アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(5)大江健三郎「沖縄ノート」

岩波新書の青、大江健三郎「沖縄ノート」(1970年)と「ヒロシマ・ノート」(1965年)は二冊でセットの新書だ。必ず二冊読んで、それらに共通して貫いているエッセンスを読み取らなければ実は「読んだことにはならない書籍」である。これら書籍は個別に一冊ずつ近視的に部分的に読むのではなく、いわば「全体からの読み」が求められているのだ。

私は昨今の時事問題から、以前に読んだ「沖縄ノート」と「ヒロシマ・ノート」を思い出すことが多かった。民主党に政権交代(2009年)になって沖縄基地問題がクローズアップされると「沖縄ノート」を思い出し、東日本大震災にて福島第一原発の放射能漏(も)れ事故(2011年)が起こると戦後日本の原子力政策の「日本人と核の問題」を反省的に総括する必要に迫られ、「ヒロシマ・ノート」のことを思い返す。「沖縄ノート」は「ヒロシマ・ノート」とセットでつながっているので、本書での問題は「米軍の核兵器をふくむ前線基地として朝鮮戦争からベトナム戦争にいたる持続した戦争の現場」であることを強いられる沖縄、つまりは沖縄に米軍基地があることの批判根拠の中心に「沖縄を覆う核戦略体制の問題」や「米軍による核持ち込みの問題」が大きくある。アメリカ原爆投下批判の「ヒロシマ・ノート」から一貫してブレない「日本人と核の問題」に対する大江の問題意識である。近年の沖縄基地問題は基地そのものの縮小・移転や滑走路増設の是非が主な話になっているが、「沖縄ノート」の場合、「ヒロシマ・ノート」とつながってるから議論の中心は「日本人と核」なのである。

「沖縄に核兵器が配属されているとの憶測は以前からなされていた…原子力潜水艦が那覇港に自由に出入りする。一次冷却水がふんだんに放出される…それにさきだって那覇港の泥からコバルト60が発見された…那覇軍港で働く潜水夫たちが躰の異常を訴える。…しかし、そこで行きどまりだ。米軍は潜水夫たちの異常が放射能に由来しないと言明し、本土の原爆病院へかれらを送り出そうとする全軍労のプランを押しつぶす」

以上は本書での48─50ページのくだりだ。核の配備とそれに伴う放射能汚染での被曝。「沖縄ノート」は「ヒロシマ・ノート」と核の話で連続してつながっている。そして、このかつての那覇軍港の泥のコバルト60の放射性物質による被曝汚染の問題から、近年(2004年)の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落し放射性物質のストロンチウム90が周辺にバラまかれた事故を思い起こすことは容易である。「沖縄をめぐる状況は以前と何も変わっていない」と改めて思い知らされる。

本書は、大江が沖縄を訪れて平和運動の過程で現地で出会った人々のことなどを述べながら、戦略的核体制にのみ込まれ米軍が占拠する沖縄、しかもその米軍占領を許している本土の日本政府という二つの「権力」に苦しむ沖縄を描いている。そして、さらに大江健三郎本人は本土の日本人であり、「僕自身における戦後民主主義について、また倫理的想像力について、自分のうちがわの暗く血の匂いのする深みにスクリューのようにも自分をねじこみつつ考え続けるための手がかりとして、沖縄ノート(沖縄に対する考察)を強く必要とする」旨を最後にまとめている。つまりは、沖縄の基地問題に対峙すると必然的に「倫理的想像力」が働いて、「自分のうちがわ」にある沖縄への集中的な在日米軍基地押し付けの、本土の日本人のエゴイズムたる「本土エゴイズム」に気づき、ぶち当たってしまう。しかしながら安易な解決の道はなく、ともかくは自己の内面を見つめる深化された人間意識に「沖縄ノート」を介してたどり着く。他者を通じての自己の再発見の自己深化、「文学の本領」がそこにある。そもそも「文学」とはそういったものだ。大江健三郎は沖縄という他者と出会って、自身の内奥を見つめて新たに何かを発見する超一級の破格な文学者であるといえる。

さて、ここで終わりたかったのだが、大江健三郎「沖縄ノート」に関しては旧日本軍による集団自決強制の有無をめぐる裁判が近年あって、そのことに触れないわけにもいかないので最後に述べておこう。

