アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(4)ウルフ「どうしたら幸福になれるか」(その2)

岩波新書の青、ウルフ「どうしたら幸福になれるか」上下(1960、1961年)に絡(から)み、前回は「幸福論」というジャンルの読み物が成り立つ基盤そのものをまずは疑うところから始めた。つまりは、そもそも幸福論における「幸福」というのは規範ではなくて、ある状態に対する恣意的な極めて主観的な呼称である。

ゆえに往々にして他者への配慮を徹底して欠く。むしろ自分(たち)が「幸福」であるために、自分(たち)だけエゴイズム発露の欲望充足に走って他人を犠牲にしたり、他者を食い物にし、例えば金儲けをしたりして自分(たち)が「繁栄」し結果、私は「幸福」で「振り返ってみれば、他人はどうあれ少なくとも私は幸せな良い人生を送れた」と勝手に回顧できる他者の不幸の犠牲の上に成り立つ自分(たち)の「幸福」、そうした幸福論の陥穽(かんせい・「罠」「落とし穴」)というのは実は、いつの世でもかなり幅広く相当な頻度である。「だから幸福になることを最初から断念しろ」などとは、さすがに私も言わないが、自らが幸福を志向する場合、得てして「幸福」というのは規範がない、他者への配慮を決定的に欠いた主観的認識だから逆に他者への視点を繰り込んで、ただ単に「自分自身や、せいぜい自分の家族や友人らが幸せであればそれでよい幸福論に陥っていないか」「安楽に快適に自分たちだけが暮らすことが果たして本当の幸せといえるのか」絶えず自身に問い続けながら幸福を志向する必要がある。

極論でいえば「自分(たち)が幸福であるのを望むことが、そのまま同時に見知らぬ他者を不幸に追い落とす」といった過酷な状況も原理的にはあり得る。事実、現実の世界では残酷にも、そういった「自分の幸福か、さもなくば他者の不幸か」の二者択一な、どうにもならない避けられない極限状況は往々にしてある。そして「本当に自分が幸せになりたい」と心の底から願うとき、何の考えもなしに素朴に「とにかく幸せになりたい」とただただ言ってしまう人と、場合によっては他者に犠牲を強いて自身の欲望充足に終始するエゴイズム発露の「幸福」に陥る可能性があることも知った上で、それでも「幸せになりたい」と言う人とでは一見、同じような幸福志向の姿勢であっても、その精神的深まりの内実は天と地ほどの差があり、もはや「似て非なるもの」なのである。

以上のことを踏まえ、そういった自己本位な「幸福」論の陥穽についての言及を期待しながら「幸福論」や「人生論」の読み物を私は読むわけだが、この手のジャンルで古典の名著といわれるアランの「幸福論」(1925年)もヒルティの「幸福論」(1891年)もカーネギーの「道は開ける」(1948年)も武者小路実篤の「人生論」(1938年)も、そういった「幸福論」そのものが成り立つ基盤をまずは疑って、他者への配慮を欠いた自己の幸せ享受のみに終始する「幸福」の危険性に触れたものは残念ながらほぼ皆無である。少なくとも私の知る限りでは。

ウルフの「どうしたら幸福になれるか」も、その前のめりなタイトルが示す通り、他人のことは措いといて「とりあえず、まずは自分。とにかく、どうしたら私が幸せになれるのか」の自己の「幸福」享受の具体的方法からいきなり入る。そしてその獲得方法に終始し結局、上下二巻そのまま「どうしたら(私は)幸福になれるか」のみで終わる。しかしながら、ウルフの書籍には「幸福論」の幸福獲得のアプローチとして大変に参考になる記述があることも確かだ。幸福追求の具体的方法で、他の類似な「幸福論」より優れている部分もある。それはウルフという人が精神医学者で心理学の知識があるため、その学術的立場から気づいて幸せになるためのヒントを読者に的確に指南できている所だ。その点がウルフの「どうやったら幸福になれるか」の読み所であると私は思う。それは簡潔にまとめて以下の2点である。

