アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(239)武者小路実篤「人生論」

戦前昭和に出版された岩波新書の赤、武者小路実篤「人生論」(1938年)に関しては、「まさか君は武者小路の『人生論』を真面目に読んで、今更ながら人生の極意を学びたいなどと本気で考えてはいないだろうね」と思わず釘を刺したくなる衝動に毎度、私は駆られる。

それは戦前昭和に出された岩波新書の赤、矢内原忠雄「余の尊敬する人物」(1940年)に関しても同様だ。「よもや君は矢内原の『余の尊敬する人物』を人生の手本として掲載人物から何か人生の極意を学びとりたいなどと本気で考えてはいないだろうね」と。武者小路「人生論」も矢内原「余の尊敬する人物」も、共に戦時中に出版されているのは偶然ではない。

岩波新書「人生論」の本文中に「自分は生まれて五十三年と何ヵ月になる、その間自分は人間として生きて来た」という記述がある。本書を執筆時、武者小路実篤は53歳であった、武者小路「人生論」は、全部で「六四」のセクションからなる。漢数字を振っただけであり、タイトルは付されていないが、それぞれの項目で内容ごとに分けて「人生論」が展開記述されている。本書にて武者小路により語られる「人生論」の主な内容を書き記すと、次のようになろう。

「人間生命の不思議─健康─仕事─金銭─性欲─恋愛─死─仕事─道徳─言葉─女性・恋愛─人間の生命力と人類」

武者小路実篤は「白樺派」に属する近代日本の文学者であった。白樺派といえば、性善説、正直告白、誠実主義、理想主義、人道主義、芸術至上、文化教養主義、コスモポリタニズムといった評価がよくされる。武者小路「人生論」にても、そうした白樺派の徳目が遺憾なく発揮されている。特にキリスト教に由来する「天職」観念の使命感的な「仕事の遂行」に引き付けて、人生における勤勉、正直、誠実の各種美徳が説かれるのが武者小路「人生論」において常である。例えば以下のように。

「人間はこの世に一人で生きていられるものではない。だから人間は協力するようにつくられている。受けつ与えつ、与えつ受けつが、人間相互の関係だ。与える計りが人間の能力ではない。個人の力は弱すぎるのだ。与える力は少ない。しかしその少ない力を他人の為に働かすので、又他人の力を受け入れることができるのだ。又他人の力を受け入れるので、自分の力を与え得るのだ。…共に社会の為に働き、国家の為に働き、又人類の為に働く、それで始めて世界の平和が来るのだ」(「一七」)

「何かに役に立つと言うのはどういう意味であるか。つまり我等は我ら個人の為に生きているのではなく人類の生長の為に生きている。…人生のためと言ってもいいかも知れない。つまり人間の価値を高める仕事が個人に与えられているのだ。つまり自分や他人の生活の為、生命の為に役に立つ仕事をすることを命じられているのである」(「三四」)

「僕は人類が生長する一つの方法として、自分の天職を何処までも掘りさげ、又進歩させたものをほめる。仕事によっては代償もあり、尊敬の程度に差はあるが、しかし前人未到の世界へはいりこめた人はほめていいと思う」(「四九」)

ここで私が指摘したいのは「現実の時代状況に対する思想言説における抽象度の問題」だ。上記の引用にて「世界の平和」「人類の生長」「自分の天職」の「人生論」の各教訓が武者小路実篤により力説されている。しかし、これらはあまりにも漠然としすぎており、抽象度が高く現実の時代状況と乖離(かいり)している。にもかかわらず、一見「折り目正しい」人生の徳目であり、誰もが容易に否定できない事柄であるだけに何となく「人生」の美徳として分かったつもりにさせられてしまう。だが「世界の平和」や「人類の生長」や「自分の天職」というのは、戦時中の総力戦体制下で書かれ主張されたものであってみれば、それは戦時の文脈にて国家への積極的な戦争協力の国民動員の内容にもなりうるし、敗戦後の戦後民主主義の時代に現代の私達が読めば、それは国家を超えた普遍的価値の反戦平和への献身にもなりうる。