「旧日本軍の指揮官が当時、島の住民に集団自決を命令して強いたことが『沖縄ノート』に書かれているが事実に反する、自決命令はなかった」として当時の日本軍元大尉らが名誉毀損で大江を訴え、損害賠償と「沖縄ノート」の出版差し止めと謝罪広告の掲載を求めた裁判が起こされ、最高裁まで行って原告敗訴、元軍人らの訴えは認められずという結果になっている。そのため以前と変わらず「沖縄ノート」は出版差し止めにもならず、現在でも手に入れて読める。裁判があって、集団自決命令有無の問題に関心を持って初めて「沖縄ノート」を手にして読む人は、おそらくガッカリするのではないかと思う。というのも実は旧日本軍指導者が集団自決を強制指示の話は本書では最後の第9章の中に、もちろん実名表記でなく「慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男」として少し出てくるのみである。名誉毀損で裁判を起こすくらいだから、本の全体を使って最初から詳しく検証を重ね、集団自決を強いた元大尉への糾弾記述が相当な分量あるのかと思えば、そうではない。この話が出てくるのは最後の第9章の数行のみだ。名誉毀損で出版差し止め請求するなら、もっと大々的に執拗に書いている「戦争責任」関連の家永三郎の著書や、「人民の歴史」系の書物を多数出して詳しく論じている青木書店や明石書店を訴えて出版差し止め請求したほうがと私は思うが、なぜか不思議なことに岩波新書の大江健三郎「沖縄ノート」なのである。

この裁判は背景には、かなりの政治的意図の駆け引きがあって、純粋に「沖縄ノート」の内容記述が名誉毀損にあたるから原告の元大尉らが大江を訴えたというのではない。原告の元大尉らの支援者を見ると、当時の自由主義史観の「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーが名を連ね、裁判を支援し応援している。「沖縄戦にて旧日本軍による集団自決命令があったかどうか」は、実は前から教科書検定の場で合格か修正かの攻防がずっとあって、旧日本軍の関係者や「作る会」の面々は「強制自決の事実はなかった」検定結果に世論をリードし、そちらの方向に是非とも持っていきたい。それで本書での、いわゆる「強制自決を強いた」に関する内容記述の分量バランスはともかく、メジャーな出版社、つまりは「岩波書店」で、しかも世間一般に比較的名前が知られた人物、すなわち「大江健三郎」で、岩波新書の大江「沖縄ノート」が標的にされて名誉毀損の出版差し止め裁判で訴えられる。「作る会」の世論の巻き込みを意図した政治的キャンペーンのために狙われて唐突に裁判で訴えられた大江健三郎は、かなり気の毒だ。

保守・右派の人たちにとって、「日本の近代を軍国主義の超国家主義で批判され悪く言われたくない」という素朴な反発に加え、「今後の将来のための軍隊イメージ」は非常に大切で神経質になり気を使うわけで、すなわち将来的に「国民の生命と財産の保全」名目のための日本の軍備の増強や憲法九条の改憲、さらには戦略的核武装を進めるにあたり、「過去に日本の軍隊は日本の国民を全く守らなかった。例えば沖縄戦では軍人が現地住民に集団自決命令まで出していた」といった話が出てくると非常に困る。「軍隊は常に国民の生命と財産の安全を守るフィクション」がないと今後の再軍備や改憲世論に差し障(さわ)りが出るから。

ここでは、あえて「軍隊は常に国民の生命と財産の安全を守るフィクション」と言ったが、やはり「フィクション」なのである。日本の近現代史を真面目に少しばかり勉強すれば分かるのだが、近代日本において日本の軍隊が非常に気を使い常に最優先して守り防衛してきたのは、天皇の国体であり、日本の領土であり、大陸における日本の国益であって、国民の生命や財産ではない。天皇の国体・国益と、国民の生命・財産の安全とを天秤にかけたら、日本の軍隊は前者の国体の安寧・国益の確保を優先順位で取ってきた。十五年戦争の末期、対アメリカの太平洋戦争にて沖縄が陥落しても、制空権を握られ連日連夜、日本本土に空襲かあって多くの国民の生命と財産が危険にさらされても、天皇制の国体護持に執着の最優先で最後の最後まで終戦工作にまごつく政府と軍部である。そんな軍隊が幅を利(き)かせていた日本の近代であったのだ。このことは今でも十分に強調されてよいし、繰り返し何度も確認されてよい。だから保守・右派の連中は今後の再軍備に関わる軍隊イメージには非常に敏感になるし、その都度、修正を施したくなる。そして、その延長上に「沖縄ノート」の裁判がある。

大江健三郎「沖縄ノート」が狙い打ちにされて裁判で訴えられたのは、曽野綾子「ある神話の背景」(1973年)という「沖縄ノート」批判の書籍が以前にあって、それがあるので原告側の元大尉らや「作る会」は裁判に持ち込んで「勝てる」と見込んだフシもあったと私は思う。しかし冒頭の話に戻るが、曽野綾子「ある神話の背景」は沖縄現地に取材に行って関係者証言の信憑性を再度、確かめる実証作業からの異議反論で、「沖縄ノート」を読む際には本書だけでなく「ヒロシマ・ノート」とのつながりまで押さえた上で読む」、つまりは「全体からの読み」で大江健三郎が一貫して論じ抜いてみせた「日本人と核の問題」に本質的に触れていないので本の読み方として明らかに破綻している。

大江健三郎「沖縄ノート」に関しては、本読みのセンスもないのに、やたら執念深くて政治的キャンペーンに長(た)けた人たちに突然、裁判で訴えられる。「変な人たちから一方的にチョッカイ出されて大江さんは実に気の毒だな」という思いを私は禁じ得ない。