「創造的な代償作用の必要性」と「フロイト派精神分析に対する批判」

幸福論の「基本原理」として「人生は芸術」であり、「幸福な人間になるという芸術は、創造的な自己彫刻(創造的に自分を彫刻していく)という過程に似たものだといえる」とするウルフにおいて、「創造的な代償作用の必要性」についての記述は、彼の「どうしたら幸福になれるか」上下巻の中でかなり大きな割合を占める。ウルフ流に言えば「自分自身の劣等感とよい友だちになる」。つまりは劣等感(コンプレックス)や欠点は誰にでもあるもので、それらが皆無な完全な人間などいない。むしろ「人間は自分自身の不足感を経験する唯一の生きもの」ですらある。そして、人間は「自分自身を社会的に適応した人間にすること」ができる。だから身体的欠陥や社会的・経済的要因からくる不足に対し、「創造的な代償作用」という手法の提唱である。

「欠陥のある身体器官または能力を鍛錬することで劣等をなくす」「他の働きで劣等な働きを代行する」「その欠陥が有利であるような状況をつくりだす」「代償についての『心的な特別な機構』をつくることで、劣等な器官や能力の特殊な感受性が社会的に有用な行動に変わるよう働きかける」

「創造的な代償作用」とは、およそ以上のようなことを指す。確かにそうだ。こういった「創造的代償」のアプローチは障がい者教育では昔から実践されており、身体に不自由がある人なら、その欠損の埋め合わせをするような適応の鍛錬を自らに課したり、自分が適応できる分野を新たに探し出したりする。例えば手足が不自由な人で、口で筆をくわえて驚くほど巧みに絵を描く人がいる。例えば視覚が不自由で目が見えない人は、往々にして聴覚が非常に発達していたりするものである。そして時に音楽の才能を遺憾なく発揮したりする。例えば人見知りで人付き合いが苦手な人でも、下手にたくさん友達を作らず、自分の家族や身の回りの人達を大切にし密度の濃い人間関係を構築し、ゆっくりじっくりと育てていけばよいのではないか。欠損や劣等に対し悲観的にならず自身を責めず、自分の人生に対する肯定の自尊、そういったスタンスをとるべきだ。ウルフによれば、「社会的適応が人間として幸福になるための、ただ一つの容易な最良の方法だ。…勇気を持って人生を肯定する。教育のただ一つの真の目標は、独立と勇気と社会的適応」である。 そして「ノイローゼ、神経症、犯罪、アルコール、熱狂的な信仰、不平不満の吐露、感受性肥大…それらは劣等感の誤った代償作用なのである」。

次の「フロイト派精神分析に対する批判」とは、「ノイローゼに関してのフロイト派の分析の誤り」を指す。「人間行動の静的な解釈ではなくて動的解釈だが、ノイローゼの機械的な因果関係を明らかにする」フロイトの方法は、ウルフによれば明らかな誤りである。「どんなノイローゼについても知らねばならぬ重要なことは、そのノイローゼの目標あるいは目的」であって、「フロイトのようなノイローゼの原因・起源ではない」。そしてウルフは「フロイト派の精神分析」に対置させる形で、「アドラーと生命的な見方」を「反フロイト」として主張する。

つまりは以下のようなことだ。フロイト派の精神分析はノイローゼや神経症の原因・起源を探る方法だけれど、その病根への原因・起源のアプローチは機械的で因果律の「味気のない失敗の仕方」に過ぎない。なぜなら患者のノイローゼや神経症の原因・起源が解明しても、それはある意味「静的」な因果律の病状説明でしかないからだ。すなわち、ノイローゼや神経症が患者に対し現にどのように作用しているかの認識を欠く。ノイローゼや神経症、またはそれらの原因起源に関するフロイト派精神分析の因果的説明が自分の「失敗についての一時的ないいわけ」として機能したり、自身の「自我価値の最終的な試練の無期延期」の口実になる。そういった目的で患者が現状を甘受し、病気に依存してノイローゼや神経症であり続けることの「目的因」を見逃す。だからフロイトのような原因・起源の分析ではなく、むしろ逆の「アドラーによる目的因、内在的目的論でノイローゼや神経症を説明」の有用性をウルフは説く。