戦時下の総力戦体制下においては、国家への戦争協力こそが日本国民として「世界の平和」「人類の生長」に貢献して帰する道であるとか、同様に国家への軍事動員の積極的協力が個人にとっての「自分の天職」の遂行になるとする教説に読める。しかしながら、敗戦後の戦後民主主義の時代には「世界の平和」や「人類の生長」はそのまま国家を超えた反戦平和の主張に、「自分の天職」も各人が取り組むべき個人主義的な人生の望ましい徳目に、同じ言葉(フレーズ)であってもこれまた正反対の意味に自在に解釈され読めてしまう。

「世界の平和」「人類の生長」「自分の天職」が大切な旨の主張をされて、それらもっともらしく正しい言説を明確に否定できる人は、ほとんどいない。だが、状況から解離して極度に抽象的で「正しい」人生訓だからこそ、それが状況によって如何様にも恣意的に自由に読めてしまうものなのだ。これら「人生論」における武者小路実篤の言説は「現実の時代状況に対する思想言説における抽象度の問題」を内包する難ありの極めてタチの悪い文章といえる。

こうした「世界の平和」「人類の生長」「自分の天職」の性善説的理想主義の規範、人間の正直勤勉を極めて抽象的かつ教条的に説くのは、武者小路実篤その人の文学者の資質として元から大いにあった。戦前、戦中、戦後を問わず一貫して変わらない武者小路の小説における「真理先生」「馬鹿一」の作中人物に見られるような、抽象的に勤勉で誠実で愚直なまでに正直者でありさえすれば、それで全てが許されてしまう、あの書きぶり。事実、武者小路実篤は十五年戦争の戦時には「大東亜戦争私観」(1942年)を書いて日本の戦争を全面支持していたが、敗戦後に「文学者の戦争責任」を問われ、戦後の復帰作「真理先生」(1951年)の作中で一転して自身の戦争責任に対する反省の弁を述べた。

こういった「現実の時代状況に対する思想言説における抽象度の問題」は、戦時に「余の尊敬する人物」(1940年)を書いた矢内原忠雄においても同様だ。矢内原は戦中に「余の尊敬する人物」を書いているが、戦後もその続編として「続余の尊敬する人物」(1949年)を出している。両著にて展開される各人の「尊敬」美徳の主なものは個人の「宗教的信念の貫徹」である。「常に自分を曲げす自身の信念を貫き通す」そうした宗教的信念の貫きの称揚は、戦時の「余の尊敬する人物」では、決して挫折したり撤回することのない個人の国家への軍事動員の積極的協力に読め、戦後の「続余の尊敬する人物」にては、同様に自らの信念を決して曲げない個人の国家を超えた反戦平和への働きかけに読めてしまう。それは矢内原の「余の尊敬する人物」における戦中・戦後の語りが、「現実の時代状況に対する思想言説における抽象度の問題」をはらんで極度に抽象的で漠然とした「どんな状況下にあっても自分の信念を貫き通す」といった人間美徳の「正論」であるがゆえに、その時代状況の文脈に沿って国家の戦争協力にも国家の戦争反対にも如何ようにも解釈できてしまうからである。そのような極度に抽象化された一見誰もが明確に否定できない耳障りのよい「宗教的信念の貫徹」という巧妙な抽象語りの策術にて、矢内原忠雄も武者小路実篤と同様、戦時の「知識人の戦争責任」追及を回避し、戦後に何事もなかったように見事復活できたのであった。

状況から解離して極度に抽象的で「正しい」人生訓だからこそ(「常に努力を重ねて勤勉でなくてはいけない」「どんな状況でも自分の信念を曲げてはならない」)、それが状況によって如何様にも恣意的に自由に読めてしまう。そこに時代や政治に関する実質は無責任の欺瞞が生じる。いつも自分が「正しく」なってしまう。

武者小路「人生論」と矢内原「余の尊敬する人物」の読みについては以上の警戒に尽きる。特に武者小路実篤「人生論」は、武者小路の語りの内容を読んで直接に学ぶのではなく、「現実の時代状況に対する思想言説における抽象度の問題」の「人生論」の語られ方の弊害策術を読み取って、各読者の「人生」に生かす、いわば「一周まわって」の教訓的読みが今日では、その落とし所であるように思う。