の頃から私は加藤の文章をよく読まされた。加藤周一が国語教科書や大学入試の評論出題で昔はかなり頻出の定番であったことに、いつも私は納得の思いがする。要するに加藤周一の文章はひねりや屈折のクセがなく簡潔で分かりやすく、また評論の内容も無難で常識的であるため教科書や入試問題の教育素材(教材)に適しているのである。そうして、この点が「加藤周一の文章は簡潔で分かりやすすぎて無難で常識的な内容で毎度、読んで面白くない」と私には昔から一貫して感じられた。岩波新書「羊の歌」を始めとして、世間的には昔から評価の高い加藤の「日本文学史序説」(1975年)なども、以前に私は相当に期待して読んだけれど正直そこまでの名著だと思えなかった。

そうした、少なくとも私には昔からあまり触手が伸びない加藤周一の著作である。岩波新書「羊の歌」も同様に、加藤周一の生家や幼少期の思い出や青少年期の回想のエピソードを読んでも、私はもともと加藤周一その人にあまり関心興味がないのだから、そこまで面白いとは思えないのだが、あえて私にとっての加藤周一「羊の歌」の読み所は、個人形成史的な加藤周一その人のことではなくて、若い時分の加藤が直に目撃したり体験した歴史的事件や同時代の人物の方であった。

例えば本新書の「二・二六事件」の章は、本書の中で例外的に私には面白い。「二・二六事件」という1936年2月26日に発生した陸軍皇道派青年将校らが首相官邸や警視庁などを襲撃し一時的に占拠した前代未聞のクーデター事件が、私には非常に興味深いのだ。そして、しつこく何度も書くが、その際に加藤周一のことは私にはどうでもよいのだけれど(笑)。二・二六事件が発生した時、加藤は17歳で都内在住、東京府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)に在学中であった。このクーデターの歴史的事件を同時代人として加藤青年は直に経験していた。以下、岩波新書「羊の歌」から「二・二六事件」発生当日の加藤周一の記述を引こう。

「ある雪の日の朝に、父は早朝の放送で、陸軍の将校のクー・デタのことを聞いた。『子供は学校へ出さない方がよいかもしれないな』と父はいった。受信機のまえに集まった家族は、やがて蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、陸軍教育総監渡辺錠太郎という人々、またおそらくは首相岡田啓介が殺されたということ、また反乱軍の部隊が、首相官邸や議事堂のある永田町附近を占領しているということを知った。『学校へ行かなくてよかったね』と母はいった。しかしその後まもなくはっきりしたように、たとえ永田町にちかい学校へ出かけていたとしても、母の心配したように中学生の身上に何ごとのおこり得るはずもなかったのである。占領部隊は赤坂見附で交通を遮断していたので、その朝登校した中学生たちは、銃剣を構えた兵士と談笑し、『とにかく帰れ』といわれて、それぞれの家に帰った」(「二・二六事件」112・113ページ)

この後、東京府立第一中学校を卒業し、加藤周一は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部)に進学する。そこで加藤は矢内原忠雄の講義を受けている。矢内原忠雄といえば、キリスト者で無教会主義の内村鑑三の弟子であり、東大教授で戦時に日本の帝国主義政策を批判し反戦思想を展開して、東大退職を余儀なくされた近代日本における教養主義の知識人の範ともいうべき人物であった。加藤周一がその矢内原忠雄の講義に出席した際、二・二六のクーデター事件に絡(から)めて、軍部大臣現役武官制の復活をテコに近い将来やがては来るであろう議会否定の軍部独裁への憂慮を矢内原が教壇の上から若い学生たちに語ったという以下の記述も、また岩波新書「羊の歌」の中で私には特に印象深い。

「第一高等学校へ入った私は、その頃、理科の学生のために設けられていた『社会法制』という矢内原忠雄教授の講義を聞いた。一週間に一時間の講義で、社会制度の技術的な詳細を語ることは不可能だから、矢内原先生は、議会民主主義の最後の日に、その精神を語ろうとされたのかもしれない。内閣の軍部大臣を現役の軍人とするという制度を利用することで、陸軍は責任内閣を実質的に麻痺させることができる、と矢内原先生はいった。『なるほど陸軍大臣がなければ、内閣はできないでしょう』と学生の一人が質問した、『しかし議会が妥協しなければ、陸軍もまた内閣をつくることができないわけですね。陸軍が内閣を流産させたら、政策の妥協をしないで、いつまでも内閣の成立しないままで頑張れないものでしょうか』。顔を机にふせて質問をじっと聞いていた矢内原先生は、そのとき急に面をあげると、しずかに、しかし断乎とした声でこういった、『そうすれば、君、陸軍は機関銃を構えて議会をとりまくでしょうね』。─教場は一瞬水を打ったようになった。私たちは、軍部独裁への道が、荒涼とした未来へ向かって、まっすぐに一本通っているのを見た。そのとき私たちは今ここで日本の最後の自由主義者の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じた。二・二六事件の意味はあきらかであり、同時に私にとっては精神的な勇気と高貴さとが何であるかということもあきらかであった」(「二・二六事件」114・115ページ)

当時、学生であった加藤青年らは「軍部独裁への道が、荒涼とした未来へ向かって、まっすぐに一本通っている」時代状況の中で、「今ここで日本の最後の自由主義者の遺言を聞いているのだということを、はっきりと感じ」て、教壇よりの矢内原忠雄の言葉を受け止めたというのだ。これら「二・二六事件」の章にてのクーデター事件発生当日の記述と、矢内原忠雄の大学講義での話のそれは岩波新書の青、加藤周一「羊の歌」の中で例外的に、どうしてなかなかよい回想記述であると私には思えた。

「『現代日本人の平均に近い一人の人間がどういう条件の下にでき上ったか、例を自分にとって語ろう』と著者はいう。しかし、ここには羊の歳に生れ、戦争とファシズムの荒れ狂う風土の中で、自立した精神を持ち、時世に埋没することなく生き続けた、決して平均でない力強い一個性の形成を見出すことができる」(表紙カバー裏解説)