なるほど、これも確かにそうだ。やたらフロイトの精神分析の書籍を読み漁(あさ)り、中途半端に心理学の知識があって自身のノイローゼ気質や神経症的傾向に関し自分の過去を振り返り、「幼少期の家庭環境が良くなかった」「母親の愛情が足りてなかった」、つまりは「現在私が不幸であるのは××のせい」と原因追求の因果律でフロイト並み(?)に自己分析する困った人が実際に周囲の身近にいないだろうか。現在自分が苛(さいな)まれているノイローゼや神経症の原因起源を説明づけることだけに終始して、親や家族や友人に恨み事の八つ当たりばかり。逆に現在、自分がそのようなフロイト的原因・起源の精神分析に依存し熱中していること自体が、ノイローゼや神経症の治療に乗り出さず「現状のままでよい安楽な自分」を心理的に保持している。解決先延ばしの現状肯定の言い訳として原因追求のフロイト派精神分析が機能する。その人が本当に知るべきは、自分がノイローゼや神経症になって自分を呪って「私は本当に不幸だ」と心行くまで嘆きたい自身の行為に秘められた内在的目的である。「私は不幸」でフロイト流にその原因起源を分析追求すればするほど、その人は決断引き延ばしの言い訳の現状肯定、恨み事の怨念(ルサンチマン)の深みにはまって、ますます「不幸」になっていく。絶対に「幸福」にはなれない。

その他にも様々な「幸福への処方箋」を多岐に渡ってウルフは述べている。「お金・力のフィクション」(金銭は「目的」でなくて生活のための「手段」という正しい認識)や、「どうしたら上品に年をとることができるのか」(我執にとらわれないこと、ユーモアの大切さ)などである。なるほど、だいたい他の人が執筆の「幸福論」の著作と重なる内容となっている。それはそうだ(笑)。「幸福論」といっても、そんな一般の人がなかなか気づかなくて「一度読んだら目から鱗(うろこ)」で読んだその日から即効性があって誰にでも出来て効果抜群な「必殺の幸せになれる方法のアドバイス」など、そうそうあるものではない。違法な麻薬(ドラッグ)ではないのだから人間はめったなことで多幸感を味わったり、そう簡単に幸福になれたりはしない。幸福論も人生論も試しにあれこれ読み重ねていくと、「幸せになるためには、人生を充実させて生きるにはどうすればよいか」の提言(アドバイス)の内容重複は実に多い。各書ともいつも同じことが書かれている。

幸福論や人生論に関する著書で、例えばアランの「幸福論」やカーネギーの「道は開ける」は最初に本格的に書かれた幸福論や人生論の分野開拓の古典として今後も版を重ね、ずっと売れ続けて人々に読まれ続けるだろう。しかし、後続の新出の幸福論や人生論の書物は、先に述べたように「人間が幸せになれる目から鱗の必殺の方法」など、そう簡単にあるわけもなく、何しろ「幸福論」や「人生論」の著作はネタの重複で話は相当に限られているので、これからは「どんな内容かよりも誰が書いたか」で「幸福論」や「人生論」の分野の書籍は売っていくしかないのではと思う。例えば、事業に成功して高所得な世間一般の人が羨(うらや)む会社経営者が執筆した「幸福論」、どん底の境遇から一念発起して短期間で難関の学校に合格したり難しい資格習得したりした人が書いた逆転の「人生論」、芸能人や有名人で皆に人気の方が記した「幸福論」や「人生論」である。

だから結局は話は冒頭に戻って、「幸福論」というジャンルの読み物は非常に怪しくて相当に胡散臭(うさんくさ)いという結論に私は、たどり着いてしまう。